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パラレルワールドはどちらも素敵~女性の生き方(子どもがいる人生、いない人生)

【子どもが欲しいけれど出来ない方、出来なかったにとっては、以下の話をお読みになることで辛さを感じさせてしまう可能性がありますのでご注意ください】



先日、友人の娘さんのバレエの発表会を見に行った。

元々バレエを観るのはとても好きで、ここ数年プロの公演は2~3ヶ月に1回ほど(年間4~7回ほど)のペースで観に行っているが、実は同じくらいもしくはそれ以上に楽しめるのが、アマチュアの普通の人たちの発表会である。

一般的にバレエの教室には、幼稚園児(それより幼い子たちも)、小学生、中学生、高校生からそれ以上、場所によっては社会人、とたいてい様々な年齢の生徒が通っている。

各年齢の子どもや大人たちが、その年齢や経験なりにそれぞれベストを尽くし、晴れ舞台を迎える。

観客の私にはわからないドラマがその背後にたくさんあるだろう。

見えない努力や葛藤、嫉妬、挫折、涙、それらをすべて乗り越えて、それぞれがそれぞれの役割を精一杯やりきるのを観るのが好きだ。

感性に刺さる踊りをする方を、推しのようにお気に入りにして、その方を違う演目でも探してみることも楽しい。ステージを降りると普通の中学生だったりするので、それもまた面白い。

しかも、バレエの発表会にはさりげなくゲストに有名な方がいらしていたりする。普段の3分の1か4分の1くらいのお値段で、プロの方の踊りを観られるチャンスでもある。

今回の発表会では、たまたま2年前に観に行ったバレエで主演をやっており、素敵だなと思っていた方がゲストにいらしていた。そんな偶然の再会にも運命を感じた不思議な日だった。

全体としても、それぞれの踊り手の個性や才能を存分に発揮させる構成になっており、演出も大変素晴らしい上、心温まり、わくわくする非日常を感じられる舞台だった。


バレエを始めてまだ1年ほどという友人の娘さんのことは姪のように思っているが、なんだかその日は孫のようにも感じて、健気に踊っている姿に涙が出そうになった。

舞台の上でのしっかりした姿と、終わったあと家族に甘える姿のギャップも可愛らしく、お会いするたびに成長を感じることも楽しい。

彼女の未来が明るいものになりますように、と心から願う。

他の友人たちのお子さまの近況を聞くのもほっこりと温かい気持ちになれて好きなので、いつでも連絡くれたら嬉しいなと思っている。


私は10代のころからその友人の家族にお世話になっているので、友人の子どもたちには親戚のおばさんのような顔で接している。

その日はその友人の家族が集まっており、両方の祖母たち、義理の妹さんとその子どもたちも合わせて大集合。普通は友達の弟の妻の方と会うことなどないと思うが、何度かお会いしてきたその義妹の方も含め、いつもこの家族は私を温かく受け入れてくれる。

そこには私の知らない世界があった。
いつも仲良くしてくれる友人は母の顔になっており、その表情は屈託なく明るく楽しそうで、満ち足りたものであり、間違いなく幸せそうだった。

家族との時間が彼女の居場所であり、母であることの苦労ももちろんあるが、それを遥かに越える絆によって、幸福が輝いているように思えた。

普段はむしろ、子育ての苦労などの話を聞いていたが、私のイメージする姿と実際の現実はまた違う。もちろん、発表会当日という日常から離れた1コマを垣間見ただけであるため、家での雰囲気はまた異なるに違いないけれど、信頼関係と愛で繋がれた家族の時間は私の経験したことのない世界に見えた。


もしも、子どもを持っていたら、とたまに考えることがある。
諸事情と未来への不安から、不確定要素がこれ以上増えることに耐えられず、自身が子どもを持つイメージがどうしても出来なかったため、子どもを持たない選択をしてきた。

その選択に疑問を持つことはほぼないし、性格的にも特性的にも親には向いていないと思う。
そして、私の場合はそれで正解だったと、長期的に将来を考えても自信を持って言える。

だが最近、私の外見や年齢のせいか、仕事などの場で、なぜか私には子どもがいる前提で話が進んでいることがとても多い。
サクッと子どもはいない、と伝えても、とても気まずい空気になり、いると勝手に思わせておいていなかったことに、むしろ申し訳なさを感じる。
この年齢で子どもがいないのは、世の中の価値基準の中ではやはりマイノリティーであるし、変なのかなと思ってしまうこともある。
勝手に老後を心配されたり、寂しい人なのかなと哀れがられることもある。だから、面倒くさいので基本的には家族構成やプライベートを公の場で見せない。

少し前は、近々子どもを産むことが決まっている人という前提で扱われることが多かった。
産む予定はない、と伝えると、「まだまだこれから!」のようなことをよく言われた。
これから、なにをどうすればいいんだか。
どうしても全員産むことになっていると思いたい人も結構いるらしい。

もっと前の10代くらいの頃は、将来子どもを産むことが決まっている前提として扱われた。
「将来赤ちゃんを産めるように身体冷やさない方がいいよ!」「運動しないと出産が大変だよ!」とか、私の骨盤を見て「安産型だね!」とか言われたことがある。
私の身体は私自身のためでなく、子どもを産むためにのみ存在するし、私の健康はすべて子どもを無事に産むためだけに必要なことなのか、真面目に考えてモヤモヤした。

20代前半にいったん結婚した時は、様々な方から「あとは子どもがいたら完璧だね!」とか、「子どもさえいれば大丈夫!」と言われた。また、年配の女性からは「子どもはみんな産むことになっている」「産むのが普通だよ」とはっきり言われたこともある。

私の中では「結婚=子ども」ではなかったので(2000年代後半頃の当時としては珍しかった?)、すべて意味不明であった。

今より遥かにデリカシーのない時代だったから、グイグイと他人のプライベートに踏み込み価値観を押し付ける人たちがいた。その方たちにも悪気がなかったのはとてもよく理解しているが、「まだまだこれから!」と同様、「みんなと同じが正義」と思っている人が多く、なぜ他人の生き方に評価や口出しをする人がこんなにもいるのか謎すぎると感じた。


私は今の生活、そして人生の選択に満足しているし、とても自分らしく生きることが出来ていると感じているが、子どものいる人生もまた言葉で言い表せないほど豊かなものであったかもしれないとも思う。

けれど、子どもを持っていたからといって、その友人の家族のような絆で結ばれ、明るく愛に溢れた家庭を築けるとは限らない。

その友人の子どもたちと、弟夫婦の子どもたちのように、いとこ同士も兄弟や親友のような距離感で仲良くできる、とも限らない。むしろ私はそのような仲良しのいとこ関係があることを知らなかった。

親戚とは、おすまし顔で、形式的に集まり、お互い失礼のない範囲で付き合いを保つものだと思っていた。だから、私は親戚の集まりが気まずくてとても苦手だったし、お盆やお正月に強制的に集まりに参加させられることが家父長制を思わせとても嫌だった。

それもあって、私は家族や親族とのしがらみのない人生を送っており、そうではない側は無理だと思い込んでいたのだが、友人の自然で打ち解けた家族との距離感を見て大変衝撃を受けた。

こんな文化もあるのだ、とカルチャーショックを受けたに等しい衝撃だった。誰も「家族」を押し付けていないのに、自然とみんなが楽しそうで、お互いを尊重しているように見えた。

もう一度人生をやり直せるなら、そっち側に行ってみたいな、とも思う。

もちろん行きたいと思って行けるものでもない。子どもが出来ない身体かもしれない。

しかも、その友人の場合は、ご本人やご家族それぞれの気遣いや人格的要素が円満で平和な親戚づきあいを可能にしていることが見て分かったし、私にはそれを出来る能力がない。

また、そもそも私は実家が崩壊しているので前提として親戚の集まりというものが少なくとも私側では出来ないし、子どもを産み育てられる安心安全な環境に恵まれるとも限らない。

温かい家庭がどのようなものかイメージできないため、それを自分に作れる気がしないし、自分の子どもの父親になってほしいと思える人間を見たこともない。

しかし、わちゃわちゃと親族が集まり、未来の宝である子どもたちがキャッキャと走り回る空間に、自分が属する人生も素敵だっただろうなと感じる。

子どもを持たない選択をしてきたが、もしも子どもを持っていたとしても、どちらにしろ素晴らしい物語と尊い人生があっただろうと信じている。

アカウントすら持っていないので一切見ないが、旧ツイッター(今はXと言うのか?)などでは子持ちと子なしの対立が凄まじいらしい(根拠のない、人から聞いた話)。

おそらくそれぞれが自分の生き方を肯定し、正当化したいのだろう。
そして、おそらく余裕がないと批判的になってしまうのかなと思う。


私はフリーランスなので、職場で子どものいる方の突発的な欠席対応に追われるという経験がないし、ベビーカー論争に関してもむしろ、朝の通勤ラッシュ時の電車では助け合っている女性たちを目にする。

子どものいる友達のドタキャンにも慣れたし、こちらの仕事の都合に時間を合わせてもらうことも多いからお互いさまだと思っている。

ただ最近、ヨガの世界では「ママのための~」のようなクラスをよく目にする。それ自体は普段自分の時間を取れない母親たちが自分のためだけの時間を持ち、自分のケアをする時間を持てるということで、大変素晴らしい企画だと思うが、たまにそれが行きすぎていると感じることもある。

「ママが一番偉い」「子育てして1人前」「人を最も成長させるのは親になること」のような文言とセットになっているのを見聞きすると疎外感を感じ、心の蓋が閉じる。

実際、出産経験も子育て経験もない私はなにも言える立場ではないが、「仕事をしているから偉い」とか、「子育てしているから偉い」ではなく、それぞれ自分の役割に集中し、互いを尊重しながら自分と向き合えば良いと思う。そこに比較や優劣はいらない。

ママにならなかった女性にもそれぞれの尊い人生があるのだから、見えない存在として扱い、いないことにしたり、無条件に未熟扱いするのは違うなと思う。


自分と違う立場の人を攻撃したり、正しさを主張をしたくなった時は、パラレルワールドに住むもう1人の自分を想像してみたら良いかもしれない。

今の自分も、もう1人の自分もそれぞれ満ち足りていて、生き方に誇りを持てていたら、自分と違う選択をした人を攻撃する気分になどならないだろう。それはもう1人の自分だったかもしれないから。

私のように産んでいない方は、時々もし産んでいたら今頃なにをしているのか、
子どもを産んだ方にも、もし産んでなかったら、どんな生活を送ることになっていたのか、想像していただきたい。

普段は意識しない大切なものが見えてくるかもしれないし、あらためて自分の価値観に気付けるかもしれない。

子どもがいてもいなくても、それぞれ一生懸命自分らしく生きればそれでよい。

色んな立場やライフスタイルを持つ人たちが、安心安全と連帯感を感じながら支え合う、シスターフッドで結ばれながら生きていけたら素敵なんじゃないかなと思っている。

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