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松浦弥太郎さん本を読んで「普通の人だからこそエッセイストになれる」と思ったわけ

末吉宏臣さんの『発信する勇気』を読んでいて、自分にとって発信するってなんだろう?って考えたときに、一番しっくりくるのが、

自分のフリーランス看護師としての働き方や日々高齢者と向き合う中で考えたこと、子育てや暮らしの中での気づきなどをエッセイにすること。

だと思った。これについては以前も少しnote記事でお話しました。

普通の人こそエッセイストになれると思うわけ

そんな中、私は自分の職業として高齢者の看護を日々の仕事として行っていることと、その仕事をフリーランスの仕事として請け負っている視点から、これからの看護師や介護業界の人の働き方についても、思ったことを日々書いている。

私にとってはこの作業はとても楽しくて、もはや日銭を稼ぐために働いているのか、書くために働いているのか、わからなくなってきている。

その証拠に、日銭を稼ぐためだけなら同じところで固定して落ち着いて仕事をする方があるいみラクだと思うのだが、私はちょっと気になる仕事があったらもはや「やってみたい」と思い、どんどん新しい看護や介護の仕事を請け負うようになってきている。

そして「働いては気づきを得て、note記事にする」ということを繰り返している。ネタはつきることなく、逆に少し書く作業を増やすため、看護師仕事はセーブしないとアウトプットが追いつかないくらい、書きたいことが次々出てきている状態となっている。

しかし、これは私だけでなく、誰にでも可能なことと思う。
むしろ、「自分の本業が発信業以外にある人の方が、書けることは多い」はず。

どうやって書くのか、松浦弥太郎さんの『エッセイストのように生きる』を読んで少しこのことについて考えたことがあるので紹介します。

普通の日常をエッセイにする生き方

私は様々な発信方法がある中でも、とてもやっていてたのしいな、と思えることが「エッセイを書くこと」だと気づいたのは、松浦弥太郎さんのこの本を読んでからだ。

それ以前も、自分の考えをnoteに自由に書いていたけれど、私が書きたいことというのは、日記や物語や何かの知識をわかりやすくまとめる、などではなくて、「仕事や暮らしの中から自分が考えたことや気づいたこと」を文章にすることだった。

だから、仕事中や家で家事をしているときなども、いつも何かしらこれはどういうことかな?どう思ったのかな?この出来事から導き出せることはなんだ?などと考えているし、それ自体がたのしい。クセのようなものとなっている。

松浦弥太郎さんの本でも、このように書いてある。

エッセイの本質は「今日はこんなことがあった」といったできごとや行動ではなく、「それによってこんなふうに思った/考えた」という心と頭、自分の内面のほうにあるわけです。

僕の感覚的にも、エッセイを書くことの全体を10とすると「書く」がだいたい3くらい。その前段階の、「自分の心と向き合うこと」や「考えをめぐらせること」が7くらいになります。

『エッセイストのように生きる』

これは、誰にでもできることだと思う。
本業がある人でも、子育て中の主婦でも、学生でも、「その人の日常の出来事から自分が考えたこと」があれば、それはその人にしか書けないオリジナルのエッセイにもはやなっている。

ただのエッセイストの肩書だけなら、著名な人には及ばないかもしれないけれど、自分の本業を使ってエッセイを書いていけば、その分野のエッセイに関しては自分が一番書けることが多いかもしれないし、書くべきことが出てくるかもしれないし、読みたい人もいるかもしれない。

松浦弥太郎さんの引用のように、
エッセイを書くことの全体の10とするなら、
私もnote記事を書くことは全体の3くらいで、
あとの残りの7で、自分の看護師の仕事をしたり、さらにそこから考えをめぐらしたり、そういうことをしている。

私自身、どんな人のnoteを読んでいるか、読みたいと思っているかというと、何かその人のオリジナルの考えが書いてあったりすると、そんな記事を読みたくなる。

なので、今後も、私にしか書けないことを自分らしい視点で書き続けていこうと思う。



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