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情熱ある目的を持ってみてもいい

自分で精一杯

自分を俯瞰してみる。福岡の隅のほうで、あれやこれやと生きている。時々思うことがあります。自分という存在は、なんてちっぽけな存在なんだろうって。大した能力や実力がある訳でもない。大きな目的を果たしたり、大きな成果を出した訳でもありません。ひとりでは、何も出来ないと、こないだ改めて痛感したばかり。

だけど、毎日毎日いっぱいいっぱいです。時々、ちっぽけな存在にもかわらず、抱えきれないくらい辛い気持ちになります。それが、たまらなく虚しい。何処かこのままでは終われない気持ちがあります。

自分の生活で精一杯なものだから、誰かの為になんか、とんでもないこと。そんなことにお金も時間も使うくらいなら、自分の為に何かしたほうが、合理的だし、その方が自分を満たせるものだと、何処かで思っていました。

人生の目的はお金や余暇ではない

はたして、本当にそうでしょうか。確かに、10代20代では、自分でいっぱいいっぱいになってしまうが、年齢が進むにつれて、人は社会貢献出来ないかと考えだすものらしく、何か自分が出来ることはないかと探すようになるものだと、多くの人は語っています。

それは、どうしてなのかというと、誰かの為に尽くすことに、大きな喜びがあると知るからです。人それぞれであることには間違いありませんが、自分がこれまで社会から受けてきたものを、社会に返していきたいと思うのは、決して悪いことではないと思います。

人生の目的を、お金や余暇を楽しむものだとしたら、これほど、人生はつまらないものだと感じてしまうのではないでしょうか。確かに、手にした瞬間は自分を満たせるものかもしれません。しかし、きっとすぐに飽きてしまうに違いありません。

僕らが心から喜びを感じているのは、誰かの役に立っていると存在を示すことができたときなのです。そもそも、本来もお金も余暇を楽しむことも、その目的を果たすためにあるものなのです。

人は生まれたときから、誰かの為に生きることの喜びを感じて生きてきました。ただ、ただ、存在しているだけで、両親に幸福や喜びを与えていきてきたのですから。その姿を見ることは、何よりも嬉しかったはずです。それだけで生きる意味があった。

それがいつしか、テストで100点取らないと喜んでもらえない。かけっこで一等賞取らないと喜んでもらえないと、何処かで、そういう風に思い込みをして、自分を追い込んでしまったに違いありません。きっと、そうやって大人になってきたから、何か成果をだして、お金や余暇を手にすることが一番の喜びだと考えてしまうもの仕方がないことです。

だけど、先ほど言ったように、誰もが本当の喜びを知っているのです。

誰かに幸福や喜びを与えることだということを。

僕らの役割とは

誰の人生にも、生きる目的があると言われています。しかし、そのほとんどの人は、それを見つけるのは難しいものだと思っている。運命の出会いなんて奇跡でしかなく、ちっぽけな存在には起きないと思っています。

人生の目的を見つけられた人をテレビで見かけては、大変そうだとか、自分には出来ないとか、眩しそうに目を細めて言って他人事に変える。合理的に生きた方が、正解だとも自分に言い聞かせる。

つまり、結局は、自分を信じられていないだけなんです。だから、自分の生きる目的をみつけたとしても、躊躇するし、踏み出せないでいる。

それは、まるで、部屋の端っこで埃をかぶったギターみたい。人に弦をはじかれて音を奏でることが、ギターにとっての存在する目的なんです。部屋を飾るために存在している訳じゃないのです。自分の役割をしっかりと果たしたいと願っているに違いありません。

しかし、僕らは人間であって、心がちゃんとあります。

どんなにちっぽけであるとはいえ、自分にとって、存在を示すことができるのは、何よりも喜びに感じるものだし、無条件の愛だって自分の中にあるんだと認めたい。そういった承認欲求は、誰の心にも持っているはずです。

きっと、僕らが自分の力を存分に発揮できるのも、どんなことがあっても、ポジティブに乗り越えることができるのも、それは、心から喜びを味わうためだけに出来ることではないかと思います。

かけがえのない人生の中で、その喜びを味わうために、時間やお金を費やし、人生を費やしてもいいと思います。そこに、挑戦する価値はあるのです。

だから、情熱ある目的を持ってみてもいいと、僕は思っています。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー

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