【小説】4 植物観察のしかた
天気雨の中で、傘も差さずに佇んでいる。
むせ返るような緑の匂いと、濡れた路面の匂いが混じる。夏の匂いだ。雲の隙間からやわらかい橙色の光が差し込んで、空中で水滴に反射してきらめく。とめどなく降る雨は強く地面を叩く。ばらばらと音が響く。私は西の空を見上げる。顔に雨粒が当たるが不思議と痛くはない。上空をすごい速さで雲が流れていくのが見える。体ごと振り返って東の空を見る。不気味なほど黒い雲を背にして、雨のカーテンがたなびいている。一瞬だけ、ざあっと雨が強まって、私は目を細める。もう一度開いた目でカーテンに映った虹を捉える。ああ、あの時と同じ光景だ、と私は思った。
行かなくては。
「あのう、降りないんですか」
はっと目を覚まして顔を上げた。自分がどこにいるのか思い出すのに数秒かかったが、学校の最寄り駅の名前が目に入ってようやく我に返った。
「ああ! 降ります、降ります」
私は慌てて立ち上がり、ドアが閉まる寸前でホームに降り立つ。声をかけてくれたのは誰だったのだろうか。おそらく近くの高校の男子生徒だった。駅に着いても眠りこけたままの私に気づいてわざわざ起こしてくれたのだろう。親切な人だ。まだ近くにいはしないかと周りを見回してみる。当たり前だが似たような服の学生ばかりで、どれがさっきの人なのかはまるきりわからない。すみませんでもありがとうでも、何か一言ぐらいあいさつすればよかったが、咄嗟のことでそこまで気が回らなかった。
県境をまたいで、都内にある高校までは家から一時間と少し。家の最寄り駅ではまだ電車が空いていて座れるし、帰りも途中からはたいてい席が空くから、さほど苦痛ではないと思っていたが、それでも中学生の頃と比べたらかなりの長距離移動には違いないし、疲れるものは疲れるらしい。ここ最近、いつの間にか電車で眠り込んでしまう日が増えた。
誰に見られているわけでもないだろうが、なんとなくやれやれという表情を作って、髪を直しながら改札を出て歩く。この季節は湿気のせいで癖毛がことさら厄介だ。雨は嫌いではないけどこればかりはどうにかならないものかと毎年思う。今朝のように傘を差すかどうか迷うぐらいの小糠雨は一番たちが悪い。
いや、たちが悪いのは私の髪であって、雨そのものが嫌いなわけではないのだ。梅雨時に雨が降るのは正しいことだ、あらゆる生きもののために。それに、私は雨の日に見る草花も好きだ。しとしと降る雨の中で咲くアジサイなどはいかにも風情があるし、心なしか、クチナシやユリの花もいっそうくっきりと匂い立つような気がする。雨上がりの朝には、通学路沿いの庭先に咲いたバラが、宝石をまとっているかのように艶やかだ。
そうだ、もうすぐ夏が本番を迎えるのだと思いついて、私は寝起きのだるさが残る身体が少し軽くなったように感じた。
一年の中で、生命というものが最も色濃く、騒々しく主張してくる季節。それが夏だと私は思っている。やかましいぐらいの蝉の声。にわか雨に濡れた草木の呼吸。田圃に広がる緑。おそろしいほどくっきりとした色で咲く向日葵。畑に実る、はち切れそうな夏野菜。それらすべてにじりじりと照りつける太陽。
私は待ちわびているのだ。生きものの声が明瞭に聞こえてくる季節を。
それは、そういう声の聞き方を教えてくれる祖父のいた頃に、私が帰ることのできる季節でもある。
定期試験の前日、この日からは学校が早くに終わるので、私は少し歩いて図書館で勉強していくことにしていた。学校にも図書室はあるが、狭くて薄暗いし、試験の時期にはすぐに満席になってしまうので、あまり好きではない。こちらのほうが本の品揃えも良いと気づいて、試験期間でなくても時間があれば寄り道して本を借りて行ったりもした。
今回もいつもどおり、外の街路樹が見える窓際の席を選んで座ったが、ふと、二つ先の机で何か書きものをしている人が気にかかった。近くの高校の制服らしきものを着た男子だが、気になったのはそこではない。彼は目を見張るほどうずたかく積まれた本に埋もれるようにして、背中を丸めて何かを書き取っている。一冊の本の背表紙がこちらに向いているので、少し目を凝らしてタイトルを読んでみようとする。細かい文字は見えないが、ローマ帝国の何とか史と書かれているのはわかった。高校生の勉強するものにしては妙に専門的に思える。
不思議に思いながら本の山を眺めていたら、彼がふと顔を上げた。見ていたのに気づかれたかと気まずく思っていたら、どういうわけか彼のほうが少し慌てた様子だ。首を傾げていると、彼は席を立ってこちらへ歩いてくる。そして小声で言った。
「あのう、もしかして、あの本、必要ですか」
ああ、だから焦っていたのかと納得すると同時に、可笑しくもあった。想像だが、この図書館に来る高校生に、彼と同じ本を必要とする者はいないだろう。
「いえ、そういうわけじゃないんです。ただすごい数の本を読んでらっしゃるからつい見てしまって……すみません、集中されてたのにお邪魔しましたね」
「ああ、いや、こちらこそ、思い込みで……」
謝って去っていく彼を見ながら、私はもう一つ気づいたことがあった。彼の声と話し方にはなんだか聞き覚えがある。そうだ、ついこの間、私が電車で寝過ごしかけた時に起こしてくれたのは、もしかすると彼ではなかったか。制服も同じだし、はっきりとは覚えていないが背格好もあれぐらいだった気がする。学校が近いのだから、最寄り駅で遭遇した数日後に図書館でばったり会うというのも、まあないことはないだろう。
私は席に着いて教科書とノートを広げたが、どうにも気になったので、時々目を上げて彼の様子を盗み見た。彼は相変わらず本の山に埋もれ、一冊の本から何か書き取ったかと思うと、不意に山の中腹あたりにある本を抜き取り、パラパラとめくってしばし読みふけり、また何かメモしては別の本に手を伸ばし、そうして手元に開いた本に戻り、というのを繰り返している。それはやはり高校生の学習風景というふうではなく、さながら、何か夢中で研究している学者のようだ。窓から差し込む光の加減のせいもあってか、彼自身にもそんな風格があるように見えた。フェルメールか誰かの絵にこういうものがなかっただろうかと考えて思わず微笑してしまったところで、私は気を取り直して教科書に目を落とす。
一通り明日の試験の勉強を終えて顔を上げると、彼の姿はもうなかった。外は薄紅に染まっている。帰ろうとして階下に降りたら、カウンターにまだ彼がいるのを見つけた。机の上に積んであったのよりは少ないように見えるが、結構な数の本を借り出すようだ。
私が近づいていっても、彼はまだカウンターの隅で本をかばんに詰め込んでいる。
「お手伝いしましょうか?」
つい声をかけてしまった。彼はぎょっとした様子でこちらを振り向き、それから「おや」という顔をした。
「いえ、そんな……」
少し間をおいて彼が答える。
「随分たくさんの本だから、大変そうだなと思って。大丈夫ですか?」
「ああ、はい、もうあと何冊かで終わります」
何とはなしに、私は彼がその本を詰め終わるのを待った。彼はもう一度振り返って、何かに気づいたような顔をする。
「あのう、もしかして」
「はい」
「ここ、空くの、待ってますか?」
ああ、そういうことかと私は思わず苦笑した。確かに荷物を詰めている間ずっと後ろにいられたらそう思うだろう。申し訳ないことをした。
「いえ、そういうわけではないんです。ちょっとぼんやりしていただけで。いろんな本を借りられるんだなあと思って見てしまいました。すみません」
「いえ……」
言葉少なな人だ。そのあとは無言で本を詰め終えて図書館を出ていく。私はそういえばと思い出して彼の後を追って声をかけた。
「あの、すみません」
彼はまたぎょっとした顔をし、それから今度は怪訝そうにこちらを振り向いた。
「もしかして、この前、朝の電車で寝過ごしそうな学生に声をかけてくれませんでしたか」
そう口に出してから、突拍子もない聞き方をしてしまっただろうかとやや後悔したが、彼はちょっと考えるそぶりを見せてから「ああ」と小さくうなずいた。
「どうも、ありがとうございました。咄嗟のことでお礼も言えなかったなと思っていたんですけど」
「そんな、気になさらず」
「いえ、自分で言うのもなんですが、変に几帳面というか、気にしいなんです、私。言えてすっきりしました」
妙なやつだと思われたかもしれないが、嘘はついていなかった。「ああしくじったな」とか、「あの時ああしていれば」だとか、そういう小さな失敗や引っ掛かりや後悔を延々と引きずってしまう性分なのだ。昔からずっとそうだった。
「そういうことでしたら、よかったです」
私たちはそのまま並んで、駅のほうへ向かう道を歩きだした。
「それにしても、本当にたくさんの本を読んでいらして、しかも図書館で読むだけじゃなくてそんなにたくさん借りて、研究者なのかと思いました」
「いえ、すぐそこの高校の生徒です」
「それはもちろん、制服を見たらわかりますけど、もののたとえです……試験勉強で読むような本でもなさそうだと思って、すみません、気になってしまってつい。本がお好きなんですね」
「まあ、そうです」
暖簾に腕押し、とはこういうことを言うのだろう。話しかけてみたはいいものの、どうやら彼は自分からすすんで喋る人ではなさそうだし、私も私で、話を上手く運ぶ技術のようなものはない。どういう本を読んでいるのか、どうしてそんなにたくさんの本を読むのか、とか、気になることは多々あったが、これほど反応が薄いとあまり深く聞かないほうがいいように思う。そもそもただの通りすがりの立ち話というぐらいの調子で話し始めたのに、下手に質問を重ねたら迷惑極まりないだろうと、私は今さらのように気づいて赤面した。それにひょっとすると、本の話というのは彼にとってやすやすと立ち入られたくない領域であるのかもしれない。そう考えていた矢先に「本……」と彼がぽつりと呟いた。
「本は、よく読まれるんですか」
思いがけず向こうから質問が飛んできたので少し面食らった。反面、会話が続いたことが嬉しくもあった。
「よく、と言っていいのかわかりませんけど、本を読むのは好きです……でも私が読むのは、本の中でも少し変わっているかもしれません」
「変わっている……」
「たとえば、こういうのです」
私はかばんを開けて、いつも持ち歩いている一冊の本を取り出してみせた。
「植物?」
彼は興味をひかれた様子で表紙を覗き込む。
「『植物知識』という本で、その題名のとおりなんですが、花や果実についての特徴や生態だとか、その色や形を観察した様子だとか、それから分類も、名前の由来も――色々な知識が載っています。こんな、手描きの図もあるんですよ」
私はパラパラと本をめくり、きっちりとした線で描き込まれたシャクヤクやスイセンを見せた。
「同じ方がかいたカラーの図鑑もあるんですが、これは白黒で……でも白黒もいいんです、すごく」
彼は私の手から本を受け取ると、足を止めてそれをしばし眺めてから、ほう、と小さく息を吐いた。
「いいですね」
「はい」
「整然としていて……でも、草花をしっかり見つめていないと、こういう絵や文章はかけないだろうなと思います」
自分が褒められたわけでもないが、私は誇らしい気持ちになった。その感想は、私がこの本について感じていたことと同じだと思った。
「そうなんです。これを書いたのは本当に立派な植物学者の方なんですけど、そうやって植物を見る視線というのが――何と言うんでしょう、とても真摯で、研究者であるのと同時に、花や草木と友人同士であるみたいな、親しみが感じられるんです」
こんな話を人にするのは初めてだった――祖父を除いては。
「……植物、お好きなんですね」
そう言われて、初めは本の作者のことを言っているのだろうかと思ったが、そうではないと気づいた。「私が、ですか?」と聞くと、彼は私に本を返しながらうなずいた。
「はい。すごく……実は私の祖父も植物の研究をしていた人で、いろいろ教えてくれたので。私も、同じように研究がしてみたいんです」
なぜ誰にも話したことのない「将来の夢」のような類いの話が、こうも無防備に口をついて出たのか不思議だった。私が最も苦手とすること、それは自分自身について誰かに話すことだ。にもかかわらず今、そんなことを話す気を起こした自分に、私は驚いた。さっきの本の話にしてもそうだ。何かがおかしい。話し相手である彼の、みずからは多くを語らないが、土が水を吸収するようにこちらの話を受け容れてくれているかのような佇まいがそうさせるのかもしれない、と私は考えた。
「……植物学者になりたい女子高生なんて、変だと思われるかもしれませんけど」
「どうして? 好きなものの一番近くに行ける仕事ができたら、すごくいいじゃありませんか。それが叶う道があるなら、進みたいと思うのは自然でしょう。素敵な目標だと思いますよ」
私は驚いて彼のほうを見たが、彼は前方を向いたまま、「ああ、それじゃあ僕はここで」と言った。ちょうど駅の前に着いたところだったが、彼は改札の前を通り過ぎて行こうとする。
「あれっ、電車には乗らないんですか」
「家、この近くなんです。その踏切を渡った先で……」
けれどもこの前は電車で登校していたはずだ。私が訝しげな顔をしているのに気づいたのか、彼は弁解するように続ける。
「この前は偶然、ちょっと親戚のところに用があって泊っていて……そこから電車で学校へ行ったんです」
ちょうどその日に限って私が電車で寝過ごしそうになっていたと考えると、何とも複雑な心地がした。
「それじゃあ、ここで」
彼はさっきと同じ挨拶をもう一度繰り返すと、踏切のほうへ歩いて行った。
三度目の遭遇はそのすぐ翌日だった。
今日も図書館で勉強をしてから帰ろうとして、また同じ窓際の席へ行くと、やはり彼も昨日と同じ席で、また本の谷間で書き物をしていた。
そういえば、昨日は結局こちらの好きな本の話をしただけで、彼がどうしてあんなにたくさんの本を読み漁り、何か懸命に書き取っているのかは聞けなかった。詳しい話まではしてもらわなくても、どういう本を読んでいるのかぐらいは教えてくれないものだろうか。
そう思いながら席に着こうとすると、彼がふと顔を上げた。こちらに気づいて小さく会釈をしてくれる。私も軽く頭を下げてから座る。赤の他人ではなくなったのだなと感じる。
また夕方になって帰ろうと席を立つと、今日の彼は机上に広げていた本をすっかり書架に戻して帰り支度をしているところだった。
――今日は借りて行かないんですね。
胸の内で呼びかけながら横を通り過ぎようとしたら向こうもこちらを見ているのに気づいた。偶然とはいえ、心の声でも漏れ聞こえたのかと思ってどきりとした。私たちはそのまま、何とはなしに連れ立って家路に着く。
「今日は借りてこなかったんですね」
つい先ほどの心の声を、今度はごく普通に声に出して言うと、彼は苦笑いして「まあ、いつも借りるわけでは」と答えた。つまらないことを聞いたものだと私はこっそり天を仰いだ。連日のようにあれほどたくさんの本を借りて行くような者がいるとしたら、よほどの本の虫か活字中毒者か、驚異的な読書速度を誇るロボットぐらいではないか。
彼が本を読む様子を見るにつけ、そのどれにも当てはまらないと私は思った。昨日見た時に研究者のようだと思ったが、確かに今日改めて見ても、本を一冊一冊めくっては鋭い視線をもって深く潜っていき、そこで何かを手にしたように俄然ノートを取り始めるという様は、真理の探究に夢中になる学者を思わせた。あるいは何かの職人か芸術家のような趣もある。山と積まれた言葉を一つ一つ丹念に眺めては、自身の求める宝のような言葉を見いだし、それを磨き、丁寧に繋いで、何か美しいものを作り出そうとしているような。
だから、おそらく彼は、何でもいいから大量の本を読もうとするような性質の持ち主ではないし、そんなふうに本を消費するような読み方はしないのではないか。
――昨日借りていらっしゃったのは、どういう本なんですか。
興味にまかせて聞いてみたい気持ちはあるが、単に何度か鉢合わせて顔見知りになったというだけの相手に対して、変に踏み込んだことを尋ねるのにはやはり抵抗がある。
好きな分野ぐらいは聞いてもいいのではないか、と話しかけようとして、私は彼の名前も知らないということに気づいた。
「本は、どういうのを、よく読まれるんですか」
名前で呼びかけられないせいか日本語がぎこちなくなる。
「どういうのを……特にこれというのがあるわけではないんですけど。そうですね、最近は歴史の本が多いかな」
「歴史。おもしろそうですね」
「ええ、まあ……」
聞いたところでさほど話を広げられるわけでもないと気づく。
「ただ、僕は歴史研究をしようと思っているわけでもなくて……ちょっと知りたいことがあったり、気になったことがあったりしたらその分野の本を読んでみるという感じです」
どうしていきなり研究をするかどうかの話になったのかと不思議に思ったが、もしかすると私が昨日した話を踏まえてのことだろうか。それにしても、「ちょっと気になったから」読んでみるにしては、彼の読書量はあまりに膨大であるように思えたが。
「……進みたい道とか、研究したい分野が定まっている人は、だから、すごいと思いますよ」
「え?」
これは私に対しての言葉だろうか。そう考えているうちに私たちは駅に着いてしまった。
「……僕も次は植物の本を読んでみたいです。今までそういう、科学の本とは縁遠かったから、新しく何か得られるかもしれません」
「あ、はい、ぜひ……」
その時私が持っていた本を貸すということもできたはずだ。けれどもさすがにそれは差し出がましいだろうかと躊躇している間に、彼はまた軽く会釈して踏切を越えて行ってしまうのだった。
翌日もやはり彼は図書館にいた。
いたことには間違いない。ただ、今日はどうも昨日や一昨日と様子が違う。机に山のように本を積み上げることはなく、ただノートを広げて、何か書くでもなくぼんやりとそのページをめくっている。
少し気がかりではあったが、まあ、そういう日もあるのだろうな、と思い直して私は自分の教科書を開く。しばらくして顔を上げたら、彼はもうそこにいなかった。元々早く帰るつもりで特に本は読まずにいたのだろうか。私は首を傾げる。昨日や一昨日が、たまたま他に何の用事もなくじっくり読書にふけることのできる日だったのかもしれない。何日も連続してここでばったり会えるということのほうが珍しいのかもしれない、などと考えながら、私は無意識に、ノートの上に鉛筆を走らせる。気づくと私は窓辺に飾られた花を写し取り始めていた。すっと伸びた茎の先に、花火のように鮮やかな青紫の花弁。アガパンサスだろうか。鉢に植えられて数本だけ茎を伸ばしているアガパンサスは、時折外で見かける、群れるようにして咲いているそれよりも幾分控えめな印象を与える。小ぶりな品種なのかもしれない。
草木や花のスケッチの仕方を教えてくれたのは祖父だった。まだ小学校に上がって間もないぐらいの私に、花弁や、雄しべ、雌しべ、がく、などと一つずつ花のつくりを見せたり、葉の付き方、根の伸び方、茎の長さ、どれも理に適った形をしているのだということを話して聞かせたりしながら、見たとおりの形を描いてごらん、この生きものたちのことが、もっとよくわかるからと言って、祖父は私に植物の見方を教えた。
私がいつも持ち歩いている本の作者は、祖父にとっての先生であったらしい。私が祖父に教わったことというのは、その先生から祖父が学んだことなのだろうと、祖父がのこしていった本を読んで知った。
その祖父から教わった見方で花を、茎を、葉を見る。ラッパのような形に広がった花弁。淡い青色の真ん中に紫の筋が通っている。茎は長く伸びているが、か細くはなく、その先に広がった花の房を支えて屹立する。葉も細長いがしっかりとした厚みと光沢がある。こうして見ると凛とした佇まいだ。道端に咲いている時にはたいてい何本もまとまっているからか、そういう印象を受けたことはなかった。見た目に凛としているだけではなく、アガパンサスは土質を選ばず、暑さや寒さ、乾燥にも耐えうる、したたかな花でもある。私はしばし手をとめてじっくりとその花を眺める。
――周りがどうだろうと、関係ないのよ。
見つめているうち、物言わぬ草花が語りかけてくれるような気分になる瞬間が私は好きだった。それが、植物を「研究」する姿勢として正しいのかどうかはわからないが、それでも、そういう瞬間に草花が私に向けて語る言葉には、きちんとした理由がある、筋が通っている、と私には思えた。
ふと、鉢植えの少し先に見える席に座っていた彼のことを思い出す。読書と書き物に熱中する彼を見ていた時も、私は似たような心持であったという気がした。あれほど大量の本を一度に読み漁ったり、借りたりする彼の振舞いというのは一見すると奇妙だが、どうもそこには筋の通った理由があるように思えてならなかった。そう思いながら私は彼の姿を見ていたのだ。あるはずもない、声が聞こえてくる瞬間を待ちながら。
しかし今、いつもの席に彼はいなかった。私は通学路で見かけるバラの中でいちばん気に入っていた花が、その盛りを過ぎて切り取られていた朝のことを思い出していた。
帰り際、彼が座っていた席の横を通り過ぎる時、ちらりと足元を見て、私はそこに落ちているノートに気づいた。
いつからここに落ちていたのだろうか。彼が立ち去った後、この席に来た利用者はいなかったはずだ。彼が来る前からあったのなら、座った時におそらく気づくだろう。とすればこれは彼が落としていったのだろうか。
私は彼が今日、少しの時間だけこの席にいた時に広げていたノートの表紙を思い出そうとした。こういう色と形だったようにも思えるが、定かではない。植物を見る時の観察眼をここでも使っておけばよかったのではないかとくだらないことを考える。名前が書かれていたりはしないかとも考えたが、表紙にも裏表紙にも見当たらない。そもそも、書かれていたところで私は彼の名前を知らない。
もしこれが彼の読んだ本について書かれたノートなら、内容を見ればわかるかもしれないが、人のノートを勝手に読むのは気がひける。しかし――。
私は迷いながら、おそるおそる表紙をめくった。
はじめの三分の一ほどには、彼が読んでいた大量の本から書き留めたのであろう文章や単語が連ねられていた。ちょっと見たら歴史の用語集か何かかと思ったかもしれないが、読んでいくとそれとは違うのがわかる。中にはアレキサンダー大王やらウィリアム一世やらの歴史上の人物についての、ごく短い略歴もある。それに紛れてギリシア神話や北欧神話、アメリカ先住民族の話、日本の古事記のようなものの書き抜き。聖書らしいものの一文、仏教用語とその意味。私でも知っているようなシェイクスピアの一節があるかと思えば、聞いたことのない作者の名前が添えられた小説の一場面もある。時系列も文脈もなく、そこにはあらゆる時代、あらゆる国の空気が混在していた。
これはいったい何なのだろうと思いながらパラパラとめくってみると、空白のページを挟んで、様子が変わった。
そこには、先ほどまでの混沌が嘘のように、整然とした文体の物語が書かれていた。
文体は整然としているが、内容を見るとどうもファンタジーらしい。小さなお姫様が、魔物に連れ去られた家族を連れ戻すためにあちらこちらの時代や国を――時には物語や神話の中まで、旅をするというお話。前のページで混ぜられて発酵させられた言葉たちから流れ出てくる芳醇な香りが、ここで放たれている。ストーリー自体は目新しいものではないが、そこから浮かび上がるイメージは鮮烈だった。これを書いた人は、何かを――これを読むはずの人に対する何か切実な思いを、書かなければならないと感じていたのではないかと、私はそう思った。ところどころ、物語の内容に合わせて新聞や雑誌から切り抜いたような写真や絵が貼られているのは、挿絵の代わりなのだろうか。
このノートは彼のものだと私は確信した。彼があれほど本を読み、読んでは何か書き留めていたのは、このお話を書くためにほかならない。
ではなぜ彼はこんなふうに物語を書いていたのか、という疑問が当然の流れとして浮かんだが、今日のところは想像するしかないし、きっとこれから先も直接聞きだす機会はないだろうと思う。
ノートをどうすべきなのか迷ったが、図書館に来たからといって当たり前のように彼と話せるわけではないということを今日、改めて知ったばかりだ。私は「忘れものです」と言って司書の方に預けようと、ノートを手に持ったまま階段を降りる――途中で、自分のかばんにそれをしまっていた。
翌日、彼は図書館に現れなかった。
ただの二日、偶然図書館で近くの席に座っていて、帰りに一緒になったというだけの相手と、その次の二日間は会って話すことができていないという、それだけのことで妙に不安になる自分が不思議だった。いつものように通学路を歩きながら、見上げるほどのタチアオイだとか、もう咲き始めている小さなヒマワリだとか、庭先のアサガオだとかを眺めていても、どうも落ち着かない。梅雨がなかなか明けてくれずにすっきりしない天気や、相変わらず言うことをきかない癖毛も、いつも以上に苛立たしく感じられる。
こんなことをしている場合ではないのではないか――という、何の根拠もない不安が私に取りついていた。その日の試験の出来はきっと芳しくなかったが、それすらも気にしていられなかった。
午後、図書館にこもっているうちに外が晴れてきて、窓際の席には強い日差しが届く。徐々に室内も暑くなってきた。ここに彼がいたら、大量の本が日焼けの危機にさらされることになるだろうなどとふざけて考えてみても、特に気は晴れない。
ノートだ、と私は不意に思った。
あのノートを、彼に渡さなくてはいけないのではないか。今すぐにでも。しかし、どうやって? 今日も彼は来ていないし、この先もいつ再会できるかわからない。私は彼の名前も知らないというのに。
いや、そもそもあのノートが彼のものだと決まったわけでもないし、本当にそうだとして、今すぐにでも渡すべきと、どうしてそう思うのか。私はよくわからない不安をやり過ごしながら、明日の試験最終日のための勉強を続けようとした。
ふと、外から雨の音が聞こえて私は顔を上げる。
天気雨だった。窓の外のケヤキが大粒の雫に打たれて枝を揺らす。その葉を西日が照らしているのが見える。私ははっと息を呑んだ。
行かなくてはいけない。
何が私にそう思わせるのか、よくわからないまま、私は荷物をまとめて図書館を飛び出す。午前中まで天気がぐずついていたから、幸い傘は持ってきていた。強く叩きつける雨粒は、頼りない折り畳み傘を突き破ってしまいそうではあったが。
図書館を出て、私はとにかく駅へ向かった。彼の通う高校も近いが、そこへ行っても彼には会えない気がした。たった二度だけ一緒に歩いた駅への道を、小走りで辿る。
晴れ間はあるが、太陽が雲に隠れているせいか薄暗く、雨はなかなか弱まらない。けれども道半ばほどに達した時、雲の隙間からまた日が出てきて辺りを照らした。
私は思わず立ち止まる。
むせ返るような緑の匂いと、濡れた路面の匂い。雨粒に反射する橙色の光。ばらばらと音を立てて叩きつける雨。北東の空に、不気味なほどの黒い雲――雨のカーテンに映る虹。私はこの景色を知っている。
行かなくては。行かなくてはいけない。
私はもう一度駅へと走る。
踏切に彼はいなかった。私は彼の家がその先にあることは知っているが、それだけだった。よくわからない直感に押されるようにしてここまで来ておきながら、私は途方に暮れた。走ってきたので傘がほとんど役に立たず、濡れた髪が額に張り付いて鬱陶しい。かばんの中までは浸水していないことを今さら祈りながら私は辺りを見回す。雨は小やみになってきていた。東の空をもう一度見上げる。まばらになった雨雲に先ほどのような不気味さはないが、まだ虹はうっすらと見えている。まだだ、まだ間に合う。
私は改札越しに駅のホームを覗き込み、はっと息をのんだ。今しがた電車が到着しようとしている一番線の、そのベンチに座っているのは――。
電車が滑り込み、扉が開く。私は改札を抜けて走った。降りてくる人を避ける。発車のベルが鳴る。
扉が閉まる瞬間、私は、彼が私に気づいてベンチから立ち上がるのを見た。
間に合った、と私は思い、彼に歩み寄る。
「あの……」
まだ少し息が上がっていた。私は一度立ち止まって、呼吸を落ち着けながら、かばんからノートを取り出す。両手で捧げ持つようにして私がそれを差し出すと、彼は少し目を見開き、それから、小さく息を吐いてノートを受け取った。
「乗らなくて、よかったんですか」
敢えてそう聞きながら、私は彼が電車を逃してくれてよかったと内心でほっとしていた。
「いや、その……なぜでしょう、ぼんやりしていて」
彼は困ったような顔をしながら、ノートの表紙を見つめている。
「これ、どこでなくしたのかと思っていました。もしかして、図書館にあったんですか」
「はい……すみません、もっと早く届けられたらよかったんですが」
「いえ……じゅうぶんです」
そう言って頷くと、彼は次の電車までまだ少し時間があることを確かめてもう一度ベンチに腰掛け、そうして改めてこちらを見た。
「雨の中、走ってきたんですか」
「ああ、これは……まあ、そういうことです」
「どうしてそんな……こんなノート、知らない人が見たらただの落書き帳のようなものでしょうに」
「私はそうは思わなかったんです」
はっきりそう言うと、彼は少し驚いたような顔をした。
「たぶん、持ち主は少しでも早くこれが必要なんじゃないかと思って……天気雨が降ってきたから余計に」
「天気雨?」
要らないことを口走ってしまったなと気づいたが、勢いのままに私は続きを話す。
「時々、夢に見る光景でもあるんですけど……もっと言うと、昔見た景色なんです。祖父が亡くなった日に」
「おじいさん……植物学者だった方、ですか」
「はい」
いつの間にか雨は上がっているらしかった。電線から雫が落ちる。西日がそれを照らす。
「私は、おじいちゃん子というほどではないんですが、小さい頃から、夏休みになると随分長い間祖父のところで過ごしていて、いつも草花のことを教えてもらっていました。春や秋や冬のものも好きですが、だから、私は夏の植物が一番好きで――祖父から聞いた話だとか、それを話す祖父の声を思い出せるので」
「おじいさん、素敵な先生だったんですね」
彼の相槌の打ち方、うなずき方は祖父に似ているのだ、と私は気づいた。植物の見方、その声の聞き方を教えてくれた祖父。だからこそ私は彼にこんな話をしたくなったのかもしれなかった。
「でも、祖父が亡くなったのも夏のことでした。――さっきみたいな天気雨の日で、私は傘を持っていなくて、小学校の下駄箱の前で立ち往生していた。雲がすごい速さで流れていて……その隙間から時々日が差して、校舎の壁や地面を橙色に染めるのとか、雨粒がきらきら光るのだとか、そんなのを見ながら、どれくらいの時間か、そこに立ち尽くして。それから、雨が少し弱まったのを見て、濡れながら歩きだして……何とはなしに東の空を見たら、黒い雲をバックに虹がかかっていて、なんだか、綺麗だけれど少し怖くもあったのをはっきり覚えています――家に着くころにはその虹も消えていましたが。帰ったら書き置きがあって、誰もいなかった。おじいちゃんの具合が悪くなったから――その少し前からもう祖父は入院していたんですが――一度病院へ行ってくる、すぐ帰るからひとまず家で待っていなさい、って」
彼は何も答えずに、向かいのホームの看板を見つめている。
「あの天気雨で足止めされなければ――いえ、天気はどうにもならないんだから、私が傘を持っていれば、もしくは濡れるのを構わず帰っていれば、両親が出かけるまでに家に着いて、一緒に祖父のところへ行って、最後にお別れできたのに。今でもそれは心残りなんです。あの天気雨を何度も夢に見るぐらい。それで――この先、同じような場面に出くわしたら、もう同じことは繰り返すまいと思っていたんです」
途中から、やはり私は何を話しているんだろうかという気持ちが頭をもたげてきた。こんな話を聞かされたところで、彼もどう反応していいかわからないだろうに。それでも私は話したかった。
「……だから、走って届けに来てくれたんですか、このノート」
はい、と小声で私はうなずく。
「ありがとうございます……助かりました」
彼はノートの表紙を大事そうに撫でた。
「これから、妹の見舞いに行くところで」
「妹さん……?」
「小さい頃から体が弱くて……しょっちゅう入院していて。これは、妹の暇つぶしになればと思って、僕が書いているものなんです。妹をモデルにしたお姫様に、いろんな国やいろんな時代を旅させようと思って」
あのノートを読んで感じた書き手の意志はそれだったのか。私は頷いた。
「昨日は検査の日だったので、その前に会おうと急いで図書館を出て――それでノートを忘れていたんですね。あの子のお話が失われてしまったと思って、今日は正直なところひどく落ち込んで、見舞いに行くかどうかも迷っていたんです。少し考えたら図書館に探しに行くことぐらい思いついただろうに、その気力もなく――」
彼は照れたように笑い、「ありがとうございます、本当に」と言った。
電車の到着を告げる放送が流れる。彼が乗るはずの急行だ。方面は同じでも、私は次の準急を待たなくてはならなかった。
「そういえば、あの……さっきの天気雨のことで」
もう電車が近づいているというのに彼がまた口を開いたので、私は意外に思いながら耳を傾ける。
「いまだに心残りだと言っていましたけど……その時天気雨が降ったのも、傘を持っていなかったのも、雨が止まないかしばらく待ったのも、虹が出ていたのも、その日におじいさんが旅立たれたのも、なんというか、色々な要素があって、それが偶然重なり合ってそういうふうになっただけなんだとは、思えないでしょうか」
「えっ」
私を励まそうとしてくれているのだろうか。うまく真意がつかめず返答に迷っていると、彼は続けた。
「例えば、ちょっとしたことで人生が大きく変わってしまうようなこともありえますが、反対に、誰か一人がどこかで違う行動をとっていたとしても、結局ほかの色々なことが絡み合って、同じ結果になるかもしれない。それはわかるはずのないことです。だから、そのことで、自分の行動に対して心残りとか後悔とかを、感じる必要はないんじゃないかと、ちょっと思ったんです」
彼の言葉は不思議な響きをもって私のもとに届いた。乾いた地面に雨が染み込むように、私はそれを受け止めた。電車がホームに到着する。
「いろんなできごとやいろんな人に出会うでしょう、生きていると。それが混ざり合ったり絡み合ったりして、また思いがけないものが見つかる。それはきっと悲しいものばかりではなくて、素敵なもの、美しいものでもありうると思うんです」
自分と同じ高校生からこんなことを言われるなどとは思ってもみなかった。けれども、彼の言うその言葉には、しっかりした理由があるように私には聞こえた。開いた扉のほうへ彼が歩き出す。
「植物の研究、頑張ってくださいね」
会釈するのと同時に扉が閉まる。
――僕にとってあなたとの出会いも、いつかそういうものにつながるだろうと思います。
動き出したモーター音の合間にそんな声が聞こえた気がしたが、あるいはそれは、単なる私の願望であったかもしれない。
書くことを続けるために使わせていただきます。