【小説】9 人形の夢と目覚めと、その続き

 あんたと同じぐらいの歳の女の子が、えらい難しい研究でなんや大発見いうて新聞に載っとるよ、ようわからんけどすごいねえ、という母からの電話に、ニュースで見た見た、すごいねえと返しながら、そんなんで私にかけてこんでええやん、と内心では顔をしかめる。同じぐらいの歳だからって、ニュースを見たら私とは全然違う世界の人間だって、一目瞭然だろう。私でも名前を聞いたことあるぐらい有名な都内の高校を出て、最難関の大学に進んで、ずっと植物の研究に打ち込んできたんだそうだ。それで、私も詳しくはわからないけれど、ナントカ生物学みたいな名前の分野で、すごく重要な研究結果を発表したって。そりゃあ確かにようわからんでもすごいわ。
 私は出勤の準備を整えながらやれやれと溜息をつく。
 ええなあ、持ってはる人は。
 高校を出るまでは、私もそっち側の人間だと思っていた。
 
 近畿の田舎町から、大阪でも京都でもなく東京に出てきたのは、「すぐに実家に帰れる距離」にいたくなかったからだった。とにかく家から離れたかった。別に家族との仲が悪いわけではない。なんならすごく大事に育てられたほうだと思う。怪我しないように、失敗しないようにって、いつも母は私のことを気にかけていた。着る服、食べるもの、遊びに行く場所、私の一挙手一投足を。ある程度大きくなってからは四六時中そんな調子というわけでもなかったけど、それでも家にいる間は、なんとなく母の言うとおりにしないといけない気がしていた。父はあまり喋る人ではないからどう思っていたのかはわからないけど、母に対しても文句を言うでもなく、私にも甘かった。要は箱入り娘なのだった。それで守られていたところもあるし、自分で考えなくてもなんとなく生きていけるというのは楽でもあった。
だけど、いや、だからなのか、母といるとなんとなく疲れる。そう感じるようになって、私は東京の大学に進もうと決めた。
 ついでに言うなら、高校までの私はずっと成績優秀で神童みたいに扱われたりもして、東京に行っても結構、うまくやれるんじゃないかとか、そんな自信もたぶん少しはあった。ちょっと勉強のできる田舎の子にはよくある話、だと思う。
現実はといえば、なんとか第三志望の大学に受かって東京には出てきたものの、そこで何か大成するでもなく、自分のやりたいことを見つけるでもなく、適当に遊んで、程よく単位を取って、無難に就職活動をして、さほど興味があるわけではない仕事に就いて、今に至る。
 つまらん人間やなあ。
 上京してほぼ十年、こんなことばかり考えている。母から電話を受けた日は特に。

 紹介したい人がいるんだけど、と、大学時代の同期から急に連絡が来たので、私は何かの勧誘ではないかと身構えた。そんな疑念を電話口越しに察してか、彼女は「あ、何も買わせたりしないし変な団体に誘ったりもしないから」と前置きして話し始める。
「私の会社の上司の弟さんなんだけどさ、まあ、色々あって」
 聞くとそもそもは彼女が恋人募集中で、その上司の弟さんが年齢も近いからというので紹介してもらったという。彼女自身はあまり話が合わなくてこれっきりかなという感じだったらしいけど、どういう話の流れか、私のことを彼に話したら興味を持っていそうだったから、今度紹介しますねと伝えたらしい。途中から全く話がわからない(特に、どうして私のことが話題に上って、どうしてその人が興味を持ったのか)し、やっぱりその人から何かに勧誘されたり売りつけられたりするのではないか。
「大丈夫よ、その時は一応私も一緒に行くつもりだし」
「そうは言うても……」
「約束しちゃったんだもの、会わせるって。一回顔見せればそれでいいからさ」
要するに、自分の好みとは違うから私に押し付けようって算段ではないかと思うのだけど、結局彼女を介してその人と会う場がセッティングされることになってしまった。こういう時うまく断れなくて、ほかの人のペースでどんどん話が進んでいくのをただぼんやり眺めているだけなのは昔から変わらない。
「それなら、前もって教えてほしいねんけど、その人、なんで私の話に興味持ったの?」
 せめてそれぐらいの情報がないと、こちらとしてもどんな気持ちでいたらいいのかわからない。
「ううん、私もよくわからないんだけど、こんな感じの友達がいるんですよみたいな話をしてたら、面白そうな人ですねって」
「ちょっと、それただの社交辞令とちゃうの」
「え? そんなふうには聞こえなかったけどなあ」
 あ、そうそう、と彼女は思い出したように続けた。
「同じ大学に首席で合格した子なんだよって話したの」
「ええっ、なんでそんなこと話すの」
「出身の話になったから……同じ大学で、地方から来てる子も結構いましたっていう流れでさ」
「もう、そんな昔の話引っ張ってこんでええのに」
 私の精一杯のクレームも虚しく、じゃあそういうことでよろしくねと彼女は電話を切ってしまった。

 彼女がその人にどんな説明をしたのかはわからないが、確かに、大学に学部内の首席で合格した、というのは事実だった。というか、そうやって奨学金をもらっていなかったら、実家を出て、私立の大学に進むなんて難しかっただろう。
受験の時、親は私が実家から通える大学に進む前提で、学費の心配はしなくていいからと言っていたけど、私は第一に実家から出ることを考えていた。自分でとった奨学金と、アルバイトもしてそれで稼いだお金で学費も生活費も払えるようにする。だから東京に行かせてほしい。そう言って親を、特に母親を納得させたかった。結局それだけでは足りなくて、上京してからも学生のうちは仕送りを受けることになってしまったのだけど。
 あの時は、とにかく家から離れたら何か変われると思っていた。誰かに守られるのでなく、誰かの目を気にすることもなく、自分の頭で考えて、自分のことは自分でやって、自分の好きなことを好きなだけできるようになるんだと。
 その「好きなこと」が、何も定まらないまま、だから何もできないままの十年。なんでも周りが決めてくれていた子どもは、一人で飛び出したところで、自分で道を決めるやり方がわからない。
 人形は箱から出ても人形のまんまやったなあ、と、また少し憂鬱になる。

 待ち合わせ場所に指定された喫茶店に行くと、もう彼女は席に着いていて、私に向かって手を振った。彼女の向かいに座っているのがその人なのだろう。私は会釈して彼女の隣に座る。彼女が私を向かいの人に、向かいの人を私に紹介した。
「小学校で音楽の先生をされてるんだって」
 そういえば、この前の電話では相手の人がどんな人なのかほとんど聞かされていなかったと今さら気づく。これで何か物騒な人だったりしたら、私はどうするつもりだったんだろう。いい歳して私も危機感が薄いなあと思う。
「すみません、お忙しいところ時間を作っていただいて。まさか本当に会わせてもらえるとは思わなかったので」
 彼は申し訳なさそうに言う。やっぱり社交辞令だったんじゃないの、と私はこっそり隣を睨んだが彼女は気づいていない様子だった。
「まあ、せっかくの縁じゃないですか。じゃああとはごゆっくり」
 なんと彼女はそう言って席を立った。
「えっ、ちょっと」
 私は慌てて呼び止め、小声で「冗談でしょ」と詰め寄った。さすがに自己紹介で一言喋っただけで私たち二人を置き去りにするのは酷い。
「ごめん、この後約束があるの」
「当日は一緒に行く言うてたやん」
「だから、ひとまず挨拶だけは、ね? 悪い人じゃないからさ、のんびり喋っていきなよ。何もお見合いでもないんだし」
 そういえばこの子は恋人探し中だった。次の恋人候補との約束かもしれない。それにしたってええ加減なもんやなあと私は頭を抱え、その隙に彼女は「じゃあ、健闘を祈ります」と言い捨てて出て行ってしまった。何の健闘やねんと思いながら、仕方なく席に戻る。
「すみません、ばたばたして。あの子も忙しいみたいで……」
「いえ、用事があってすぐ出ないといけないというのは聞いていたので」
 穏やかな人だ。それでいて、同じくらいの歳だと聞いていたわりには幼くも見えて、不思議な感じがした。
「ええっと……」
 何から話したらいいのか、いきなりわからなくなる。彼女はこの人に私のことをどう話したんだろうか。
「関西のご出身なんですか」
 迷っていたら向こうから先に切り出してくれた。
「ええ、はい、まあ」
 どのあたりかと聞かれて地名を答えると、ああ、と言ったきり少し考えるような表情をする。なかなか掴めない人だなと思う。
「僕の子どもの頃に仲の良かった奴がね、関西に引っ越してしまって……どんなところだろうなと思っていたんですけど」
「はあ」
「その子は大阪に引っ越したんだったかな」
「なら、関西いうてもだいぶ違いますね。私は田舎のほうなんで……」
 まさか、興味を持ったというのはそこなんだろうか。だとしたら、特に参考になるような話はできないけど。
「あ、やっぱり関西弁なんですね」
 彼は急に嬉しそうな声でそう言った。
「ええと……まあ、そうです」
「僕、ずっとこっちに住んでるので……あ、といっても都内ではないんですけど、あまりほかの地域の人と会うことがなかったんです。その関西に引っ越した友人も、何年か経ってまた東京に戻ってきたらしいんですけど会っていなくて、そいつを通じて大阪出身の人と知り合うみたいな機会もなかったし」
「はあ」
 なんだか間抜けな返事しかできないまま、私は戸惑っていた。この人は何の話を望んでいるんだろう。
「なんだろうな、今となってはそれほど遠い場所ではないはずなのに、ずっと遠いところのような気がしていたんです、関西っていう地域が。だから、そこのご出身の方だって聞いたら会ってみたくなってしまって」
 そう話す彼の口調や表情を、私は無邪気やなあと思った。地方を馬鹿にしているとかでもなく、嫌味なんかでもなく、単純にその友達が引っ越していった先がどんなところで、どんな人たちがいるのか知りたいと思いながら、今日まで十何年間か生きてきたのかもしれない。そう思うと少しおもしろくなってきた。
「まあ、同じ日本やから、そんなに違うこともないと思いますよ。言葉はちょっと違うかもしれませんけど」
 彼はふむふむと頷いて、
「でもいいですね、関西弁の響きって。標準語にはない抑揚があるから、音楽みたいで聴いていて心地いいですよ」
「そうですか? 音楽の先生されてたら、そういう感覚が強うなるんですかね」
 そんな調子で方言の話をしばらくしているうちに、なんとなくこちらも緊張が解けてきた。確かに悪い人ではなさそうだ。
「あの、私のことって、何かもう彼女から聞いてます?」
 恐る恐る尋ねてみると、彼はコーヒーカップから口を離しながら、ああ、と言った。
「関西出身でこちらで一人暮らしをされてるというのと……ああ、それと、すごく頭がいいんだって聞きました。大学で首席だったって」
 微妙に間違って伝わっている。私は眉をひそめた。
「いや、首席いうのは……入学試験の成績は確かにせやったんですけど。いや、ええっと、それも大学全体やないんです、学部だけの話で」
「それでもすごいじゃないですか。そんなに違わないでしょう」
「違うんですよ」
 思わず声が上ずってしまった。彼は少し驚いたような目でこちらを見る。
「……すみません。でもほんまに、別にすごくないんです、私は」
「どうしてそんな……」
 頭がよくて努力家で、自立した子なんだと聞いた、と彼は言う。周りの人から見たら、私はそう見えていたんだろうか。
「自立もなにもしてませんでしたよ、私」
 苦笑いしながら答える。形の上では、受験でめちゃくちゃ努力して奨学金をとって上京して、最低限足りない分の仕送りはしてもらっていたもののなるべく実家には頼らずに大学を出て、今は自分で生計を立てながら暮らしている。それは自立しているように見えるのかもしれないけど、上京してから今日までの間を振り返った時、私が本当にやりたいと思って選んだものは何もない。
 環境が人を変えるとか、そんなのは嘘だと思う。いくら実家を離れて一人で暮らすようになっても、私には自立した意志というようなものが芽生えることはなかった。
 斜向かいの席に座った彼が困ったように腕組みをしているのに気づいて、私は我に返った。初対面の人の前でこんな態度をとって、わざわざ場を気まずくしなくてもいいのに。こういうところが子どもやねんなあと思いながら、私は慌ててすみません、気にしないでください、とごまかそうとした。
「なんというか、今は金銭的には自立してますけど、なかなかね、こう、誰にも全く頼らずに生きて行く、いうのは難しいもんですよね」
 一般論で切り上げようとしたら彼は首を傾げた。
「誰にも全く頼らずには、そもそも生きていけないんじゃないですかね。みんなちょっとずついろんな人に頼ってると思いますよ」
 それも一理あるけど。
「僕が聞いててすごいなと思ったのは……箱入り状態から脱出しようとして上京してきたんですよね。それにご自身で気づいて、外に出ようとしたっていうところなんですけど」
 彼女はそんなことまで話していたのか。
「まあ、出たはいいんですけどね。結局人間は中にいた時と同じなので」
「それは、人間そう簡単には変われませんもん」
 その台詞を聞いて思わず私が笑ってしまったのは、彼のイントネーションが関西弁に近づいているような気がしたからだ。彼自身も気づいたのか、ははっと笑う。
「話し方は相手につられてすぐ変わりますけどね」
 彼はコーヒーをもう飲み干してしまっていた。お代わりはどうかと聞こうか迷っていたら、彼はそれには構わず話を続けた。
「僕は、ずっと自分で枠を決めて、ここから向こうにいっちゃ駄目だって決めていたんです。それで、でもやっぱり自分の得意なことを生かせる仕事がしたいと思って、枠の中で辛うじてそれができる職業を選ぼうと考えて――それが今の仕事なんですけど……いや、すみません、ぼんやりした言い方で、何のことかわかりませんよね」
 何のことかは確かによくわからないけど、何を言いたいのかはわかるような気がした。
「まあ、もう少し具体的に言うと……プロの音楽家を目指すかどうかというところで、僕は目指しちゃ駄目だと思って、端からその道を捨てていたんです。まあ、家族のこととか、色々事情はあったんですけど、最終的には勝手に自分で自分に制約を課し続けていたというか……枠から出ても良かったんですよね。でもそうしなかったので、外に出ようとできたというだけでもすごいと思うんです」
「私の場合は、自分で枠を決めていたわけではないですし……」
「確かにそれはそうかもしれませんけど」
「出たところで、結局大した違いはなかったんですよ。場所が違うだけで、たぶん、私は地元に残っていたとしてもそんなに変わらない人生を送っていたと思います」
 ああ、核心をついてしまった。私は心の中にどろっとした黒いものが流れるような気分になった。この十年間、ずっと目を背けて、言葉にするのを避けてきたこと。
「……でも、出会う人は違ったでしょう」
「出会う人……」
 それはそうかもしれない。やっていることは一緒だったかもしれないけど。大学の人たち、就職先の人たち、今日この場を設けたあの子、それから、今話しているこの人。もし私が地元で進学して就職して、親戚や知人の紹介か何かで結婚して、という道を進んでいたら、たぶん、交わることのなかった人たち。
「そういう違いがどこにどう繋がっていくのかがわかるまでには、もう少し時間がかかるかもしれませんよ」
 優しい人やなあと思う。今初めて言葉にした話を、聞いてくれたのがこの人でよかったかもしれない。そんなことを考えていたら彼は続けた。
「地元にいたら、今日こうやって話すこともなかったかもしれませんね」
 最初に関西弁の話をした時と同じような、無邪気な調子だった。
「それは、お互い様なんとちゃいますかね」
「お互い様?」
「もしほんまにプロの音楽家になってはったら、ここで私なんかと話すことはなかったんやないですかね」
 そう言って少し笑うと、確かにそうですね、と彼も笑った。
「実は、お互い虚しい選択をした者同士で話が合うんじゃないかと思って、会わせてほしいってお願いしたんですけど」
 冗談交じりのような口調でそう言われたので、「何それ、ひどいわあ」と返すと、彼は笑いながら「すみません」と頭を下げる。
「ちなみに、僕はもうこのまま枠の中でそれなりに楽しく生きて行こうと思って、もう自分でもそれに納得してはいるんですけど」
 これからどうされるんですか、と彼は聞いた。それはなんとも曖昧な言い回しだったけど、私は自分の解釈がたぶん間違っていないということにして答えを考えた。相変わらず私は人形のままではある。それでも、彼と話しながらおぼろげに見えてきていたものがあった。
「私も、やることは一緒ですけど――まあ、外に出てきた以上は、こっちに自分の居場所を作らなあかんと思います」
 せやから、さっきも言うてましたけど、こっちで出会った人を大事にせな、と言うと、彼は頷いてくれた。
 あなたも含めて、と、私は心の内で付け足した。

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