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受け取れない心は根が深い

正しさにとらわれて

僕なんか、幸せになんかなれない。ずっとそう思っていました。誰かに直接そう言われた訳なんかじゃありません。何か、罪を犯した訳でもない。でも、何だか、そうとしか思えなくなってしまったのでした。

そうなってしまう前は、僕にも大切な家族がいて、自分を犠牲にしてまでも幸せにしたいと誓ったのでした。家族の幸せが僕の幸せだって思えたからです。家族に尽くすことこそ、僕の中では、正しい生き方であり、カッコいい大人の理想像でした。今思うと浅はかな思考だったかもしれません。

でもそれは、弱き僕にとっては、勇気をくれるものでもあったのでした。何ひとつ取り得のない僕が、自分でも予想を超えるくらい、我慢強くいられたのですから。しかし、社会は厳しいものでした。何も出来ないからといって、いじめという酷い仕打ちをして、社会から除外しようとしたのですから。

会社では、仕事が出来ないからと言って、コケにされ馬鹿にされた上に、他人の不安や不満をぶちまける的になってしまったようで、いつも、罵声を浴びせられたり、暴力を受けていました。おまけに、朝早くから深夜まで、ひとりの人間が抱えることの出来ないほどの量の雑用を押し付けられました。確かに、僕の要領も悪かったのかもしれませんが、毎日、どんどん増えていく仕事の量に、時間を追われ過ぎて、苦しくてしかたありませんでした。なのに、毎日そこまで働かせられたのに、稼ぎは本当に少ないものでした。生活が普通に追い込まれるくらいでしたから。でも、会社の役立たずだから仕方がないと思っていました。

社会の役に立てない自分は、価値なんかないもの。だから、いじめられて当然で、稼げなくても当然なんだ。そんな風に思ってしまった僕は、いじめは素直に受け入れていたくせに、わずかな稼ぎにも関わらず、給与を貰うことに、凄く罪悪感を感じ抵抗を感じるのでした。

そんな現実に打ちひしがれながら、自分を見失い迷いながら、毎日を過ごしていました。それでも、家に帰ると、僕は見栄をはり、家族に与え続けようとしたのでした。

だから、我慢するしかないと自分に言い聞かせるしかありませんでした。だって、僕は、与え続けなくてはいけないから。自己犠牲で奉仕をして、愛のある人間のように振舞っていたんです。でも僕は、本当は弱い人間。みんなから愛されたいし、認めて欲しい。そうじゃなきゃ、頑張れない。本当は助けて欲しい。守って欲しい。それが、言えなかったから、自分を偽るしかなかったんです。

だったのですが。

受け取れない心

最近よく思うのです。本当は、僕自身が、色んなことを、ただただ受け取れなかっただけだったんじゃないかって。

本当は、家族は僕が会社でいじめられていることも、何もかも知っていて、本当は色んなことをしてくれていたんじゃないかって。

会社でも、今もこうして僕はいじめられたことしか、書いていないのだけど、僕の記憶はいじめられたことしか残っていないのだけど、本当は、会社の中には救おうと手を差し伸べてくれる人がいたんじゃないかってこと。僕を気にかけて、毎日、心配し、声をかけてくれた人がいたんじゃないかって。本当は本当はって。。。

そう思うと、言葉が詰まります。

僕の中の、思いが美学が、これだと思っていたことが、それを全て受け入れなかったのかと思うと、凄く悲しく感じるのです。そう思うと、かすかに心が揺れ動くのです。その時に、感じていた優しさをかすかに残っているかもしれないから。

受け取ることきないという罪悪感は、まさにお金に対しての感情になっての表れになっていることが、何よりの証拠でした。そして、僕の深くにまで、濃ゆく刻み込まれた罪悪感は、かなり根深いものになってしまったのでした。

人は愛を語る時に、何も見返りを求めない無償の愛こそが、本物の愛であるというものです。しかし、与える一方になっていれば、いずれ自分の心の潤いであり、そこに注ぐためのエネルギーは、枯渇してしまいます。

渇ききった心はやがて、怒りや悲しみになってしまうのです。

信念を持つといえば、聞こえは良いけれど、自分の中にある正しさを振りかざしていたに過ぎません。ただ単に頑固なだけなのかもしれません。自分の心も満たせていないのに、自分の心がどんどん渇いてしまっていくのに、卑屈になってしまったのです。優しさも思いやりもなにもかも受け取ろうとしなかったのです。

なのに、どうやら僕は、都合よく自分を捉えていました。優しさなんか貰ってない。思いやりなんか受け取っていない。そうやって、人を恨んだりねたんだり、憎しみを抱いたりしたのです。

だから、渇き切った心では、誰かを満たすことは出来ないのです。

そん理由を、長い間、僕は、自分に価値がないから。仕事が出来ないから。弱い人間だから。稼ぎが少ないから。自分の性格がひねくれているから。そう思っていたのでした。

そうした思考が、いつしか、僕なんか幸せになれないと思ってしまうようになったのです。

今回はこうすれば、自分の思い込みを解けるものを提唱することは出来ません。僕自身、未だに受け取れない心から解放されていないからなのです。

あまりにも、僕の中で許すことの出来ないもの。譲ることの出来ないもの。正しさによる、こうあるべきだという思考。そうしたものにとらわれているものが多くあるものですから。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー


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