今年の目標は「自分」を諦めない。この意味について書いていこうと思う。 この意味には私の生い立ちが深くかかわっている。 私は小学5年生の時に、自分の容姿に自信を無くし「勉強を頑張って一人で生活できるようになる」という、今思えばなんて現実的な目標なのだろうと思うのだが当の本人は大真面目に誓っていた。 そんな自己肯定感で幼少期を過ごし、順調に学力が付き「勉強」が一つの自信になっていた。しかし、学力というのは相対的であり曖昧なのでその上に立脚する自信とはかなり脆いものだった。
心に傷を与えてくる人も、喜びを与えてくれる人も、どちらも人生の大事な人々なはず。、
依存してたような気持ちも無くなって、なんかすごく前向きに彼に向き合えてるかもしれない
何かを得たいなら、何かを失うのか仕方がない
1人がこんなに心細いとは。。私の平穏な日常の根底は彼によって守られてたみたい。今の私がこんな心細い孤独に晒されたら、生きる心地なんてなくってダメになってしまうだろうと思った
会話で大事なことは、相手が言ったことを理解することじゃない、相手の話をしっかりと聞いてるという態度。会話は人と人のキャッチボールなはずなのに、話を聞いてないような人に話をすると、なんだか壁に向けて投げてる気分。それが続くと、壁に投げるくらいだったらボール投げるのやめようってなる。
なんだろ、恋人の言動でショック受けることあるけど、それは私が「勝手に期待していただけ、だから期待をしないように」っていう感情処理をする度に、彼に「諦め」っていう感情が募っていってる。そのうち興味なくなるんじゃないか不安だよ。
物事は捉え方次第で幸せになるかどうか決まると思ってる。彼と歩いてて、いつの間にか隣にいなくって後ろを振り返ると、桜の写真を撮ってる。そんな彼を見て「いつも何も言わずに1人で行動する」って思うか「桜を愛でれる人なんだな」って思うかで幸せが大きく変わってくるなと思う。
好きな台詞に「夫婦は弱いところで繋がってる」がある、これが本当だとしたら私たちはまだ全く弱い所をお互いに見せれてない気がする。
ふとした時に思い出すような作品にもっと出会いたい。そして、もっと感情を知りたい、人を知りたい、理解したい。
ずっと何となく進んできた。受験だって勉強したら受かって、大学も受かった大学がある土地に行って、そこで出会った人達に感化されて自分のやりたいこと、信念を見つけて、今の会社に入った。 でもその後の人生なんて全然考えてなくって。 私はどんな人生を送りたいのか。何を達成したいのか。 この問い自体はたぶん今回答なんて持たなくてもいいんだろうけど、とにかく漠然とした不安がずっと心のふとした隙間にこびりついている感覚。 現時点での一番の岐路が結婚。 ・私はこの人と結婚していいんだっ
すっごく今しあわせだけど、なんかずっと「早く(この人生)終わらないかな」「いつまで(この人生)続くんだろ」って思ってるな
紅白で、60歳を過ぎた男性は「渋い」と評価されるのに対して、60歳を過ぎた女性は「老けた」「おばさん」と評価される憤り。なぜ女性の積み重ねたシワは、風格は、柔らかさは「美しい」と評価されないのだろう。そもそも、他人に対してその人の風貌に対して「評価を口にする」こと自体が馬鹿げてる
恋愛のハッピーエンドってどちらも裏切らないことで、どちらかが裏切ったら、恋愛は最悪のトラウマになる。そんな、大きなリスクが、伴ってるって気づいて怖くなった。
帰省で彼と別れてる間、私や彼が遠く離れた地で事故にあったらどうしようと不安になる。もしものことがあった時に会えない、そばにいて貰えない、そんなことが不安で堪らなくなってしまう。
ずっと自分の家族が嫌いだった。 でも社会に出て久しぶりに会うと自分の家族と過ごすときの、ちょっもしたことで皆が笑うこと、その時間が本当に素敵だなと初めて感じれた。 「いまの彼といつ結婚するの?」とよく聞かれる時期で、なんとなく再来年には〜と実感なく言ってた。 だけど、彼との日常を考えたら、わたしの家族みたいにちょっとした事で笑うような家族になれるんじゃないかって思えて、幸せな気持ちになった。