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やりたいは偶然、でも「できる」は必然

いつかの初耳学の「高学歴ニートに林先生が授業をする」というような企画で

林先生がそんなことを言っていた。

特に林先生の考え方いつもすごく好きという訳ではないし

林先生自身も、「僕は自分でエゴサをする時、『林修』と検索すれば大体悪口が出てくるし、『林先生』と検索すれば大体良い評判が出てくる」

というようなことを以前おっしゃっていた気がする。



林先生は特に塾講師がやりたかった仕事という訳ではないようだ。

というか最初は銀行員だったらしい。

「今でしょ!」の林先生からはあまり想像できないが。

林先生は「できる」を選んだのだ。

塾講師としての評判はすごく良かったらしい。

林先生にとって、「できる」は塾講師で、

「やりたい」は銀行員だったのだ。



私自身の「できる」と「やりたい」はなんだろう。

林先生の言う「できる」は、自分で「自分はこれができる、自分はこれが得意だ」と考えること

というよりは、

「他者からあなたなら〇〇できそう」と思われているようなこと

ということだ。

林先生は、出版社の人に「自己啓発本を書いてほしい」

と以前言われたことがあるらしい。

正直林先生自身は、「やりたくなかった」のだ。

でも、先生はこの時考えたのだ。

「あぁ、僕は他者から見たら自己啓発本が書けそうな人間って思われているんだなぁ」

と。

「僕にとって、できる(できそう)と思われていることは、自己啓発本を書くことなのか。」と林先生は悟ったのだ。

だから林先生は「できる」を選び、自己啓発本を書いた。



「やりたい」は偶然なのか。

なるほどなぁ、と正直思った。

確かに「できる」ことって限られているし、そんなに大きくは変化しないのかもしれない。

だが、「やりたい」ことは時代や社会の流れの変化により変わっていくものだ。

「やりたい」は その変化の中で自分の中に偶然生じた、

1つの願いや希望なのだ。

今やりたいと思うことが、将来までずっとやりたいことだと思えるようなことだったとしても、

「やりたい」は偶然なのか。



私なら「できる」と「やりたい」、どっちを選ぶだろうか。

自分のやりたいを叶える、自分の夢を叶える。

自分の好きなことを仕事にする。好きなことで稼ぐ。

きっとそれは楽しいだろうし、生きがいを感じられるかもしれない。

でもうまくいかない可能性だって低くはない。


「できる」ことはどうだろうか。

他者からその点においては認められているということだ。

自分の能力が正しい形で生かされるということだ。

他者からどういう風に思われているのかを知った上で、

自分という人間をいかにうまく仕事や社会に生かすには、

「できる」と思われていることをやるのは1番なのかもしれない。



「できる」ことを選ぶのか。

「やりたい」ことを選ぶのか。

「できる」は必然なのか。

「やりたい」は偶然なのか。


この質問の答えは、まだ自分の中では出せていない。


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