【小説】11 これからの逆転劇のために

 カランとドアの開く音がして顔を上げたら、義妹が私に気づいて会釈するのが見えた。私も右手を挙げて答える。約束の時間を五分ほど過ぎたところだ。
「すいません、ちょっと電車が遅れて」
「ああ、いいからいいから。何にする?」
「ええっと……」
 彼女はメニューの書かれたカードを上から下まで丹念に眺める。ひととおり目を通すだけではなくて、たぶん何往復も見ている。そんなに時間をかけるほど選択肢が多いわけでもないと思うのだけれど、彼女はあくまでも、メニューひとつひとつを吟味して選んでいるように見える。
「……じゃあ、アイスカフェラテで」
 こういうところを見ているとほんとうにマイペースな子だなと思うけれど、そのじつ、真面目で、ただ要領があまりよくないのだと弟から度々聞いていたのを思い出す。損なタイプかもしれない。
「ほんまに、すいませんでした。お待たせして。お義姉さんいつも早いから、今日こそは私も余裕持って行かなあかん思てたんですけど」
「いいの、待つのは慣れてるから」
 彼女はちらりと私の前にある空いたカップを見た。
「あ、もう二杯目頼んであるの」
「すいません……」
「ちょっと早めに来て仕事してただけだから。嫌味とかじゃないのよ」
 仕事をしていたのは本当のことで、私はノートパソコンを閉じてテーブルの上の場所を空けた。
「外は寒くなかった? 飲み物、冷たいのでいいの?」
「大丈夫です。急いで来たら汗かいてしまって」
 確かに額に汗が滲んでいる。マイペースそうに見えて本人はいたって真剣に頑張っている、というのは、よく見ているとわかる。最初の頃は、私のほうでそうと知らずに苛立っていたけれど、もう十何年の付き合いとなるとそんなこともなくなった。
「お仕事、忙しいんですか」
「そんなに大変ってほどでもないんだけどね。たまにはこういうお店でいろいろ考えるのも、何かいいアイデアが出るかと思って」
「さすが次期編集長ですねえ。できる人って感じがします」
「おだてても何も出ないよ」
 関西弁というものへのイメージはこの子と会ってだいぶ変わったな、と思う。テレビで見るような漫才師なんかが結構なハイスピードで喋る言葉だと思っていたのだ。義妹は、彼女自身のおっとりした性格のせいもあるだろうが、柔らかいふわふわしたトーンで、ゆるい抑揚をつけながら話す。童謡でも歌うような調子だ。私の標準語のほうが余程早口で硬質だと思う。
 甥っ子――つまり弟と彼女の子どもだが――は元気かと聞くと、最近は以前にもまして無口だと彼女は苦笑する。
「反抗期なんですかねえ。まあ穏やかなのは前と一緒ですけど。喋らへんだけで一緒に出かけたりするのは嫌がりませんし」
「それは反抗期とは言わないんじゃない?」
「ただ、ピアノの練習にあんまり熱が入ってなさそうなんが気になりますね」
 そんな調子でふわふわした雑談をしている間に飲み物が運ばれてくる。義妹は「すいません、喉乾いてるんで失礼しますね」と言うやいなや、カフェラテを一気に半分以上飲んでしまった。私はつい苦笑する。
「そんなに喉が渇くほど急いで来たの?」
「まあ、ちょっと出がけにバタバタしてまして……」
 彼女はグラスをテーブルに戻して前髪を直す。
「あの子とけんかでもしたの?」
 けんかをするような夫婦ではないとわかっていたので冗談のつもりで聞いたのだが、彼女は「いえ、けんかというか……」と言い澱んだ。
「え? 本当に何かあったの?」
「あ、そうやないんです。けんかしたわけではなくて。コップを落として割ってしまって」
「コップ? あの子が落としたの?」
 なんとなく、嫌な予感がした。
「たいしたことやないですよ。一緒になって片付けてたからちょっと出かけるのが遅れて、それでもぎりぎり間に合うかなあなんて思ってたら電車も遅れて……」
「ねえ、あの子、大丈夫なの?」
 話を遮ってしまうのは悪いかとも思ったけれど聞かずにはいられなくなり、私はいきなり本題に進んだ。
「あのあと、何度か電話では話したけど、もう何ともないから、大丈夫だからの一点張りなの。いつも私には変に気を遣うから……本当なら家にも顔出したいところだけど、それも勝手かもしれないし」
 義妹は少しの間気まずそうな顔で黙っていたが、覚悟を決めたように一度きゅっと口を結び、それから話し始めた。
「もうこの前の検査でも異常はありませんでしたし、意識もちゃんとして、歩き回ったりもできます。ただ、手が」
 さっきの嫌な予感が当たらないようにと、私はまだ願っている。
「手が、どうしたの……?」
「動かへん、言うてます。左手が」

 弟が脳梗塞で倒れた、と聞いたのは、まだ残暑が厳しくて目の前がちかちかするような日だった。
 病院に向かいながら私は、ずっと恐れていたことが起きてしまうんじゃないかと、不吉なことばかりが頭をよぎって気が気でなかった。どうかまだ、あの子を連れて行くのはまだ、もう少し待ってください――私は半ば馬鹿げていると思いながら、半ば本気で、どこの誰かもわからない相手に向かって祈っていた。
 身内の贔屓目と言われるかもしれないけれど、私から見て、弟は天才だった。まだ小学校にも行っていなかった頃から、ずっと早くにピアノを始めていた私を軽々と追い越して、あの子は自由自在に音楽を鳴らしてみせていた。ピアノだけじゃなく、どんな楽器を手にしても、あの子はすぐにそれをものにしてしまった。しかも、彼の演奏はただ技術的に優れているというだけではなかったと思う。彼の弾くピアノは、ときに私を遠くへ連れて行く。そこは異国のような街であったり、知らない海であったり、誰かの庭であったりした。またあるときは、彼の鳴らす音が表情をもって語りかけてくる。私にないものを彼は持っている。彼はきっと神様に愛された人間なんだと、そう思っていた。
 何の根拠があるわけでもない。ないけれど、私はなぜか、弟がそのうち神様に連れて行かれてしまうんじゃないかと、幼心に怯えていた。大きくなるにつれてさすがにそんな考えは馬鹿馬鹿しいと思うようになっていったけれど、それでもあの恐怖や畏怖のような感覚はなかなか消えずに、大人になっても残ったままだった。ある日突然、弟がふっといなくなってしまうのではないかという、漠然とした怖さ。そんな弟の才能そのものに対するおそれも少なからずあった。
 だから、弟が「ピアニストは目指さない」とはっきり言った時、私は正直なところ安心したのだ。彼は私たちの手の届くところにいてくれるのだと。
 けれども彼は、私が音大の受験に失敗して音楽とはきっぱり縁を切ったのと違って、結局音楽のそばにいる生活というのを捨てはしなかった。「僕、教えるのは結構好きかもしれない」と言って、彼は音楽の先生になった。小学校で教えながら、自分でもピアノ教室を開くようになって、その教え方が上手かったのかどうかは私にはわからないが、たまに会うと教え子がどんなふうかということばかり楽しそうに話していたから、実際向いていたのかもしれない。
 そんな弟の様子をしばらく見てきて、この子はもう自分の才能とうまくやっていけている、根拠のない心配をすることはないと思い始めた矢先に、彼が倒れたという報せを聞いたのだった。
 学校での仕事も忙しいのに自分でピアノ教室までやっていて、過労だったんじゃないか、と医者に言われたらしい。ごめんなさい、私がついていながら、私がもっとちゃんと見ていたら――病院で義妹はそう言って肩を落とした。あなたが謝ることはない、と言った記憶がある。あの子はただ、あまりにも音楽の神様に愛されただけだ、と思いながら。
 その神様は弟を連れて行くことはしなかった。けれどその代わりに、自由に音楽を奏でることを、彼に禁じてしまったのだろうか。
 弟の左手が動かない、と聞いて、私は運命の残酷さのようなものを呪った。
 
「右手は何の問題もなく動くらしいんです。それで、なるべく一人でいろいろできるようにって頑張ってはるんですよ」
 そういう義妹の話は私の耳をほとんど素通りしていく。
「……あの子、ピアノには触ってる?」
 そう尋ねる自分の声がかすれている。義妹は眉をひそめて、少しためらいがちに首を横に振った。ああ、やっぱり。
「左手が動かないから弾かないのか、弾きたくないから左手が動かないのか、私にはわかりません」
「動かないから弾かないのか、弾きたくないから動かないのか……」
 私はぼんやりしたまま義妹の言葉を繰り返した。彼女は黙ったまま頷く。
「あの子が、弾きたくなくなることがあるなんて……」
「リハビリの時も、なんだか手の動きは初めから諦めてるような気がしたんです。ほんとうのところはわかりませんけど」
 思うように動かない左手。リハビリで人並みには動くようになったとしても、以前のように鍵盤の上を自由に駆け回ることは叶わないかもしれない指。それを想像して自分に当てはめてみて、やっぱりそうなったら私も、いっそ左手がずっと動いてくれなければいいと思うかもしれない。演奏ができなくなった自分を、誰よりも私が見たくない。
「だけど、すぐにではなくても、いつか……いつか、また音楽をやるようにはなってくれるって、私は思います」
 その言葉に私は驚いて、急に意識を引き戻されたような気分になった。
「それは、何か理由があるの……?」
 恐る恐る聞いてみると、彼女は少し困ったような顔をする。
「はっきりあるわけやないんですけど。でも、あの人がそんなに簡単に音楽からきっぱり離れることって、ない気がして」
「手が思い通りに動かせなくても?」
「たぶん、時間はかかると思うんですけど。あの人がピアノ教室で、子どもたちと、音を通していろんなことをお話ししてるの見とって、覚えてるからかもしれません。大人しそうだった子も、ちょっと生意気な感じの子も、みんなあの場所で音を鳴らしてる時、すごく楽しそうで、ええ表情になってました。それを見てるあの人もほんとうに嬉しそうやった。元々、自分は表舞台に立つまいと決めていた人やし、きっといつかは、自分が思い通りに弾けない辛さよりも、そういう子らと、また音で遊びたい気持ちのほうが勝つんと違うかなあって、そんな気がします」
 いつものんびりしていて、あまりはっきりした物言いをしない義妹がこんなふうに言い切っている。それは私にとって正直意外だった。
「私だったらもう、絶対に無理だなあ。音楽の道に戻るなんて……」
 つい心の声が漏れていた。
「お義姉さんは、どうしてピアノから離れてしまったんですか?」
「ストレートに聞くねえ」
 私は苦笑しながら、それでも淡々と答える。もう他人事のように話せるぐらいには昔のことだ。プロを目指していたけれど、弟の才能を目の当たりにして自信をなくしたこと、元々チャンスは一度だけだと親と約束していたこと、その一回きりのチャンスを風邪でふいにして音大には進学できなかったこと。
「プロになれないなら、もう音楽を続けることはするまいと思っていたの。思うように弾けなくて苦しむのはもう心底嫌だった――あの子は、きっとそういう苦しみを知らずに来たと思うけど」
「お義姉さんのピアノが好きで、ステージの上はお義姉さんの場所だと思っていたって、そう言うてましたよ。だから自分は表舞台には立たずに、昔のお義姉さんのような子どもたちだとか、それか、音楽がその子にとっての大事なことばになるような子を、教えたいんやって」
「ああ……そういえば私も聞いたなあ。あの子が高校生の頃だったか、進路はどうするのかって話した時に。本心がどうなのかはわからないけど、ほんと、昔から変な気の遣い方ばっかりして」
 私はまた苦笑いしようとして、なんだか年甲斐もなく泣きたくなってしまった。
「どうしてこんなことになっちゃうんだろうね。誰が悪いっていうこともないのに」
 誰も悪くないと、私はそう思いたかった。弟がその才能を音楽の道で気兼ねなく生かすという選択をしなかったのは私のせいかもしれないし、彼が倒れる前に、私や義妹や、学校の先生たちが気づけたかもしれないとしても。
「なんやろ、人生って、よくわかりませんね」
 義妹は言葉をひとつひとつ選ぶように、ゆっくり話し始めた。
「彼がもしプロの音楽家になっていたら、私はたぶん彼と出会えていませんでした。彼にとってよかったんかはわかりませんけど、私は、彼と会ってだいぶ救われたなと思うんです……あの、本題から逸れてしまいますけど、少しだけ私の話してもええですか?」
 静かではあるけれど、ゆったりと寄せて返す波のような力が感じられる声だと思った。彼女はこんな話し方をする人だっただろうかと、またしても思いながら、私はその話を聞くことにする。

「私、昔からずっと、何か持ってはる人がうらやましかったんです。持ってはる、いうのは、その人にとってこれと思うもの、いうか。あの人にとっての音楽もそうでしょうし、お義姉さんのピアノも……」
「まあ、私はともかく、あの子は持ってるかもしれないけど……」
「お義姉さんも、プロを目指してはったんですから。ともかく、そういう才能とか、小さい頃からずっと打ち込んできたもんとか、そういうんを持ってはる人です」
 才能という単語に、私の考えていたことを見透かされたような気がして少しきまりが悪かったが、私は黙って続きを聞くことにした。
「要は、そんな人が、私はずっとうらやましかったんです。私、そもそもどこか目指す場所があったわけやなくて、ただ自分のいたところがなんとなく嫌で、そこから出たい一心で上京しましたけど、結局そのままやりたいこととかなりたいもんとか見つからずに過ごしてましたから」
 私にはまだ彼女の言わんとすることがつかめなかった。
「その頃の……こっちに来てから十年ぐらいの頃の私は、すごく、嫌な奴やったと思います。人をうらやんで、自分を卑下して、それでいて何もしない。実家を出たところで箱入り気質は変わらへん、環境が人を変えるなんてそんなん嘘やて、そう決めつけてました」
 彼女がそんなふうだと思ったことはなかった。確かにおっとりしてマイペースに見えるところは、もしかしたら彼女のいうところの「箱入り気質」なのかもしれないけれど、他人をやたらとうらやんだり、何も努力しなかったりという人物像は、私が見る彼女とも、弟の話に聞く彼女とも違っていた。
「じゃあ……それから変わったの?」
 そう尋ねてみると、彼女は笑顔を見せて頷いた。
「持ってる、持ってへん、で人を分けて、それでええ悪いを決めるの、やめることにしたんです。彼と会ってから。持ってるかどうか、いうのは本質的なことやなくて――なんていうんですかね、結局持ってようが持ってなかろうが、その人がどうしたいか、誰と一緒にいたいか、どんな人間でいたいか、みたいなことを、そん時そん時、自分の頭で精一杯考えて決めてくしかないし。それでうまくいかへんこともあるでしょうけど、たまに、あ、これで正解やったなと思える日があれば十分なんと違うかなと、そう思うようになりました」
「自分の頭で……」
「あの人に音楽の才能があったんは――あ、もちろん練習とかいろいろ努力してはるのは知ってますけど、いちばん最初に生まれついての才能があったんは偶々で、私が上京してきてあの人に会ったんも偶々ですけど、でも、あの人がピアノをやめたんも、音楽の先生になったんも、ピアノ教室も、全部、あの人が自分で決めたことです。私も、あの人と一緒になったんは自分の頭で考えて決めたことやし。今回、あの人が倒れてしまったんはちょっと、結構おっきな減点やったかもしれませんけど、それでもこの先、あの人はちゃんと自分でどうしたいか考えて決めはると思います。私もおんなじです。そうやって積み重ねていったら、またいつかは、トータルで見たら私たちの勝ちやって思える気がしてるんです」
 彼女の口調は徐々に強く、速くなっていった。私が黙っていると、彼女は急にはっとした顔をして、「すいません、なんか、私の中でもあんまりまとまってないのに、わけわからんことを急に……」と謝り始める。私はそれを制して口を開いた。
「大丈夫。言いたいことは伝わった。大丈夫」
 それからもう一言、「ありがとう」と付け足した。弟の人生は弟のものだという、単純だけれど肝心なことを、私はもしかしたらちゃんとわかっていなかったのかもしれない。
「あと、一つ言い忘れてました。もう最近はね、ピアノ弾けなくても音楽の授業できるようにするにはどうしたらええかって、考えてるみたいです。だからね、きっと、またこっから挽回できると思います。完全に元通りの道には戻らなくても、またちょっと別の道で、それもたぶん、間違いやないんです」
 思いがけないことも、思い通りにならないことも起こる。それでも絶望してしまわないで、精一杯の選択をしていった者勝ちなのかもしれないという、当たり前のようでなかなか信じ続けるのは難しいことを、彼らは信じて前に進もうとしている。今日の義妹の話しぶりがなんだかいつもと違うように感じたのは、そのあらわれだったのだろうか。
 私は、運命のようなものを呪った少し前の自分を思い返して苦笑し、それから今度は彼女に笑みを向けた。
「じゃあ……ここからあの子の逆転劇が始まるわけね」
「まあ、何と戦うのかようわかりませんけど……そうなると思います。私たちの……私たち家族みんな、お義姉さんも入れて、みんなの逆転劇ですよ」
 お義姉さんのことも頼りにしていますから、お願いします、と言って彼女は深々と頭を下げる。こちらこそとお辞儀を返して、私はもう一度「ありがとう」と呟く。ありがとう、あの子と一緒に生きて行こうと決めてくれて。

書くことを続けるために使わせていただきます。