【小説】12 あるピアニストの回想
何をどう間違ったとしても、俺は音楽の道には進まない。そう思っていた。
だって、俺よりもずっと上手い人たちがその道に進めなかった、もしくは、進まなかったのを知っているから。昔ピアニストを目指していたという伯母さんの演奏は、直接聴いたことはないけれど、高校時代に出たというコンクールでいいところまでいっていたのを知っている。それでも音大には受からなかったという。その伯母さんが「あの子は天才だ」と思っていたというのが俺の父さんだけど、父さんはこの街で慎ましく小学校の先生をしながら半ば趣味のようなピアノ教室をやってきただけだし、これまでに一度も表舞台に立とうとしたことはないらしい。父さんは確かにピアノが上手い――俺が聴いてもわかるぐらい。父さんが鍵盤を触ると、ほかの誰とも違う、自由で楽しそうできらきらした、カラフルな音が聞こえる。でもそんな父さんもあえてプロになろうとはしなかった。
そういう人たちが身近にいたから、ましてや特に才能があるわけでもなく、音楽で生きて行きたいという熱意があるわけでもない俺には、ステージの上は縁遠い場所なんだと、小さい頃から思っていた。俺がプロを目指したってしょうがない。ずっとそう自分に言い聞かせてきた。父さんだって、俺にピアノを教えはしても、別にプロになることを望んでいたわけではない。何よりその父さんが、かつて、音楽の道でプロになることを拒んだ人だったんだから。
プロではないとはいえ、父さんの仕事は一応音楽に関係のあるものだったから、物心ついた時から家の中でピアノをはじめ何かしらの楽器が鳴っているというのが日常だった。今はもう引っ越してしまったけど、前の家では玄関を入ってすぐの、家で一番広くて立派な和室――たぶん本当は客間だったんだと思う――がピアノの部屋だった。結構立派なグランドピアノなんだ。そのほかにもいくつか楽器が置いてあった。クラシックギターと、確かバイオリンもあったし、サックスもあった気がする。そのほとんどはもう手放してしまって今の家にはないから、はっきりとは思い出せない。何にせよ、その部屋ではしょっちゅう音楽が鳴っていた。住宅が密集しているようなところではなかったし、防音設備なんてなくてもあまり気にせずに音を鳴らせる家だったんだろう。平日の夜にはさすがに音を小さくしていたはずだけど、一時期は本当に寝ても覚めても、父さんは何かの楽器を触っていたと思う。いちばん多かったのは間違いなくピアノだった。
どうしてそんなに音楽好きなのにプロにならなかったの、と聞いてみたことがあった。たぶん、まだ俺が小学校の低学年ぐらいの頃。父さんは笑いながら、俺の場所はそこじゃないんだよと言っていた気がする。伯母さんみたいにピアニストを目指したことはなかったのかと聞いたら、伯母さんが進めなかった道には進めないんだと答えた。俺にはその意味がよくわからなくて、ただなんとなく、こんなに音楽漬けの生活をしている父さんですらその道のプロにならなかったのなら、俺がそこを目指すなんてもっとありえないことなんだろうと思ったのは覚えている。そして、なんとなくだけれど、その時から俺は音楽というものには近づきすぎるまいと思うようになった。
とはいえ実際は単に気持ちだけの話で、父さんやピアノ教室に来る生徒たちの演奏が始終聞こえるのに変わりはない。結局、俺はそういう音を聞くのが嫌いになれなかったんだと思う。リビングにいて聞こえてきた音に合わせてリビングのテーブルを指でトントン叩いていたら、母さんに気づかれてしまった。
「弾いてみたいんやろ? お父さんに頼んでみたら?」
「いいよ、そんな……忙しいでしょ」
「喜ぶと思うけどなあ。お父さん、教えるのがほんまに好きみたいやし」
母さんはすぐに父さんに伝えてしまったんだろう。間もなくして、父さんは本当に俺にもピアノを教えてくれるようになった。
教えてくれる、といっても、基礎からきっちり練習を積むようなことはしない。こんな曲なら弾けるんじゃないかとか、こういうのが弾けたら楽しいんじゃないかとか言いながらまずは父さんが演奏してみせる。俺は見よう見まねで手を動かして、父さんは、ああそうそうとか、ゆっくりもう一回とか、たまに口を出す。
「好きなように弾いたらいいよ。上手くなろうとする必要はないんだから」
そんなことをよく言われた。
「プロになるには技術も大事だけど、表現っていうのはそれだけじゃあないと思うんだよ。自分自身がわくわくするような、心の動きが音になって指先から零れて踊り出すような、そんな演奏ができるのがいい」
技術だけではプロにはなれないだろうというのはわかる気もしたけど、そのあとのところはなんだか難しいなと思った記憶がある。練習していた曲が徐々に形になってくるのは楽しかったけど、それを楽しんでいるだけでプロになれるとは思えないし、「心の動きが音になって」「指先から零れて踊り出す」に至っては、どういう演奏なのかまるで見当がつかなかった。それで、どんな演奏なのか聞いてみたいと言ったら、父さんはかすかに笑って、「父さんにはまだ、できたことのない演奏だよ」と答えた。
練習の合間に、どうしてプロを目指さなかったのか、ちょっと改まった感じで聞いてみたこともあった。父さんはその時、俺の知らないどこかの民族音楽のようなメロディを弾いていたけど、手を止めて話し始めた。
「昔、通りすがりの子どもにハーモニカを教えたことがあるんだけどね」
嘘か本当かわからないような話だ。
「何の気なしに散歩していて、ふらっと入った雑貨屋のようなところで見つけたおもちゃみたいなハーモニカが気に入ったから、買って、店を出たあと吹いてたんだよ。そしたら、たまたま居合わせたその子に『この曲を吹いて』ってお願いされて、でも知らない曲だったから吹けなかった。それで、じゃあ自分で吹きたいってその子が言うから、音の出し方なんかを教えたんだ。小さい子は物覚えがいいね、すぐにコツをつかんだみたいだった。それで、そのハーモニカは君にあげるから、また吹けるようになったら聞かせてよなんて話したんだ。まあ、それきりなんだけど」
父さんは今でこそ小学校の先生としてちゃんと仕事もしているけど、昔の話を聞くたびに、こんなに現実感のない子どもがいるもんだろうかと思った。知らない街をあちこち歩き回ったり、自転車で遠出したりするのが好きだったらしく、それで通りすがりの子にハーモニカを教えてあげたりしているなんて、前世はスナフキンか何かだったんじゃないだろうか。その上ピアニストを目指していた伯母さんから天才と言われるぐらい、音楽の才能に恵まれていたというんだから、本当に自分の父親ながら不思議な人だと思う。
それで、そのハーモニカの話が、プロになるかどうかの話にどう繋がるのかと聞いてみたら、父さんは「まあ、落としどころを見つけた、っていう感じだったんだと思うな」と、当時の俺にはすぐにはわからないような言い回しで答えた。
父さんが言うには、「自分の演奏が誰かを幸せにできたということがなかった」らしい。
「真剣に音楽に向き合っていたわけでもないのに、演奏するのは楽しくて、なまじ器用だから、ある程度は上手くできてしまう。でもそれ以上でも以下でもない。もっと真剣にやっている人からしたら、こういう中途半端な人間を見るのは腹が立つだろうな。伯母さんも……父さんの姉ちゃんにも、そう思わせてしまったことがあったと思うんだ。だから、音楽は好きだったし、やっていきたかったけど、そういう、本気でやっていこうとしている人たちとは別の場所にいたほうがいいなと思っていた」
その代わり、誰かに音楽を教えて、その誰かの演奏で、その人自身だとか、その周りの人が幸せになるようにすることはできる気がする、と思ったらしい。
「自分はそんなに頭も悪くないと思っていたからね。人と話すのも好きだったから、弾き方を言葉で伝えるのも苦じゃなかったし。それこそ、本当にプロを目指しているような人の指導はできないけど、何か鳴らしたい音だとか、弾けるようになりたい曲がある人がいるとして、その人の手助けをするぐらいならできる。そういうところで音楽に関わっていられるなら、それもいいかもしれないと思ったんだ」
やっぱり俺にはあまりピンとこない話だった。それで確かその時、俺は「父さんの音楽は中途半端なんかじゃない」というようなことを言った記憶がある。父さんは確か、笑っているようなそうでないような顔で、「そうだといいんだけどねえ」と呟いていた。
父さんのピアノ教室にはいろんな人たちが来た。父さんがこれまでに赴任した小学校の教え子が来ることもあったし、俺の同級生も何人かいた。平日の夕方にランドセルを背負ったまま飛び込んでくる近くの小学校の兄弟、ピアノよりもうちで飼っていたレニーを目当てに来る近所の犬好きな女の子、土曜日の部活が終わった後に顔を出したり出さなかったりする中学生たち、親子で習いに来ている母さんの知り合いとか。みんなそれぞれに好きな曲を、好きなように、それぞれの音で弾いていった。
ひとり、飛び抜けてよく覚えているのは、俺よりもたぶん五歳ぐらい上の女の子だ。物静かで、レニーがなぜかよく懐いていたけど、当の本人はやたらと飛びかかられたりして怯えていた――ただ、覚えているのはレニーが懐いていたからというわけではない。
彼女の音は、父さんの鳴らす音となんだか似ていた。自由に弾むような感じ、きらきらした感じ。それでいて、父さんの音を聞いた時とは違う感覚だった。何か、聞かなきゃと思わされる感じ。弾いている人の感情が音に乗って流れ込んでくる感じ。語りかけてくるような、お喋りを聞いているような感じ。それはただ楽しいだけじゃなくて、もっと複雑な、もっと単純な、もっと暗い、もっと明るい――その人のすべて。そのすべてをまとって踊るような音だったのを覚えている。
「心の動きが指先から零れて踊るような音」
いつか父さんが使った言い回しを俺は思い出していた。そんな表現ができる人が、なんでこんな小さなピアノ教室にいるんだろうと、俺はその人が来るたびに愕然とした。
「ああいうふうに弾いてみたいと思うかい」
ある時、その人が帰ったあとで、父さんは俺にそう聞いた。俺はわからないなあと首をかしげながら、弾いてみたいという一言を飲み込んだ。音楽には近づきすぎるまい。ずっとそう言い聞かせていた。
「お前には、もしかしたら鳴らせるかもしれないなあ」
父さんがそう言ったのも、聞こえなかったことにした。
父さんが、ピアノを弾けなくなる日が来るなんて、誰も夢にも思っていなかっただろう。
それは本当に突然のことだったんだ。夏休みが明けてすぐの頃だった。昼休みに先生に呼び出されて、母さんから連絡があったと言われて、早退して病院に向かった。残暑の中、まだしぶとく鳴いている蝉の声も聞こえて、汗でじっとりしたシャツが背中に張り付いて気持ちが悪かった。
小学校での仕事、ピアノ教室の先生としての仕事。父さんはそのどちらも好きだったみたいだし、いつも家で楽器を触って楽しそうにしているところしか俺は見ていない。だから、過労が原因で脳梗塞を起こして倒れたなんて言われても、全然納得がいかなかった。一命はとりとめても後遺症が残れば、もう音楽をやるのは難しいということも。
結論からいえば、手術は上手くいったし、父さんの快復は周りが驚くぐらい早かった。
でも父さんは、左手が思うように動かせないからといって、それきりピアノを弾くのをやめてしまった。学校の先生でも、ピアノ教室の先生でもなくなってしまった。
はじめのうちは、リハビリでなんとかできるんじゃないかと思って、俺も母さんも父さんをその気にさせようとしたんだけど、それだけの問題じゃないんだろうと気づいた。父さんからしたら、以前の、自由に音を鳴らしていた時の感覚が、もうどこかへ行ってしまったんじゃないか。そうだとしたら、手が動くかどうかというのは、もはや関係ないんだ。動くようになったとしても、たぶん、父さんはピアノに触ろうとはしない。
まだ、教えてほしいことがあるのに。
俺はその時、悔しかった。父さんは俺の演奏ももう見てくれないつもりなんだろうか。もしかしたら、あの「心の動きが指先から零れて踊るような音」が鳴らせるかもしれないって、そんなことも言っていたのに。
そう思って驚いた。だって、あんなに音楽には近づきすぎないようにと気をつけてきたのに、いま、たぶん周りの人たちの中で誰よりも一番音楽に近づいてしまっているのが、自分自身だと気づいたから。それと同時に、俺には鳴らしたい音があるんだと自覚してしまったから。
鳴らしたい音がある人の手助けならできるんじゃないか、というのは、父さんが今の道を選んだ理由だったはずだ。
俺にはその手助けが必要だった。
もう父さんに教えてもらうことはできないからと、諦めてしまうこともできた。それなのに弾き続けたのは、ただ、結局俺も音楽をやっていたかったんだなと思い決めて、音楽から距離を取ろうとする姿勢のほうを諦めることにしたからだ。
思うような音はなかなか出せなかった。改めて、父さんのピアノ教室に来ていたあの人の凄さを思い知った。あの人は確か、高校卒業と同時に教室をやめてしまったはずだ。今でもどこかで弾いているんだろうか。
あの音をもう一度聴きたかった。できれば、自分の手で鳴らしたかった。
父さんが倒れてからはほとんど独学で――父さんに教わっていた時も基本的な弾き方は独学みたいなものだったけど――練習を続けていた。父さんは何も、本当に何も言ってこなかった。気づいたら一年が経って、また残暑が首筋にへばりつくような季節がきて、そうこうしているうちに蝉の声が止み、空気の匂いがまた変わって、雨が通り過ぎて、乾いた晴れ空が広がって、街路樹が落葉して頭上の見通しがよくなっていた。
父さんが引っ越しを提案したのはそんな日のことだった。
リハビリがてら始めた散歩に付き合って、俺は父さんと家の近くの公園に向かって歩いていた。一つ相談があるんだが、と父さんが話を切り出した。
「いまの家から引っ越すのは、嫌かい」
「え?」
「もう、大きな家に住むこともないんじゃないかと思ったんだ。もう父さんもそんなに動き回れないしね。お前もいずれ出ていくことになるだろうし、もう少し手狭なところに引っ越してもいいんじゃないかなと思う」
どうだろう、と聞かれて、俺は、まあ仕方ないんじゃないかなと答えた。あの家は好きだったけど、父さんの言い分はもっともだと思った。
「とはいっても、引っ越し先のあてがあるわけでもないんだ。これから探さないと……」
「引っ越し費用とか、どうするの?」
「貯金はあるし、今の家を売るなりしたらそれなりにまとまったお金は入ってくる。お前が心配することじゃあないよ」
そう言われながらも、俺は急に現実を突きつけられたような気がしてきた。高校を出てからのことなんてろくに考えていなかったけど、就職して家にお金を入れるべきなんじゃないか。いまさらのようにそんなことを考えた。父さんは、それを見透かすように話を続けた。
「お前は何も心配せずに、お前の好きなようにしていたらそれでいいんだ。お前の人生は父さんや母さんのものじゃない」
でも、と言いかけると、父さんはああそういえば、と急に話題を変えた。
「引っ越すとしたら、ピアノも手放さないといけないかもしれないな」
父さんのその一言は、俺にとって何よりもショックだった。ピアノを手放す? ありえないことだと思った。
「手放すって、どうして……」
「ピアノが置ける部屋があるところ、って考えると、家を探すのも大変になるからなあ。もう父さんも弾けないし、なくても構わないだろう」
ありえない。絶対にありえない。
「だったら、引っ越したくない」
俺はたまらずにそう言った。父さんは少し驚いたような顔でこちらを向いた。
「ピアノがなくなるのは、音楽がなくなるのは、嫌だ。まだ、父さんに教わってないことだって山ほどあるのに。鳴らしたいのに鳴らせてない音があるのに――」
父さんは黙ってそれを聞いていて、それから、二ッと笑ってみせた。俺はそこで、あ、もしかして試されたのかと気づいた。
「ごめんな。大丈夫だよ。そんなことはしない……引っ越すとしても、ピアノも連れて行くさ。鳴らしたい音があるのは、ちゃんとわかってるよ」
父さんは、ピアノの前から離れても先生だったんだな、と、俺はその時ようやく気づいた。それから、すぐにでも帰ってピアノを弾きたくなった。今なら鳴らせるような気がしたから。
「ねえ、もう弾いてくれなくてもいいからさ、演奏聞いて、教えてよ」
試されたことに腹が立たなかったわけでもないから、ちょっと不機嫌な声を作って俺は言った。
「弾けなくても教えられるものかどうかはわからないけどね」
父さんは苦笑いして答える。
「鳴らしたい音がある人を手伝うのが、たぶん、僕の天職なんだろう」
俺は、そうだよと頷く。
「でも、その先は、その人次第だからなあ」
それもわかっている。だからこそ父さんに教わって、鳴らせるようになったところをちゃんと聞いてほしいと思った。「心の動きが指先から零れて踊るような音」を。
「正直、お前がそこまで行けるかどうかはあやしいと思っていたんだ。音楽とは適度な距離をとれるようにって、父さんと同じようにしようとしているふうに見えたから」
バレていたんだな、そんなところも。
「でも、お前はそれ以上に、ただ単純に、音楽が好きなんだろうな」
そう言う父さんの声には少し寂しさも感じられた気がするけど、何か突き抜けたような、この日の空模様のような晴れ晴れとした響きもあった。やっぱり不思議な人だ、この人は。
「あまり歩いていないけど、帰ろうか。帰ったら、弾いてみせてくれよ」
どんな形でならやっていけるのか、具体的に思い描いていたわけじゃない。でも、音楽を、ピアノをやっていくという選択も、ありなのかもしれないなと、俺はその時、初めて心からそう思ったんだ。
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