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芦田愛菜さんの発言から考えた"信じる"ということ

昨日「教育原理」という授業の時間に「偏愛マップ」なるものを書いた。過去に書いたことがある人もいるのではないだろうか?
好きなものを何でも良いので具体的に 好きなように紙に書いて、自分の世界を表現するような営みだ。そしてその「好きなもの」を互いにあまりよく知らない同士で話す。話のとっかかりを見つける。他者の好きなものに興味を持つ。新たな他者との共通点を見つける。久しぶりに好きなものを自分の中で"明確に定義"したような気がして、なかなかおもしろかった。


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以下、芦田愛菜ちゃんの発言より引用(Yahoo!ニュースを見た。)

「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」

「信じる」ということに関しては、私自身もこれまでに何度も深く考えてきた。しかし芦田愛菜さんが考えるようなことには到底及ばなかったように感じる。

「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」


「信じていたのに裏切られた」という経験をなかなか自分の中で"過去"として消化することができなくて、私は人を「信じる」ということを得意としていない。というかむしろ、「誰かを信じる」べきだということをあまり心から望んでいない。

だからこそ、芦田愛菜さんの発言を聞いてなんというか少し悲しい気持ちになった。
「信じていたのに裏切られた」ということに関して、
「裏切った側の人間」が悪いのではなく、
「その程度で裏切られたと感じてしまう自分自身」、つまり「見えていなかった部分が見えただけなのに勝手に相手に期待して、見たくなかった 『自分に都合が悪い部分』まで見えてきたことに対して勝手に自分が傷ついたと感じている自分」
が悪いような気がしたからだ。
つまり信じていたけれど裏切られたということに関して、責任は相手ではなく自分にもかなりあるのではないか...と感じたということである。


「結局自分は見る目がなかったのか」というのをありありと思い知らされた。勝手に信頼して、勝手に期待して、「裏切られた」とか言いながら勝手に傷ついて、勝手に相手を"悪者"にした。
結局は自分自身が未熟だったのか。見えてこなかった部分が見えてきたときに、「そういう部分も相手の一部分であり、受け入れていかないといけない」と考えることができなかった自分が、愚かだったのだろうか。

とてもじゃないけれど今後は「信じる」ということについて考えたくはなくなった。もうこれ以上傷つきたくはないような気がした。その傷さえも認めたくはなくて、過去をただただ捨ててしまいたいのに。


「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」

「今まで見えてこなかった部分もその人の一部分なんだ」と受け止められる人が「揺るがない自分を持っている」人なのかは正直100%共感はできない。"揺るがない"というのがそういうことなのかは芦田愛菜さんに共感できない部分もあるけれど、「『信じる』と口に出して誰かにすがりたい」という人間の言動に関しては、確かにそうだな〜と改めて思い知らされた。

「信じる」と口に出す時の心の中がいつでも「誰かにすがりたい」とは限らないだろう。なんというか相手を信じたいという心からの願い、信頼関係を築くための心からの願望のような気もしている。それは自分が弱いからとか軸がブレブレだからとかではなくて、「自分を信じている」、もっと言えば「自分の(相手を見る)目を信じている」からこそ初めて「他者を信じることができる」という営みのような気もする。


色々と考えたが、「信じる」というのは難しい。「信じる」ということがどういうことなのか、どういう感情の元で起こるのか.....それさえも考えるのが難しいというのに、実際に誰かを「信じる」という営みをすることはもっと難しい。「信じる」が何か分からないのに、「誰かを信じる」ことは難しい。

「信じる」と「信じ『たい』」では大きく異なるような気もしているし、自分を信じるのと他者を信じるのとでは全く別の考えが浮かんでくることもある。



「信じる」に対する考え方は今後も変化し得るので、今ここで結論を出すことはできない。ただ1つだけ言えること(疑問に思うこと)は、「じゃあ『裏切る』っていうのは一体どういうことなんだろう」なんていうことなのである。




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