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「個が際立つシェアのまち」を考える


私たちは取るに足らない生き物だった

弱くてちっぽけな存在

今でこそ私たち人類は、食物連鎖の頂点に位置し地球の支配者のように立ち振る舞っているが、私たちの遠い祖先は食物連鎖の中腹に位置するちっぽけな存在だった。その取るに足らない生物が偶然にも進化の過程で大きな脳を持って歩き始めたことから、この世界は大きく変わっていくことになる。
人類の骨盤は、大きくなっていく頭を支えるために4足歩行から2足歩行になる過程で小さくなり、産道も狭くならざるおえなかった。その結果、子どもは他の哺乳類と比べて未熟な状態で生まれてくるようになった。いわゆる早産だったのだ。厳しい自然の中で産み落とされた子どもは当然のことながら母親の助けを必要とした。1人で歩くことすらできない子どもを母親1人で育てることは不可能だった。したがって進化は強い社会的な絆を結べるものを優遇したのだった。

「虚構」は文明の始まり

協力するようになった人類はやがて群れを成すようになる。コミニュケーション能力を急速に向上させた群れの中で生き残るために重要になってくるのは、誰が信用できる奴なのかを見極める力だった。噂話をすることで、それを確かめていたという説がある。これは凄まじい研究の数によって裏打ちされているらしい。よく考えてみれば、現代の人類のコミュニケーションの大多数は、電子メール、電話、新聞記事のどれをとっても噂話だ。噂話はごく自然にできて、本当にその目的のために進化しているように思えてくる。噂話好きな人というのは、ズルをする人や、たかり屋を社会に知らせ、社会をそのような人たちから守る存在だ。
噂話は大抵、目の前で起こっていない悪行を話題とする。私たちは、他の哺乳類よりも進化した言語によって全く存在しないことについて情報を伝達することができる。見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない事物について話す能力があるのは人類だけなのだという。こうして発展していった虚構はやがて、神や宗教、伝説といった何億という互いに顔も名前も知らない人々を協力させる力を持つようになる。

(↓ここまでのストーリーはこの本を参考にしています。)

「シェア」するとはなんだろうか

改めてシェアするということを考えてみる。シェアすることは、人だけでなく様々な生物が生きていく上で必要不可欠であり、特に人類にとって、文明を築き上げるために重要な概念だったと言えないだろうか。このように考えると、近年、改めてシェアハウスやカーシェアなどと「シェア」を物や空間だけを対象としたスローガンのように使う傾向に違和感が出てくる。人は人々を動かすために宗教や科学という虚構を産み出し、「シェア」することによってこの世界に共通の認識を生み出すことに成功した。その蓄積によって私たち現代人は、比較的安全な生活を営むことができる。「シェア」とは物や空間を共にする以前に、概念を共有することから始まるのだ。

この世界を捉え直す

世界はもっと危ういもの

さて、ここまで様々な概念のシェアの蓄積によってこの世界が創造されてきたことについて述べてきたが、改めて私たちの現代の暮らしを省みると、とても恵まれた環境が先人たちによって築かれていることに気づく。猛獣たちに食い殺される時代を生き抜き、人類同士で戦争を起こしながらも、なんとか誰もが幸せに暮らせるようにと社会を変革し続けている。そもそも文明とは、いつ崩壊してもおかしくないものに見えてくる。2011には100年に一度と言われた大地震が起き、人々の平穏な日常は一瞬にして更地になってしまった。首都圏での生活も、大規模な地震に見舞われる危険と背中合わせである。私たちはこの世界を、長い人類の「シュア」の蓄積によっていつの間にか安全であることが日常だと錯覚してしまっているのではないだろうか。人は自然と共にあって、元々取るに足らない存在であり、今のこの生活は何万年という時代の蓄積の上に、偶然成り立っていることをもう一度見つめ直す時が来ているように感じて仕方ないのだ。

↓参考文献

建築にできることは何か

自然と人の関係性を問い直すための仮説

ここで、コンペの課題に対する仮説を立てる。文明も自然も不安定性の上に偶然成り立って現れているのだいう認識をもう一度思い起こし、この世界の共通認識に変えていければ、その建築の周辺では認識の「シェア」から始まって、空間から物へと「シェア」の輪が広がっていくのではないだろうか。
自然と人間の関係性が、昔からほとんど違いがないことを意識し、その恩恵に預かっていることを自覚できる空間の元に集まる人達の生活には「シェア」が自然と根付くはずである。
自然との距離が近い山間部や沿岸部ではそれらにまつわる伝説や神話が今も尚語り継がれており、自然の脅威や恩恵は住人にとって日常的なもだ。そういった場所では住人間でのコミュニケーションが盛んで、協力し合う姿勢を私たちはよく目にしてきた。

都市において

自然や隣人との関わりが深い田舎に対して、都市では関係性が薄く、個人主義が蔓延していることは言うまでもない。都市での暮らしは機能優先の生活と、人間だけでこの文明を作り上げてきたいう傲慢が当たり前に蔓延っている。都市での生活こそ危ういものだ。
今回の課題では具体的な敷地設定はなされていないが、都市問題についての言及は今の時代の提案に必要不可欠だと考えている。私たちは敷地周辺を東京のような都市環境が広がる場所として想定する。現代の都市は自然環境とかけ離れ、自然的特徴がほとんどない。大きな人口を抱えれば抱えるほど、る都市ほど、人々の生活は自然から遠のいていく。

距離に共有可能な自然観を見出す

文明が発展するほど都市と自然の距離は離れていくだろう。私たちは離れていってしまう自然の存在の大きさを維持するのは困難である。しばらく会わない友人がいつの間にか、友人でなくなっているようなものだ。一方で物理的にも精神的にも存在が遠くなっていく自然に対して、古代から一定の距離を保っている存在があることに気づく。それは太陽と月だ。それらは宇宙飛行士を除いて昔から遠い存在だが、同時に大きな存在でもあった。地上の自然とは違った信仰が太陽や月には存在する。
自然を都市に取り戻す取り組みは、社会問題として意識されるようになった。しかし、止まらない再開発や増え続ける人口を受け入れ続け、肥大化する都市に、自然が占める割合を取り戻すのにはそもそも限界があり、その場凌ぎの解決策ばかりが提案され、一人一人が自然観や隣人愛を育むことは蔑ろにされている。そこから抜け出せない限り、人と自然の共生は愚か、自然をコントロールできる対象として扱い続ける開発から脱することはできない。それよりも急務だと思われることは、やはり大きな自然観を都市の住人の一人一人が持つことによって、心穏やかに、自然からの恩恵を日々感じながら生活することの豊かさを獲得することではないだろうか。

月と建築が都市の中で自然観を育む可能性

月に注目する理由

月は、人間が絶滅したとしても毎晩姿を現すことだろう。離れているからこそ神聖で、誰にも汚すことができない存在を思い起こさせる空間を作り出すことができれば、都市の生活にもう一度自然観を取り戻すきっかけを与えるはずだ。
しかし、日本の深い月への信仰心は、まだ街灯が開発される前の時代のことであり、暗闇の中でたった一つ輝く月を壮大な死生観と重ねるのには、十分すぎるほど幻想的な光景だったことが想像できる。


現代の都市に現れる月の光と暮らしの明かり

現代の都市の街は夜になっても明るい。月の存在感でさえ明るさの中で霞んで見えてしまう。しかし捉えようによっては、街の明かりにも月の光と同等の情緒を見出すことができる。昔、ただ一つだった神聖な光は、先人たちが紡いできた文明の発展によって現代に一人一人の暮らしの証として再現されている。それが集まって街の明かりとなる時、私たちは人類への愛と自然への愛を同時に噛み締めるのではないか。

月の光と街の明かりが照らし出す集合住宅

コンペの課題である「個が際立つシェアのまち」に対する答えとして、私たちが提案するのは、月の光と街の明かりが照らし出す集合住宅である。月の光は、私たちが暮らす世界を下支えする壮大な物語を感じさせ、街の明かりは一人一人が生きている証を思わせる。自然の光と人工の光によって照らし出される建築の下で起こる出来事は暖かい「シェア」の気持ちで溢れるに違いない。

建築はいつも少し非合理的なくらいがちょうどいい。今の価値観では合理化できないことに価値を見出すことが面白い。自分自身でも理解できていない人の内なる気持ちに先立って、その場に立ち現れる建築には、暮らしを豊にする力が宿るはずだ。


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