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伝える練習が圧倒的に足りない日本の学校と社会

久ぶりに時間制限のあるテストを受けた。日本語はあやふやな表現がしやすい言語だなあ、と改めて実感した。

すぐに結果と解説を受け取ることができる小規模なテストだったので、終了後すぐに解説動画を確認。設問文章の表現のなかに、解答する側が誤認しやすい部分がいくつかあったので、提案と所感としてまとめてテスト配布担当者に送付した。

そのリアクションを求められていた訳ではない。「感想と改善点を記入してください」という指示があれば、その行動を厭わない人がほとんどだと思う。特に指示はなかったけれど、自己判断で行動した。

小さな改革は「おかしいな?変だな?」という、ささやかな違和感に蓋をしないことから始まる。

正誤表や解説を見て、なぜ間違ったかを確認したら素直に「正解」を受け入れる。間違った選択を「誤り」だというフォルダーに放り込んで終了。漢字やスペリングのテスト、機械的操作の確認テストならそれでもいいと思う。

文章問題マークシートの場合、設問や選択肢がわかりにくい文章構成になっていることがある。解釈によって正解・不正解どちらとも捉えられるようなケースがある。

大人数で受けるようなテストなら、いちいちその場でひとりひとりの申し出やら解釈の違いを汲み取ることは難しいだろうけれど、少人数ならばフィードバックをすぐにすることでテストの精度も格段によくなっていく。

大学の授業内テストでその体験をしたときに「これだよ!これ!」と強く感銘した。ニッポンの社会に積極的に取り入れた方がいい基本的な考え方はコレだよ!と。

正解とされていない解答を選んだ理由を説明して、それが納得できるような場合は正解とする、というやり方。

ただし手を上げて自分の言葉で説明する必要がある。声に出して理由を説明できないならテストの点数は下がる。同じ理由で誤解答を選んだ場合、「私もです」と挙手をする。自己表明することで点数を獲得する。

多少おおげさに言うなら

世界を変えたいなら
自分で動いて自分の言葉で
自分の意見を伝える

ということ。

ここでとても大切なのは、その説明を聞いた第三者が納得できるかどうか。独りよがりな言葉選びでは説得力がない。自分の考えを適切な言葉で伝わるように伝える。学校は本来そのような場であるべきだと思っている。

日本の学校に圧倒的に足りないのが、生徒からのフィードバック体制。先生の設問と正解は絶対で、間違えたら素直になおせ!という一方的な押し付けベースの教育方式では、精神的な自立心も育ちにくい。

教師や教授、先人達だって人間なのだ。間違えることはある。誤字脱字はもちろんのこと、あやふやな表現を使う場合だって誰にでもありえる。

歴史を振り返れば、時代の流れに伴って「あたりまえ」が変わることが明白だし、同年代であっても国や地方が変われば常識が変わる。その場の伝統的な教えを鵜呑みにすればいい訳でもないし、古い教えだからと全否定するのも変だ。

立場が上の人には絶対服従

この体質は日本社会に深く深く浸透している。確かに、リーダーや指示に従うことで上手く回る組織や構造もある。マニュアルに従わないとスムーズに動かない現場もある。

けれども刻々と社会や組織の状態も変わるし、その場に関わる人間達はロボットではないのだから、体調変化や心情的な波もある。ガチガチに凝り固まった組織には柔軟性を取り入れることが必要だし、個々人は自分の意見を的確に適切に伝える訓練が必要。

日本で生まれ育ち、離れて暮らしながら再度、日本の組織と関わることで、こんな思いを再認識したできごとでした。

最近、天気の変わりやすい日々が続いています。通り雨の奏でる音を聞きながら綴りました。

おやすみなさい。

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