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「親も、ひとりの人間なんだよ」

一番好きな作品は?と聞かれたら即答できるものがある。

それは、紡木たく原作の映画「ホットロード」だ。

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これまで20回は映画を観た。ただ、映画の湘南の風景は見たくなったり、あの時代特有のやんちゃさが恋しくなった時、無性に悲しくなった時、やりきれない気持ちの時、そんなときに私は「ホットロード」をみてきた。

半年前にやっと映画「ホットロード」の原作の漫画「ホットロード」を手に入れた。

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一巻の初刷が1986年という、かなり前の作品。

この作品を要約するのはやめておくが、この漫画をこれまで3回読み、そのたびに毎回登場人物たちの感情や表情の意味が分かるようになってきた。

時代背景ももちろん違うし、見聞きもしないようなしゃべり方をする。例えば、主人公たちは「ケケケ」って笑う。「ちきしょー」って罵倒する。

そんな感じで、何度読んでも新鮮な発見がある。

今回もそんな発見があった。

これまで、ずっと恋愛と少年時代の危なっかしい奔放さを表現している作品だと思っていた。

でもすこし主人公たちの親との関係にスポットライトを当ててみると全く違った世界が見えた。

主人公の和希と春山の親は子供に弱さを隠さず見せてしまう。そんな親を見て、二人はどうしようもない無力感とモヤモヤした気持ちになって反抗してしまう。

そんな子供(和希)をみて和希の母親は「どうして娘っていうのは親のちょっとのキゲンの悪さも許してくれないのかしら…?どぉして親のことをひとりの人間として見てはくれないのかしら…?」

それに対して、母親の恋人がこう答える。

「それはね…きっと自分の目標にしている人の弱さを見たくないからだよ そーゆーのを見るのがきっとくやしいんじゃないかな…」

なんか私が親に感じていたものがすこしほぐれていくような気がした。私は親の弱いところや負けるところを見るのがとても嫌だった。小学校の時、運動会の夢を見た。

その夢では小学校の運動会に親が参加する競技があった。その競技に私のお父さんが参加した。私は精一杯、それはそれは十何年も覚えているほど大きな声援を送った。

でもお父さんは勝てなかった。悔しかった、悲しかった。スーパーヒーローみたいな自分のお父さんが実は、世間に出るとそうでもない冴えないお父さんだって知ってしまった絶望感があった。失望や怒りがごちゃ混ぜになったような感情になった。夢で私は胸が窮屈になるほど、泣いていた。

これは夢だったけど、私はこの夢を現実で味わいたくないっていう恐怖がずっとあるような気がする。

現実では親の負ける姿や社会的に冴えない姿を見ることはほとんどない。だけど、両親が喧嘩している時、お母さんがお父さんの悪口を言ってくるとき、お父さんがお母さんの悪口を言ってくる時。

私はさっきの感情に似たものを覚える。

私はずっとお母さんには「お母さん」であってほしくて、お父さんにはずっと「お父さん」であって欲しかったし、飽きもせずそれをいまだに望んでしまっているから。

でもそれはきっともうすでに、子供としての過大欲求なのかもしれない。実際にずっと「親」として何歳になっても子供に接することができる人も確かに存在する。だけど、もうそろそろ私の親はその類の「親」ではないって期待をするのをやめないといけない時期なのかもしれない。

私は現状受け入れないといけない状況だけど、この状況はいわゆる世間一般の主流ではないことはわかっておきたい。

先日、こういうツイートをみた。

「明け方まで母親の愚痴を聞き続けたこともしばしば。大人は自分の都合次第で大人扱い又は子供扱いするのねと悟ったよ」
「愚痴を子どもに聞いてもらう代償は高いと思う…。大人の困りごとは大人の中で解消すべきだと思う。」

ずっと子どもの時から感じていた、「あれ、私の親って他の子の親と何かが違うぞ」っていう違和感はこれだった。結局、私の親はご都合主義な人たちでそれによって少し歪んで育ったらしい自分っていうのが見えた。

今になってはどうしようもないが、これから自分に子供ができた時忘れないでおきたいと強く思った。

それと余談だけど、最近自分の子供を自分の小さな友達のように、あるいは息子だったら小さな恋人のように育てる人たちがいる。「お母さん」って呼ばせず自分の下の名前で呼ばせるような人たち、そんな人たちとも同じ匂いがする気がした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。




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