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[1分小説] 逢|#始まらずに終わった恋

その日、空気には秋の雰囲気が混じっていた。
それにもかかわらず、外を照り付ける太陽は強く、
日中は嫌というほど気温が上がった。


『こんなに暑くなるなんて』

天気予報の猛暑予想を甘くみていたのかもしれない。

スーパーで買い物をした帰り、
早苗さなえは店を出て5分ほどしたところで道端にうずくまってしまった。
去年、35歳を過ぎてから頻発する眩暈が、彼女を襲ったのだ。

『こんなことになるなら、夕方に出ればよかった』

都内はずれの閑静な住宅街。
昼下がり、この暑さの中での人通りは少ない。



次の角を曲がれば自宅のマンションである。
しかし、今の早苗には立ち上がることさえ困難だった。

『しかたがない。しばらく休んでいこう』

買い物袋を路上に置いて、グラグラする視界を庇いながら、早苗はその場に座り直した。




彼女の足元に濃い影が重なったのは、その時だった。

「大丈夫ですか?」

しんどさをこらえて顔を上げると、そこには見知らぬ男子学生がいた。
制服の白いワイシャツが眩しい。高校生だろうか?


「あ、ごめんなさい。ちょっと気分が悪くって」

「ここ、暑くありませんか?
陰のあるところまで行きましょうか?」

物わかりのいい子だなと思った。

言われるままに、
彼女はその男子学生の腕に掴まって、どうにかマンション下にあるコンビニの駐車場まで移動した。


「学校は、平気なの?」

早苗は消え入るような声で訊ねた。

「大丈夫です。明日からテストなんで、
もう今日は学校帰りです」

『明日からテストなんて、こんな所で時間使ってる場合じゃ...』

そう思ったものの、眩暈のせいで焦点が定まらない不快感が勝り、彼女は口をつぐんだ。


自分のことを置き去りにするのは悪いと思ったらしい。青年は隣で、一緒に座り込んでくれている。
優しい男子学生だ。

とはいえ、見るからに所帯持ちの女性と並んでいる気まずさゆえだろうか。
青年は誰にともなく、語り始めた。


《...今、高校3年生であること。
学校はここから徒歩圏内であること。
自分と同じ上のマンションに住んでいること。

軽音楽部の部長であること。
まだ大学受験に本腰をいれておらず、担任に発破をかけられていること…》


「ふふふ」
乱れていた呼吸が少しずつ落ち着いてきて、
ようやく少し会話ができるようになった。

「大学受験。懐かしいなぁ」


そう言って顔を右に向けた時、
はじめて青年と視線が合った。


その瞬間、時が止まった。

彼の瞳は真っ直ぐで、澄んでいた。

にわかに、自分の周りの空気の温度が上がった気がした。


『……やだ』

うろたえた自分に気づいた時、
彼女は思わず目を反らして、買い物袋を掴んで立ち上がっていた。

「どうもありがとう。もう大丈夫だから」

「え、」

「テスト、がんばってね」

それだけ言うと、早苗はいつもの歩調で 
―それでいて、さっきまでの眩暈とは違うフワフワとした感触の中で― 自宅へと向かった。

背後の青年にはもう、振り返らなかった。


恋には、
日常の一切をはるか彼方に押しやるパワーがある。

しかし、これまでどんなにその予兆・・・・があっても、
彼女は慎重にその自覚を避けてきた。

報われる見込みのない感情の火―。

人妻に未来はない。
そう思って暮らしてきたし、それはこの先も変わらない。

しかも、よりによって、
あんな若い子にときめくなんて―。


……忘れよう。


スーパーで購入した食品を冷蔵庫に入れていると、ダイニングの窓が小さく揺れた。

不意に吹き始めた風が、いよいよ、夏の終わりを告げている。そんな気がした。


冷蔵庫を締めて、早苗はソファに身を沈め込む。
そして、ふぅっと小さく息を吐いた。

彼女を包むのは、部屋の中を漂い続ける、
眠たくなるような静けさだけであった―。



≪[1分小説] 逢|#やばい恋心


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