【小説】5 その日までお元気で



 拝啓。
 ようやく梅雨が明けて、あなたは夏の到来をさぞかし喜んでいることだろうと思っています。強い日差しが景色にくっきりと陰影をつけるこの季節には、植物の生命力がその色や形により強くあらわれてくるということに、ぼくは最近気づきました。
 どうしてまた突然こんな手紙を書くのかと、あなたは不思議に思うでしょうか。
 理由はとても単純で、きのう帰り道で自転車を走らせていたらにわか雨に降られて、その時、雲間から差し込む西日が雨粒を照らすのを見て、あなたのことを思い出したからです。天気雨の中、失くしたと思っていたノートを、走って届けてくれたあなたのことを。
 そうして、あの時、あなたはぼくに自分のことをいろいろと話して聞かせてくれたのに、ぼくはほとんど自分のことをあなたに話したことがなかったと気づきました。ぼくは面と向かって人と話すのが昔から苦手でした。けれども、もしかしたら文章という形でならば少しは上手く伝えられたのではないかと、そう思ったのです。だから今になってこんな手紙を書き始めてしまいました。

 最後にお会いした時に話した通り、ぼくは普段は電車を使っていませんでしたが、入院している妹の見舞いに行く時にはあのホームから電車に乗っていました。病院までは少し遠いので、面会のできる時間ぎりぎりまで妹のところにいた日は、家に帰らずに、近くにある祖父母のところで夕食をとったり、そのまま泊めてもらったりすることもありました。以前、朝の電車で寝過ごしそうになっているあなたを見たのは、そんな理由で祖父母の家から学校に向かっていた日のことです。
 こんなことを書いて気分を害しては申し訳ないけれど、ぼくはあなたを見ながら、妹のことを考えていました。その前日、ぼくは妹が近々受ける予定になっていた手術について、病院の先生から聞かされたところだったからです。妹は心臓の病気で、いずれはしなくてはならないと言われていた手術でした。それが上手くいけば、これまでのように何度も入退院を繰り返さなくても、元気に過ごせるようになるというものでした。
 元気になった妹が、中学校、高校と大きくなって、一人で電車に乗って通学している様子を、ぼくはあなたを電車で見かけた時、想像していたのです。
 そんなことを考えているうちに電車は学校の最寄り駅に着こうとしていましたが、おそらく同じ駅で降りるはずなのに、車窓にホームが見えてもあなたは微動だにせずうつむいたままだったので、ぼくは少し心配になりました。ただ寝ているだけかもしれないけれど、もしかするとどこか具合でも悪いのかと。それで、ああやって声をかけてしまったのです。まったく今さらな話ですが、結果的には寝過ごさずに済んでよかったかもしれないとはいえ、驚かせてしまってすみませんでした。
 妹の手術は無事に終わり、退院の日も決まりました。実は、あのノートをぼくが図書館に忘れて行った日がその手術の日でした。隠すつもりもなかったのですが、うまく説明できる自信がなかったので、あなたには咄嗟に「検査があったから」と言ってしまっていたと思います。なんだか謝ってばかりですが、適当にはぐらかすようなことをしてごめんなさい。あのノートを届けてくれたあなたに、ぼくはもっと誠実に応えなくてはならなかったと思います。
 話したとおり、あれはぼくが妹のために書いていた作り話です。きっと知らない人が見たら、子どもがファンタジー作家の真似事をしたものというぐらいにしか思わないでしょう。それなのにあなたは、そうは思わないと言ってくれた。ぼくは、あのノートに気づいて届けてくれたのがあなたでよかったと、心底から思いました。

 あなたは、植物が好きで、その研究をしていきたいのだと話してくれました。あなたが見せてくれたような、植物への真摯なまなざしをもって綴られた本を、きっと将来のあなたも書くことになるのだろうとぼくは想像します。そしてきっと、あなたはもうその方向へ進み出しているのでしょう。自分の好きなものにまっすぐに向き合う人を、ぼくは尊敬します。
 あのノートのお話は妹のためのものだと、先ほど書きました。正直にいうならば、それだけではないのです。あれはぼく自身のために書いているものでもあります。
 昔から人と話すのが苦手で、どちらかといえば文章のほうがまだ上手く書けていたものだから、ぼくは物書きになることを密かに夢みるようになりました。一番のきっかけは、小学校の同級生と一緒に街中を自転車で探検して回っていたのを、「ぼうけんの記録」と題して小説風に書き留めていて、その同級生から「作家になれるよ」と言われたことでした。でもその記録も、自分と彼以外に読んだ人はいないのですが。
 今では、作家というのはそう簡単になれる職業ではないとよくわかっています。それでもぼくはずっと文章を書くのが好きでした。何かの「お話」を書き続けていたいという気持ちもありました。だから、妹のためという名目で、ぼくは自分が物書きでいたくて、あれを書いていたのだと思います(実際のところ、妹はぼくの書いたお話よりも、挿絵の代わりに貼っていた新聞や雑誌の切り抜きの絵や写真のほうが好きだったようです)。
 それが書かれたノートを、あなたが、どうでもいいものではないと思ってくれた。自分の書いていたものが薄っぺらな落書きではないと思ってくれる人が、一人でもいるということが、ぼくは単純に嬉しかったのです。
 妹が退院したら、彼女のためという名目はなくなります。そうなった時に、ぼくは果たしてそれでも「お話」を書き続けるべきか、書き続けることができるか、それともきっぱり諦めてしまうか、ずっと迷っていました。
 もう一度言います。ぼくは、好きなものにまっすぐに向き合う人を、心から尊敬します。
 ぼくはその点、きっとあなたには敵わないでしょう。それでも、まだもうしばらくは続けたいと、ぼくはあなたが届けてくれたノートを受け取った時、ようやく決心がついたのです。
 ぼくがあなたに言えずにいることのなかで一番ここに書きたかったのは、だから、あなたへのお礼でした。
 あなたを電車で見かけて、その後、図書館で話しかけてくれて、植物を研究したいという話やおじいさんのことを聞かせてくれたこと、そのおかげで、ぼくにも好きなものに対してもう少し向き合おうという覚悟ができたことへの、お礼を伝えたかったのです。
 あなたに手紙でなら伝えられただろうかという思い付きから、ここまでつらつらと書いてきました。面と向かって話すよりは、やはりこのほうがぼくには向いていたようです。
 けれども、ぼくはあなたの名前も、住所も知りません。
 妹が退院してあの駅を使うことがなくなり、大学受験のための勉強で、図書館からも足が遠のいてしまった――ぼくは図書館に行くとすぐ本に手が伸びてしまうので、勉強をする場所には向かないのです――ことで、あのノートを届けてもらった日を最後に、あなたに会うこともなくなってしまいました。そうこうしているうちにまた梅雨が来て、そうして夏を迎えました。あなたが何年生だったのか、今もあの高校に通っているのか、もう卒業してどこか遠くで植物のことを学んでいるのかということでさえ、ぼくにはもう知る由もありません。
 だから、投函のしようもないこの手紙は、書き終えたらきっと一思いに破り捨てるか燃やしてしまうのがよいのでしょうが、残念なことにぼくはそれほど潔い人間ではありません。思ったよりも長くなってしまってかさばる便箋を、封筒に入れて切手も貼ってみて、そのまま机の引き出しの奥にでも仕舞い込むのだろうと思います。ぼくにとって大きな救いとなったできごとの記録として。

 「もしも」という妄想を、最後に一つだけ書かせてください。
 もしいつか、あなたの書いた植物についての本が出版されて、それから――これは本当に可能性の低い「もしも」ですが――ぼくも物語を書き続けて何か世に出せるような作品ができて、そうしてぼくがあなたの本を、あなたがぼくの本を読む、ということが起きたら、ぼくにとってまたとない幸運であると思います。
 万が一その日が訪れることがあるならば、またいつか、その日までお元気で。
 陽射しの強い夏になりそうですので、植物観察の際にもお体にはどうかお気をつけて。
                                敬具

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