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      小説家石田千さんと画家牧野伊三夫さんの往復書簡

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    第157回往復書簡 灰色の血

    牧野伊三夫 →  石田千さんへ  妻と息子は、古楽器の演奏会を聴きに家のそばの森へ出かけて行った。僕は独り、アトリエにこもっている。淋しいね。  しかし、思うように絵はすすまず、途中で大きなため息をついて筆を置く。ソファに体をよこたえて目を閉じると、瞼の向こうにうららかな秋の日差しがある。そうやって、しばらくデュファイをかけて聴いていると、うとうととしてくる。  夕方になって、数日かけて描いた絵をつぶしにかかる。それが、今日一日の仕事の終わり。  もう片付けよう。洗面台に筆

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      • 第156回往復書簡 ばっさり、12時20分

        石田千 →  牧野伊三夫さんへ  月金帳のはじまったころ、美容師さんに、しばらく、じぶんで切りますとメールをした。いらい、ずっと、ざんばら髪をたばねて、ピンでとめて、まとめていた。  遠出の仕事では、たくさんのひとに会う。髪を結びなおしたり、ほつれた髪がマスクにつくのは、とてもこわい。いまも、外出のときは帽子が脱げない。  それで、美容師さんに電話をして、できるかぎり短くしてくださいとお願いした。  3年ぶりに、うかがった。しずかな室内、ほかのお客さんはいなかった。   

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        • 第155回往復書簡 寒き朝、海水へと向かう

          牧野伊三夫 →  石田千さんへ  一週間の「雲のうえ」の取材を終えて家に帰ってきた。昨夕東京駅に着いて、まだ時間があったので東京アートディレクターズクラブの展覧会をのぞくことにして、銀座の画廊に立ち寄った。受賞作のそばに富田君と僕のポートレイトが二つ並んでいたのがうれしく、写真におさめる。それから、葛西さんの作品の前でも記念写真を撮った。  ゆうべは暗くてわからなかったが、今朝、庭を見たら夏椿も榎も木々がすっかり紅葉していた。家を出るときはまだ緑色の葉をつけていたのに。水筒

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          • 第154回往復書簡 ただいま、11時45分

            石田千 →  牧野伊三夫さんへ  通勤ラッシュの地下鉄。  参考書をひろげたまま、となりのひとの肩をかりて、熟睡している高校生。全員マスクをしているほかは、なんにも変わっていない。帽子をかぶっているひとは、数えるほど。ビニール手袋をはめているのは、ひとりだけ。  窓のあいているところ、ドアのそば、すこしでも空気の流れているところと動いて、眉をひそめられ、ごめんなさい。小声は、思いのほか響いて、だれも話していないと気づく。  ビニール手袋をしているのに、つり革がつかめない。ま

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            第153回往復書簡 お湯割り

            牧野伊三夫 →  石田千さんへ  一昨日、都立美術館に岡本太郎を見に行く。  館内は撮影してもよいとのこと。これは芸術を床の間だったか、どこだったか、とにかく上の方の権威からひきづり降ろして民衆に解放するという岡本太郎の思想を継承しているのだろう。昨日は撮ってきた写真を印刷して綴じるのに半日かかった。戦後、彼が体をはって日本に持ってきたフランス近代芸術の哲学の土壌に、僕らは何を育てて行けばよいのだろう。  七輪に炭をおこして湯を沸かし、顔グラスで湯割りをつくって飲む。お湯を

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            第152回往復書簡 マーマレードと頬かむり、11時10分

             石田千 →  牧野伊三夫さんへ  来月からの仕事の準備で、しばらく金曜日は遠出の日になった。  まえの晩に、洗濯をすませる。4時に起きて、ベーグルと紅茶、かんたんにすませて、マスクをして出ればいい。それでも、ぐずぐず5時間もかかる。したくの時間をみじかくすることが、いちばんの難題。  慣れないことをすることになるから、きっと、いままでどおりの朝は、ほんとうにありがたいことなってくる。  イギリスでは、エリザベス女王がご逝去されてから、マーマレードの売り上げがのびているとの

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            第151回往復書簡 絵の具

            牧野伊三夫 →  石田千さんへ  立川の世界堂でラファエルとホルベインの油彩画用の筆を買う。それに、銀色のアクリル絵の具。「雲のうえ」の表紙の絵を描くのに、なぜだか銀色を使いたいのだ。イタリアのBRERAのを買いたいと思っていたがなかった。新宿の本店でないと置いていないのだろう。それでリキテックスで間に合わせることにしたが、濃いのと薄いのとがあって、普段使うことのない色だから、どちらを買うべきか迷ってしばらく絵の具棚の前にしゃがんでいた。  あと、瓶詰の膠、アラビアガムも買

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            第150回往復書簡 足なみ、13時18分

            石田千 →  牧野伊三夫さんへ  けさは血圧が低くて、気もちがふさいでいる。まさか、こんなことを書く日がくるとは、思いもよらなかったなあ。  血圧は、若いころから高かった。両親も高いし、おばあさんも高かった。血管の病気とわかって、とにかく血圧を下げなければいけない。薬をのんだら、翌朝からぐんと下がった。下がりすぎる日もあって、2年たっても慣れずにいる。  まえに、気もちがふさぐ朝は、目玉焼きがじょうずにできると書いた。けさも、きれいだった。  朝食を終えると、洗濯機のアイさ

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            第149回往復書簡 パリ

            牧野伊三夫 →  石田千さんへ  パリに演奏旅行に出かけた三浦陽子さんから、セーヌ川の風景や見にいった台湾映画祭のフライヤーなどが送られてくる。あちらではもう誰もマスクをしていないらしい。うらやましくて、朝からぼおっと、かつて旅したときのやわらかな日差しや色、キャフェ―のこと思いだしてばかりいる。小出楢重が、パリの街は奈良漬けの樽のようなもので、どんなに絵が下手な人でもあそこにいるだけで、それなりに絵が描けるようになるなどと冗談半分に書いていたが、本当にそうだと思う。いいな

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            第148回往復書簡 つぶつぶと混沌、9時半

             石田千 →  牧野伊三夫さんへ  おおきなスーパーマーケットで買い出しをした。  いつもどおりの、紅茶にマーマレード、きんつば、栗羊羹、ビスケット、鳴門のわかめ、丹波の黒豆、チーズ。お彼岸なので、父の好きなクッキーも買った。父は、お菓子も食事も、断然洋風だった。  紅茶はアッサムで、茶葉がつぶつぶ。近所では、ここにしかないので、ふた袋買っておく。  長谷川ちえさんにいただいて、つぶつぶのアッサムティーを知った。ちえさんが、まだ東京でお店をされていたころだった。ちえさんは、

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            第147回往復書簡

            牧野伊三夫 →  石田千さんへ  これまで何度も延期になっていた京都のnowakiでの個展がはじまった。  予約のみで三名ずつ入廊。作品を段ボールにつめて送り、みにちゃんと筒井君ご夫婦に展示をお願いする。  以下、会場に掲出の文章。   作品について   ここ数年、目の前にある現実の色や形を忠実に描くのではなく、自由に構成したり、着彩したりするにはどうしたらよいかということばかり考えている。もうデッサンする段階から、そのことを意識して描写をして、さらにカンバスのなかで、

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            第146回往復書簡 ずぶ六さん、22時50分

            石田千 →  牧野伊三夫さんへ  小沢信男さんのご本を読み終え、ことし2冊めの読書は、大竹聡さん。ずぶ六の四季。  9月もなかばのいま、半分ほど読んだ。3年のあいだ、除菌に明け暮れ、新しい本は読まなかった。ことしは、2冊は読み終えられそうで、うれしいなあ。  毎晩、寝るまえ、見開きの一話を、ちびちびと読む。  大竹さんのおさけのはなしは、豪快なのに、しーんとしている。じっさいにお会いしているときも、おなじなので、読むと、ならんでのんでいるみたい。  おでんやさんでも、バアで

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            第145回往復書簡 植物標本

            牧野伊三夫 →  石田千さんへ  小倉のアトリエの片づけをしていて、小学生の頃に作った植物標本が出てきた。落書き帳に家の近所の原っぱで摘んできた荒地花笠なんかが貼ってあるが、時を経てセロテープが黄ばんでいる感じなど、なかなかよいのでしばらく壁に貼って楽しむことにする。  その頃は、朝顔やほうせん花、ひまわり、へちまなどの種を植え、ひとつの種がたくさん増えていくのがなんとも面白かった。それから、ヒヤシンスやクロッカス、ジャガイモなんかの水栽培。家の前に鉢植えが増えていくので、

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            第144回往復書簡 私信、4時。

            石田千 →  牧野伊三夫さんへ    ワクチン初回接種の明けがた、友人たちの夢を見た。カウンターにならんで、ばってら寿司を食べていた。夢のなかでも、ひとりの不在を知っていたことは、さびしかった。  一生いっしょの病気をもって、ごうまんに生きていたことを知った。はじめて気づいたたくさんのこと、どれほど悲しい思いをさせたことか、背が震える。もう謝ることもできない。  まえの晩、さいごと決めて電話をした。留守番電話に声をのこして切った。  万が一、明日なにかあっても、悔いのないよう

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            第143回往復書簡 坂とレゲエ

            牧野伊三夫 →  石田千さんへ  小倉の実家のそばを散歩していて、坂の名前というものがまったく無いことに気づいた。地元では、「八幡池から日田彦山線の踏切へ行く坂」とか、「一本松の丘から若園小学校に下る坂」などと呼んでいる。戦後、宅地として発展した新しい町だが、そろそろ「かえる坂」とか、「松の木坂」とかいう名前をつけてもよいかもしれない。  散歩コースのなかに、「お寺の傍を産婦人科に登っていく坂」という坂があって、ここは小学生のとき、夏休みになると毎朝ラジオ体操をしにいくのに

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            第142回往復書簡 種、9時35分

             石田千 →    牧野伊三夫さんへ   毎朝、目玉焼きをつくる。フライパンには、ピーマンもいっしょにいれる。一年じゅう、かわりなく、ピーマン。幼稚園のころからの大好物で、お弁当にも、ピーマンいれてとねだっていた。  ほんとうは夏の野菜だから、いまが旬で、おおきくてりっぱなピーマンが、安くてありがたい。きのうは、宮崎のピーマンを買った。  へたのところに親指をつっこみ、ふたつに割る。このとき、流しにしろい種がたくさん散る。排水溝に流れるといけないから、紙で流しをふきとる。指

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