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誰かに依存しすぎてはいないだろうか?

依存は悪いことではない

自分は弱い人間だ。僕は過去に何度も、そう確信するような経験をしました。一緒に夢を追いかけようとした友人が諦めようとしたときも、何度も諦めるなと声をかけたのも、友人の為ではなく、自分の気持ちも折れてしまわないようにするためだったに違いありません。きっとその友人に僕は依存し過ぎていたんだと思います。

会社で働いていた時も、お世話になった先輩が辞めた時も、手塩に掛けて教えてきた後輩が辞めた時も、僕は、異常なくらい必死になって止めたのでした。

それらも今思うと、その人達の為ではなく、いなくなった後の自分がどうしたらいいのか分からないとか大変になるからだという気持ちになっていたからでした。

その気持ちが焦りになって、御託を披露してしまうという行動をとってしまったのだと、反省はするも、仕方がないこととして、僕は処理してしまいました。

このように依存し過ぎることは、もちろん問題ですが、依存すること自体はそれほど、悪いものでもない気がします。優しさや喜びといった、自分の心に必ず持っている大切な感情のひとつではないかと最近思えたからです。

僕は、ずっと孤独だと思い、孤独に耐えながらいきてきました。それが、少しずつはありますが、誰かの為にとか、この人たちの力になりたい。そう思えるようになれたからです。そこには、確かに依存心が存在しているのですから。

依存による問題はなにか

「依存」というものは、考えてみると、僕らが赤ちゃんの時から、依存は生まれていると言えます。両親に依存心しない限り、生きてはいけないからです。ひとりでは、栄養も取ることも、寝ることもままなりません。だから、両親は必死になって、赤ちゃんを寝かしつけたり、ミルクをあげたり、おむつを変えたりするものです。

その名残かは、わかりませんが、僕らは依存心を抱えながらいきています。何かに依存なしでは生きていけないと、強い潜在意識の中で確立されているのかもしれません。

ですので、何に依存するかが、重要になってきていると考えられるのです。
分かりやすく問題のある依存を考えてみると、薬物やアルコールなんかが考えられます。また、過度に恋人に依存し過ぎて、お金を搾取されたり、暴力をふるわれているような、いびつな関係であっても別れられなかったりします。また、特定の団体などで自分が依存していることなんかおもいもしないままとらわれてしまうことも考えられます。みんながそうしているから。多くの人がそうあるから。これも、自分の気持ちまで見失ってしまうほどの依存です。

つまり、依存による問題は、依存する方向、加減が難しい、認識しにくいだということになりそうです。

そうなってしまう原因には、やはり思い込みではないかと思うのです。挙げてみると、ひとりでいることはつまらないことだとか。この苦しいと感じている人生は、だれかが救ってくれるのではないかとか。人に頼ってはいけないだとか。自分は、かなり未熟だということも。

支え合うことで

そもそも依存してしまうことは、自分の中で充実感や孤独感といった感情に対して不足感を感じていることや、自分がどこか欠けていて人よりも劣っている存在であると思っているからです。

その部分をお互いに補っていける関係なら、依存心の正しいあり方ではないかと考えられるのです。自分の未熟さを補ってもらうために依存してしまうのなら、相手の未熟な部分を支えてあげられる。そんな依存から共存としての関係性なら、依存をネガティブに捉える必要はなくなっています。

先ほどの赤ちゃんは、両親に依存して、守られながら生きていく分。笑顔や喜びといった、かけがえのない幸せを両親にプレゼントしているように思えます。

また、甘えたい人が頼られたい人との関係性は、依存という関係性から抜け出し、お互いの価値を高めてくれる関係性に確立することが出来ます。依存心を生まれながらにして持っているのは、人として、社会で生きていくものとして、支え合いながらいきていくことが出来る為ではないかということです。そこで、生まれる感謝の気持ちや尊敬の気持ちを大切にすることが、依存し過ぎないことへのブレーキとなってくれるものだということです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー


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