向かう先は
適温を許してくれない風が、容赦なく体を冷やす。どこからか聞こえてくる歯ぎしりと衣擦れを、心地よいとはどうしても思えない。幼い頃に遠出したことを想起させる匂いが、隙あらば鼻腔に忍び込まんと様子を伺っている。
「本日はご乗車いただきありがとうございます。当バスは、途中、三度の休憩を挟みながら東京へ向かいます。狭い車内ではございますが、皆さまどうかごゆっくりとおくつろぎくださいませ」
違和感を感じるほどに滑らかな女性の声が、ぎゅうぎゅうに詰まった乗客の耳に等しく届く。アナウンスが途切れて程なくすると、それまで様々な表情を照らしていた光の忖度を眺め、心の中でさよならを告げる。
瞼を降ろしてみたところで、そうやすやすと眠りへたどり着くことはできない。視覚を遮断したことで張り切り始めた鼓膜が、車内の微細な音までもを嬉々として私の元に届けてくる。
ひとつとして求めていない、雑音と形容するのも憚られるほど秩序の無い音たち。避けがたいそれらは私の周りを小躍りし、覚醒の扉に手をかけさせる。
「明日ついたら、まずは山手線に乗って池袋へ。荷物はどこのコインロッカーが適切だろうか」
「相手方のことは御社、椅子は勧められる前に座らない。大丈夫、大丈夫」
何人もの自分が会話を繰り広げているのを、遠目に眺めて腹を抱える。これだけ喋ってたら、眠れないはずだ。
おもむろに膝を曲げ伸ばしてみせたり、椅子を利用して体を弄んでみたりと、窮屈な状態をできる限り楽しんでいると、元々歪んだ体軸がその角度をこれでもかとずらした。
肩が流れでバスが頭部を振るのを感じ、急激な重力は速度の低下を顕著に伝える。吐き気を呼び起こすような前後の揺さぶりを数度耐えると、完全にバスは停止した。
「シャッ」
湖面を跳ねる魚のような軽快さで運転手と乗客を隔てるカーテンが横に滑ると、すかさず追い立てるような明かりが私たちの思考を奪い、亡者のようになった乗客がぞろぞろと外へと吐き出されていく。
足先を細かく動かしサンダルを探すと、届くかどうかの絶妙な距離で爪を掠め、呼び名のわからない筋肉が悲鳴をあげながらも、なんとか自らの元まで引き寄せた。
亡者の行進に帯同しながら車外へ。澱んだ空気を纏う体が、肺を中心に喜んでいるのを感じ、今のうちに心の中で謝っておく。
平たく横に長い建物が発光し、そこに群がる姿は昆虫の如く。その様子を傍目に眺めながら向かうのは、時世を忘れたかのように白濁とした煙をまき散らす一角。名前なんぞ知る由も無い各々が集まっては、思い思いに害悪を体内に迎え入れている。
『百害あって一利なし』そんなこと知っている。利など求めたことなんて一度も無い。
早朝特有の冷たい空気が、紫煙の合間に肺に滑り込む。夜空に浮かぶ星の瞬きをぼうっと見上げていると、剝き出しになった指先に灰がぽとりと着地した。
目を奪われた一瞬のうちに、そこにあったはずの星はどこかへ消える。無くなるわけないはずの輝きを、どうしても見つけることはできなかった。
短くなった煙草を栗色の水中に飛び込ませる。燃え尽きるときの儚く足掻いている音が好きで、他人の音を聞くためその場に立ち続けた。
満足したとは言い難いが、発車時刻が迫っている。次の休憩に望みを託し、後ろ髪を引かれながらもその場を後にした。
バスが向かうは東京。どうやっても眠れる気がしない。
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