【小説】1 ぼうけんのきろく

 熱があるというので昨日早退していたらしいから、今週末の「ぼうけん」の計画は延期か、もしかすると中止だなと思って、ぼくはちょっと、いや、実を言うとかなりがっかりしていた。それで、朝起きるなり「電話よ」と呼ばれた時も、今日はいけないよという話かと思ったのだけど、真逆だったのでびっくりした。
「時間ちょっと過ぎるけど、いまから行くから」
 それだけ言うと電話は切れた。少し不思議に思いながら、とりあえずリュックをしょって玄関を出たところで待っていたら、ほんとに彼は自転車に乗って現れた。
「今日行くの、無理かと思ってた。もう熱は大丈夫なの」
「たいしたことないよ。寝たら治った」
 仏頂面のままそういうと彼は早くも、行こうぜと自転車にまたがる。置いていかれないようにぼくも急いで自転車を出した。ペダルをこぎだしたとたん、強い北風におそわれてぼくは肩をすくめる。
「今年はなかなかあったかくならないね」
「もう二月も終わるのにな。今日は晴れててよかったけど、また月曜日は雪かもしれないってさ」
「そうなの? ぼくもう雪かきしたくないなあ」
 話しながら自転車を走らせてもまだ寒い。上着取りに帰るからちょっとだけ待っててって言おうかな、とも思ったけれど、彼はおかまいなしに進んでいってしまうので、まあいいかとスピードを上げて追いつく。何日か前の雪が、まだ日陰に残っていた。
「今日はこのまま川沿いの土手に出て、で、その土手の上をずっと行くんだ。県境まで行けるかな……まあ、わかんないけど行けるだけずっと行ってみよう」
「オッケー」
 去年の夏休みからはじまったこの「ぼうけん」で、ぼくらはこのあたりのだいたいの道を攻略したと思う。学校のむこう側の住宅地、田んぼの真ん中の道、公団の抜け道。一昨年の夏休みに一度だけ家族で遊びに行った大きな公園、彼のお姉さんがバスで通っているという大学、お父さんが連れて行ってくれた映画館。どれも、案外自転車で行くことのできる場所にあった。「次はここにいこう」「今度はこっちの道を試してみたい」と提案してくれるのは彼で、ぼくの役目は、地図とにらめっこしながら念入りに計画を立てること。それから、「ぼうけんの記録」をつけること。ぼくは勉強がきらいというわけじゃないけど、この「ぼうけん」のほうがずっと楽しいから、二学期には授業そっちのけで計画を立てたり、ノートに記録をつけたりするのに夢中になって、たまに先生に怒られた。
 そんな「ぼうけん」ができるのも、今日で最後になる。そして最後にぼくらは、このまちを出てどこまで行けるか試すことにしたのだ。

 今日ぼくらが「ずっと行ってみる」土手の上の道に出るまで、家から十分ほどかかる。住宅地を抜け、スーパーマーケットの駐車場を通り抜けてちょっと近道をして、中学校の前を過ぎて少しすると坂が見える。あれを上って、橋の手前で左に折れたら土手の上の遊歩道だ。
「今日は富士山見えるかな」
 前を行く彼がふいにふりかえって言う。立ちこぎで息を弾ませて、声も弾んでいるように聞こえる。
「晴れてるけど、うっすら雲がかかってそうな感じもする」
 ぼくはできるだけ声を張り上げる。
「見えるか、見えないか、どっち」
 今度は前を向いたま、歌うような調子で聞いてきた。
「じゃあ、見える」
 坂を上り切って曲がったところで、天気がよければ正面に富士山が見える。ぼくらは富士山に向かって走っていくことになる。
「見え、ない!」
 一足先に上までたどり着いた彼が、ちぇっ、残念、と悔しがりながら笑い交じりに言った。上空は晴れているからいけると思ったけど、低く広がった雲はちょうど富士山が見えるはずのあたりにとどまっていた。
「富士山、見たかったの」
 またできるだけ声を大きくしてぼくは聞く。しばらくはまっすぐの道だから、彼はスピードをさらに上げていた。置いていかれそうになって、ぼくもハンドルをぐっと握って、サドルからお尻を持ち上げて、足に力をこめる。
「だってさあ」
 その後に続けて彼は何か言ったけれど、聞き取れなかった。風がちょうど強く吹いたせいか、彼の声が小さくなったからか、距離が遠くなったからかはわからない。なんて言ったの、と聞こうとしたけれど、ぐんぐん加速する彼の自転車から離れないようにとペダルをこいでいたら、それどころではなくなってしまった。
 ぼくが遅れているのに気づいたのか、彼は次の橋のところで止まってくれた。息を切らして追いつくと、「ごめん、ちょっと出発が遅かったからさ」と謝ってはくれたけど、またさっさと走り出してしまった。でも今度はぼくも難なくついていける速さだ。
「カンサイって、富士山見えるの?」
 急にそう聞かれて、カンサイというのが関西のことだと気づくのに少し時間がかかった。
「見えないんじゃないかなあ、遠いと思うし……」
「さすがに無理かあ、日本一高い山でも。じゃあ、やっぱり今日見とかないとだったなあ」
 彼はしきりに残念がっていた。それでぼくは、さっき富士山を見たかったのかと聞いた時、彼が「だってさあ」の後に言ったことの察しがついた。
 彼は、たぶんじぶんでも見たかったんだろうけど、それ以上に、ぼくにも見せたかったんだと思う。卒業したら関西に引っ越すぼくに、最後の「ぼうけん」で、彼の好きな風景を。
 

 ペダルをどれだけこいでも、土手はどこまでも続いていくように思えた。大きな青いドームがぼくらの上にあって、でもどこまで行ってもその果てにはたどり着けないようになっている。二月の空は、石を投げたらそのまま吸い込まれて落ちてこないんじゃないかというぐらいずっと上まで青かった。
 空を見ながら走っていると、いろんなことを思い出す。
五年生の春にこのまちに引っ越してきた。お父さんがいわゆる転勤族というやつだから、引っ越しは慣れたものだ。それでいて喋るのがあまり得意じゃないから、自己紹介でも名前ぐらいしか言えなかったし、同級生に話しかけられてもうん、とか、ああ、とか、そんな生返事しかできなくて、だから当然みんなと仲良くなることもない。それもまた慣れたものだった。十年とちょっと、そんな風にして生きてきたら、一人での過ごしかたも心得てくる。
 ぼくはよく一人でぶらぶら道草を食いながら帰っていた。空をながめたり、路地うらに入ってみたりして。なにしろ何年かに一度はちがうまちに引っ越していたので、そうやってまだじぶんの知らない道や風景を探すのにはこと欠かなかった。このまちへきて最初の一年は、そんなふうにこれまで通り、一人で過ごした。
 去年の今ごろだっただろうか。
 いつもの調子でぼんやり空を見ながら歩いていたら、「車!」と鋭い声がして、ぼくはびっくりして立ち止まった。ぼくのすぐ横を、道幅のわりには速いスピードで車が一台通り過ぎて行って、さすがにヒヤリとした。
「危ないなあ。だめだよ、ちゃんと前見て歩かなきゃ」
 そう声をかけてきたのが、その時は確かまだ別のクラスにいた彼だった。彼はぼくの顔をしげしげとながめて、ちょっと首をかしげた。
「どこの学校?」
 聞かれたので、まださっきの車のせいでドキドキしながらぼくは学校名だけ単語で答える。彼は不思議そうな顔をした。
「ほんとに? 同じ学校なのに、知らないや。何年生?」
 五年、というと彼はますます首をかしげる。
「じゃあとなりのクラス? だいたい全員の名前と顔はわかってるつもりだったんだけどな」
 転校してきて以来、よそのクラスどころかじぶんのクラスの人たちともほとんど話したことがないんだから、そりゃあ知っていてもらえなくて当たり前だ。でもそれを声に出して説明しようとするとうまくことばがまとまらないから、ぼくはうーん、とあいまいにうなった。
「あ、もしかして、転校生?」
 ぼくはそこに気づいてもらえたことにびっくりして、うなずきそびれてしまった。
「あれ、ちがうの?」
 今度はちゃんと首が動いたので、かぶりをふって、「ちがわない」と答えた。
 ぼくがびっくりしたのは、こんなふうにしか喋れないぼくに、こんなに長く会話――これを会話といってよければ、だけど――をしてくれる子なんて、そうそういなかったからでもある。
 ぼくの答え方が不自然だったからか、彼はますます妙な顔つきで「ふうん」と言う。
「なんで一人でこんなとこ歩いてたの? 家このへん?」
 その時ぼくらがいたのは学校からはだいぶ離れた住宅地で、ぼくの家とも全然違う方向だった。
「ちがうんだけど、ちょっと、あの、散歩してて」
 別に悪いことをしていたわけでもないはずだけど、なんとなくきまり悪く感じて、どぎまぎしながらぼくは答える。
「じゃあどのへんに住んでるの?」
 住所を言ったら、彼は目を丸くした。
「学校挟んで正反対のほうじゃんか。こんなところまで散歩に来るんだ」
 そして彼は、変なの、とカラカラ笑った。ぼくはちょっと肩の力が抜けるのを感じたけど、じゃあ、帰るから、とぎこちなく伝えてその場を去ろうとした。
「車にひかれるなよ」
 彼はまだ笑いながら、ぼくが一つ先の信号を渡り切るまで見送ってくれていた。

「そうやって走ってるとまた車にひかれる」
 前の方から声がしたのではっとして見ると、彼はもう次の信号のところで止まってぼくを待っていた。
「ひかれたことなんてないよ……確かにちょっとすれすれだったことはあるけど」
「危ないなあほんとに。上もいいけど前見ろ、前を」
「わかってるけどさ」
「カンサイはせっかちな人が多いらしいから、そんなんじゃほんとにあぶないぜ」
「せっかちな人が多いなんて、だれが言ってたの」
「わかんないけど」
 追いついて一言二言話したところでちょうど信号が変わった。川と交差している県道を渡ると、三つ先の駅が見える。もう少し行くととなりの市だ。
「この季節の空ってきれいだから、見上げたくなるんだよ」
「そうだな……あ、飛行機雲」
 ひとには危ないなあと言うわりには、彼もしばらく上空を見ながら自転車を走らせる。
「こわくないのかなあ」
 そのことばの意味は、ぼくにはすぐにはわからなかった。
「こわいって?」
「なんかさあ、これだけ空が真っ青で広い中を飛んでくのって、そのまま吸い込まれて消えちゃいそうじゃない?」
 石を投げたら吸い込まれそう、とは思っていたけれど、「こわい」とまでは、ぼくは感じていなかった。
「……上から見てたらそうでもないのかも。飛行機乗ったことないからわかんないけど」
「いや、飛行機に乗ってる人がっていうか……」
 そこまで言いかけて、彼は口をつぐんでしまった。彼には時々こういうところがある。じぶんの知っているふつうのことばでは言い表せないものを見つけてしまったような、じぶんの感じているものにことばが追いつけなくてもどかしがっているような、そんな様子を見せることが。
 ぼくもぼくで、なんて続けたらいいのかわからないので、まただまって上空を見ている。
 飛行機は東のほうから飛んできて、西へ向かうらしい。ちょうど日が昇るあたりから伸び始めた飛行機雲は、そのまま太陽の道筋をなぞるようにして、青いドームの一番てっぺんを通り、さらに反対側の地平線に向かって弧をえがく。きっぱりした白線が青空を真っ二つに割ってしまったみたいだ。
「うらやましいなあ」
 急に彼が言うので、ぼくはなんのことかわからずにぽかんとした顔で彼を見た。
「こういう景色とかさ、考えてることとか、お前だったらうまく書けるんだろうな」
「えっ」
 まさかじぶんがうらやましがられているとは思わなかった。
「だって、お前の書く作文すごいんだもん。なんでさ、同じようなことばしか知らないのに、こんなにおもしろかったり、迫力があったり、ほんとにそこにいるみたいな感じがしたりするようなものが書けるんだろうなあ。いいなあ、ほんと」
 ぼくはちょっとこそばゆいような気持ちで彼のことばを聞いている。

「作文うまいんだなあ、すごいじゃん」
 彼からそうほめてもらったことが、そういえば、この「ぼうけん」にぼくが引き入れられるきっかけでもあった。
 六年生に上がって、ぼくは彼と同じクラスになった。あの住宅地をうろうろしていてばったり会った時以来、彼とは学校でも全然話していなかったのだけれど、彼のほうではぼくのことを覚えていて、教室で会うなり「あ、転校生!」と声をかけられてしまった。そりゃあ名前まで覚えてくれているとは思わないけど、呼び名が「転校生」なのかあ、と思ってちょっとさみしかった。
「今も散歩してうちのほう来たりするの?」とか、「ぼーっと歩いてちゃいかんよ」とか、何かにつけて彼は話しかけてきた。からかわれてるのかなと思って、初めのうちは前と同じように、うん、とか、ううん、とか、ぼくはほとんどまともな答えを返さずにいた。
 様子が変わったのは、連休明けに、国語の授業で作文の宿題が出てからだ。
 休みの間の思い出を書くように、と言われて、特にどこに遊びに行ったわけでもなかったぼくは、なにも「今年の」連休の思い出とは言われてないもんな、と思って、昔住んでいたまちで見た大きな鯉のぼりのことや、何年か前、お父さんとお母さんに連れられて行った博物館のこと、もっと小さい頃にいた家の近くの、神社だったかお寺だったかで春にやっていたお祭りのこと、なんかを、まぜこぜにして書いた。それは作文と言うよりも作り話だと思われてしまうようなものだった。ぼくはそれまでにもよくそういう作文を出して、そのたびにどの先生にも、「お話を考えるのは楽しいかもしれないけど、こういう作文はちゃんとほんとうのことを書かないといけないのよ」とか、「ちゃんと課題にあったものを書くようにしなさい。そうじゃないと点数がつけられないだろう」とか言われてきた。でもぼくにはこのほうがずっとうまく書けるのだ。
 それに、見た目は作り話かもしれないけど、そこにぼくが書いているのはちゃんとほんとうのことなんだ、と、ぼくはいつも思っていた。空を悠々と泳ぐ巨大な鯉のぼりがなんだか怖かったことも、初めて行った博物館で、化石を見ていた時のひんやりした空気も、近所のお祭りで、屋台の煙とかお香の匂いとか、集まった人たちのがやがやした声とか、いろんなものが混ざって、知らない国に来たみたいな気分になったことも、ぜんぶ、ほんものだ。
 そういう気持ちで今回も、「今年の」休みの間の思い出ではないものを書いて出したのだけど、この時の先生の反応はちょっとちがっていた。宿題を提出した日、帰る前に先生はぼくを呼んで、「ちょっと、先生が書いてほしかったものとはちがうけど、よく書けてるから、発表してくれないかな」と言った。じょうだんじゃない。人前で話すなんていちばん苦手なことなのに、あれだけの長さの文章を読み上げないといけないなんて、じごくみたいなもんだ。と、ぼくは思ったけどその通りには話せないので、「ぼく、できません」とだけ言った。先生は「どうして?」「上手く読めなくてもいいんだよ」と食い下がったけど、ぼくがあまりにかたくななので、とうとう「じゃあ、先生から紹介させてくれる?」と折れてきた。それもほんとうはちょっといやだったけれど、先生がゆずってくれた分、こっちも引き下がらないと悪い気がして、ぼくはとうとう首をたてにふった。
 次の国語の授業で先生がぼくの書いたものを読んで何か話している間、ぼくはいたたまれなくてろくに聞いていなかったし、そのあと、クラスの子から何か感想を聞いた覚えもない――彼以外には。
「作文うまいんだなあ、すごいじゃん」
 彼は無邪気に言った。
「作文じゃ、ないし」
 今まで学校でずっとそう言われてきたこともあって、ぼくは少しいじけた調子でそう返した。
「ああ、そうか。作文っていうとなんか、ふつうな感じだなあ。小説みたいだった、すっごい、これ、おもしろいって思ったもん。すごいよ、あんなの書けるなんて。作家になれるよ」
 彼は急に大真面目な顔になった。茶化すような口ぶりでもない。それはほんとうに心からのことばだと信じてもいいんじゃないか、と思うような言い方だった。
 ぼくが返事にこまってだまっていたら、彼はふと思いついたように言った。
「あのさ、知らないまちの中を探検するのって、好き?」
 思ってもみなかった質問に、ぼくはまたポカンとした顔をしてしまった。
「好きだよね? 前もうちの方まで歩いてきてたし。それで、こういう話を書くのも好きでしょ?」
 確かに、まちの中を歩き回ったり、あちこち路地をのぞいてみたりするのは好きだと思う。好きというか、いつもやっていることだ。文章を書くのは、どうだろう、好きなんだろうか。少なくとも、ぼくにとっては、話すことよりも向いているとは思う。
「ちょっとさ、協力してほしいことがあるんだ」
 彼はいたずらっぽくニヤリと笑った。それが、このまちの「ぼうけん」計画の始まりだった。

 土手をしばらく走っていたら、前にこの「ぼうけん」で行ったことのある、彼のお姉さんの大学が見えた。
「あ、あの大学ってここにあったんだね」
 独り言のような音量で言ったけど彼はちゃんと聞いていて「ああ、うん」と返事があった。
「お姉さん、元気にしてる?」
 ぼくはおそるおそる尋ねてみる。
「元気そうだよ」
 彼は特に表情を変えずに答える。それからちょっと間をおいて続けた。
「まあ、姉ちゃんもいろいろ考えてるんだろうなあ」
 ぼくは一度だけ会ったことのある彼のお姉さんの、なんだかふきげんそうな顔つきを思い浮かべた。
 ぼくらはこの「ぼうけん」を初めてから、何度かお互いの家にも遊びに行っていたけど、彼のお姉さんに会ったのは、夏休みの終わりごろに行った時の一度きりだ。
 いつも出迎えてくれるのは彼本人か、彼のお母さんだったけど、その日は見たことのない女の人が出てきたのでぼくはちょっとひるんだ。ちょっと険しい顔つきでぼくを見ながら、というかほとんどにらまれているような気分だったけど、それでたぶん彼の同級生だと察してくれて、「ああ、ちょっと待っててね」と奥へ下がって行った。その時の声と横顔が彼に似ている気がしたので、あ、お姉さんなのかな、とそこでぼくも気づいた。
「姉ちゃん、怖かった?」
 お姉さんと入れかわりに出てきた彼の質問が図星だったもんだから、ぼくはちょっとあわてて「いや、そんなこと……」としどろもどろに言った。
「まあ、しょうがないよ。春からずっとあんな感じなんだ。行きたかった大学に行けなくて」
「お姉さん、大学生?」
「そう。ブンガクブだって言ってたけど、ほんとは音大に行こうとしてたんだ」
「音楽の大学ってこと……?」
「だから、そっちには行けなかったんだけどね。ずっとピアニストになるってピアノ練習してた。ずっとだよ。で、チャンスは一回だけってうちの親には言われてて、その試験の当日にさ、熱出しちゃったんだ、姉ちゃん」
「えっ」
「それでも行くって言い張って、試験の会場には行ったけど、出かける時も見るからにふらふらで、かばんもまともに持てないぐらいだった。その場で演奏きいてたわけじゃないけど、どうだったかって聞こうとしたら殺されそうな目でにらまれたな」
「お姉さん、もしその……熱とかなければ、合格できるぐらい上手かったの?」
 詳しくは知らないけれど、音楽の道に進むのは簡単じゃないってことぐらい、ぼくにもわかった。
「どうだろうなあ。ぼくよりは上手かったはずだけど、もうしばらく姉ちゃんの弾くところ見てないから忘れちゃった」
「ぼくよりはって……ピアノ、弾けるの?」
「うーん」
 彼は急に、言わなきゃよかったなというふうに顔をしかめた。それでぼくもなんとなく申し訳なくなってそれ以上は聞かなかった。
 質問したのを忘れた頃になって、彼は不意に言った。
「でも、ぼくは音楽の道には進まないもんな、ぜったい」
「どうして?」
「だってさ、それは姉ちゃんが目指してた道だからさ、それを、じゃあ今度はぼくがって、思えないし、なんか姉ちゃんに悪いもん」
 わかるような、わからないような気がした。
 それから何度か遊びにいくうちに、どういうわけだったかは忘れたけど、彼がぼくの前でピアノを弾いてみせてくれたことが一度だけあった。ぼくには音楽のよしあしはわからないけど、とても上手いように聞こえた。テレビやラジオなんかで聞こえてくる音楽みたいだったから。
「プロになれそうだよ」
 彼に「小説家になれるよ」と言われた時のことを思い出して、そんなことばがぼくの口をついて出た。彼は笑わずに首を横にふった。
「だめだよ。あそこはぼくの場所じゃないんだ。姉ちゃんの場所だから」
「あそこって?」
「ステージの上だよ」
 もし彼のお姉さんが音大に受かっていたら、と自転車をこぎながらぼくは考える。そしたら彼は、じゃあぼくも、といって同じように音楽の道を目指すんだろうか。そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。結局のところ、これだけ一緒に「ぼうけん」をしていても、ぼくは彼のことをほんとうにはわかっていなかった。ただ、彼はどうしようもなくやさしいし、まっすぐなんだということは――その表し方がちょっと不器用だとしても――それは、ずっとわかっている。彼がぼくの書く文章をうらやましいと言うのよりもたぶんずっと強く、ぼくはそんな彼のまっすぐさを、うらやましいと思う。

 となりの市を過ぎて、あとひとつ市を抜けたら県境だというところまで来た時には、もうお昼になっていた。彼は出発してすぐの時みたいにことさらにスピードを上げることはしなかったけど、なるべくペースを落とさないようにぼくらは走った。
「意外とここまで来るのも時間かかっちゃったなあ。県境まで行けるかな」
「地図で見たときは行けると思ったんだけど」
「まあ、行けるとこまで行くのが目標なんだし、とりあえずまっすぐ行くだけだよ」
「そうだね」
 ぼくらの口数は少なくなる。だまって風を切る。
「なあ、そろそろ腹減ってこない?」
 とつぜんな彼の申し出に、ぼくの抱いていた緊張感は一気に吹き飛んだ。思わずぼくが声を出して笑うと、「なんだよ、そんなに笑うことじゃないだろ。しょうがないじゃん、減ったんだから」と彼は口をとがらせる。ぼくらは少し先に見える公園で弁当を食べることにした。
 広い公園だった。真ん中に野球場みたいなグラウンドがあるけど、だれもいない。寒さのせいか人はまばらだ。ぼくらは公園の中をぐるっと一周回って、ちょうどよさそうなベンチの前に自転車を止め、座って弁当を広げる。
 食べ始めて少しした時、彼が急に言った。
「お前がほんとに小説家になってくれたらいいんだけどな」
「え? なんで……」
 こういう突拍子もないことを言うのはよくあることだけど、ぼくはさっきじぶんが考えていたことを見抜かれているんじゃないかとどきりとした。
「だって、そしたらさ、いっしょにぼうけんできなくなっても、またお前の書いた話が読めるじゃん」
 ほんとうに単純な答えだった。単純すぎて、ぼくはまた、うなずくタイミングを見失っていた。
「お前が書いてくれてたぼうけんの記録、ほんとにさ、漫画とか本とか読んでるみたいでおもしろかったもんな。じぶんで行って、見て、知ってるはずのことなのにさ、何回も読んじゃうんだよな」
 ほんとうに? そう聞きたくて、でもうまく口が動かなかった。じぶんが書いたものを、ほかの人がそんなふうに読んでくれていた、というのが、ぼくには信じられなかった。だけど、彼の言うことは少なくともうそじゃないと思う気持ちもあった。
「もしほんとに作家になったらさ、ファンになってやるよ」
 彼はニヤリと笑って言う。小説家になるって、そんなかんたんなことじゃないんだぜ、とか、なれたらうれしいなあ、とか、返事のしようはいくらでもあったけど、そのどれもなんとなくちがう気がして、ぼくはしかたなく彼と同じように笑った。
 彼は持ってきたおにぎりをいくつかさっさと食べてしまうと、野球場のほうへ走って行って、木の枝と石を拾ってバッティングのまねをし始める。人に当たったら危ないよ、と思うけど、まあ、だれもいないから今はいいかという気になって、ぼくもじぶんの弁当を食べ終えてそっちへ行く。広い野球場の上にはさっきと同じ青いドームがかぶさっている。
「ホームラン打ったら、吸い込まれちゃいそうだね」
 ぼくはそのドームを見上げながら、さっき走りながらしていた話の続きみたいなことをぽつりと言った。
「え? なに?」
 彼が聞き返す。いつもならちょっとはずかしくなって、なんでもないとごまかしていたけど、今日はなんだか、彼がどんなふうに反応するか知りたくなった。
「これだけ空が真っ青だと、ホームラン打ったらそのまま吸い込まれていっちゃいそうだなって」
「ああ、そうだなあ」
 彼はフルスイングしながら答える。思ったよりあっさりしていて、ぼくはちょっとがっかりした。もしかしたらさっきの飛行機の話の続きができるかもと思ったのに。
 彼は次のちょうどいい石ころを探して歩き回っている。
「でも、どうせならぼく、消えちゃうよりは突き抜けちゃうほうがいいな」
 あ、これはいいや、と丸っこい石を拾い上げながら彼が言った。
「突き抜ける?」
「そう。なんか、さっきはこんなに空が高くて青いと吸い込まれちゃいそうだなって思ったけど、よく見たら、ピシッと張られたセロハンとか、ガラスか何かにも見えてきてさ。あれに思いっきりホームランボール打ち込んだら、きれいに突き破れそうだもん、パァン! ってさ」
 それっ、と彼は石ころを思いっきり打ち上げる。何メートルか先にそれが落ちてくるのを見て、「なんてな」と笑う。ぼくはやっぱり、彼がうらやましかった。

 ぼくらはもういちど自転車にまたがる。まっすぐ、まっすぐ、ただペダルをこぐ。目標の県境が近づく。ぼくらの「ぼうけん」の終わりも近づく。
 ぼくは少し前を走る彼を見る。この半年ちょっとの「ぼうけん」の間、ほとんどずっと、こうして彼が前を走っていた。
スピードを上げる。追いついて、今度はぼくが少し前に出る。
じぶんの前にだれもいない景色。ずっと続くまっすぐの道。
 すぐ後ろを彼が走っているのはわかっていた。でもなぜか、振り返ったら彼はいないんじゃないかという気がして、ちょっと不安になる。それでも今は、このままもう少し走っていたかった。
このまま、このまま、青いドームの果てまで行ってやれ。それから、ドームを突き抜けて、もっと先まで。
弾む息といっしょに、そう小さく唱えながら、ぼくは県境へ向かう。

書くことを続けるために使わせていただきます。