父の墓参りと、母の買い出し支援に行ってきました
わたしの父は、10年前の7/10に亡くなった。
亡くなってから、10年になる。
三男だった父は、信州伊那谷から10代で上京し、いろんな仕事を転々としたのち鍼灸師の資格を取って、病院で働きはじめた。そして当時、まだ国家資格として制定されたばかりで、実務経験と一定の資格さえ持っていれば取得できた、理学療法士の試験を受ける。
三度目の正直で合格した父はその後、足立区は北千住駅に近い病院で、理学療法士として働きはじめ、
その後、町屋の病院に移り、81歳で亡くなる3ヶ月前まで、下町の訪問リハを続けていた。
時には、自分より年下の患者さんのもとへ、自転車で通い、屋内の歩行訓練やベッドサイドでの訓練を行っていた。
そんな父は、「歩くのが一番の健康法」と休みの日も2時間ほど散策し、常に小さなメモ帳を携帯し、俳句を作っては投稿していた。
「座るより、動きながら立っているほうがいい」と、独特の横揺れをしながら読書をし、俳句の推敲をしていた。
幼い頃は、家で謎の動きをしている父を「変わった人だなあ」と思っていたが、コツコツと患者さんや仕事へ向き合う姿は、いつしか私にとって「社会人」のロールモデルとなっていた。
その年代の男性にしては背が高く、中年太りとも縁がなく、60を過ぎてから弓道を始めるなど、バイタリティーに富んでいた父だったと思う。
「大音量は体に良くない」とカラオケは行かなかったが、歌うのは好きだった。音痴ではなかったが、なぜか毎度、詩吟のような渋い歌い方になる父だった。
そんな父は、亡くなる年の3月にすい臓がんが見つかり、4月に退職し入院してから、あれよあれよと病状が進み、7月に還らぬ人となった。
生涯現役で、仕事に生き、精一杯、天寿を全うした。
とても幸せな生き方だったと思う。
だから私も、できれば生涯何かしらの仕事をして、体と心がついてくる限り、誰かの役に立ち続けられたらよいと思っている。
🟢🟢🟢
実家でひとり暮らしをしている母は、コロナの時期に体を傷めた。
毎日、駅前のスーパーまで歩いて買い出しに行っていた母は、片道20分近い距離を、重い手さげ袋を肩に掛けて往復しているうち、体を傷めて歩き続けられなくなってしまった。
同居はたびたび話に出ているのだけれど、本人が今の環境を強く望んでいるため、介護サービスへ繋いで、週に1度のヘルパーさんによる買い物支援と、2週に1度の訪問看護師さんによる健康観察を続けている。
ところが先日、てっきり買い物支援でお願いしていると思っていた、トイレットペーパーや洗濯洗剤、シャンプーやリンスなどの重たい日用品を、なぜだかヘルパーさんへ頼みにくいからと、自分で近くのホームセンターへ買い出しに行っていたことがわかり
当分、買い物を頼まなくてもいいように買い出しをしつつ、
1学期はバタバタしていて顔を出せなかったので孫たちの顔も見せつつ
父の命日が近いのでお墓参りもしようということで
今日、片道2時間の帰省をしてきた。
日帰りできる距離なので、何かあったときでも駆けつけやすいのが救いだが
「老い」を体現している母の姿を目の当たりにして、さんざん仕事で見慣れているはずなのに、やはり身内の「老い」を受けとめるのは、なかなか難しいな、と思いながら
父のこと、孫たちのこと、最近のことを取り留めもなく、母と話してきた。
買い出しした品を喜んでもらい、
もう少しで背が並びそうな孫娘の成長と、父に背が追いついてきた孫息子の成長を噛みしめ、一緒にゆっくりお茶でも飲んでから帰るはずが
突然、怪しくなった雲ゆきと、ぱらぱらと降り出した雨に急かされて
いつもはすんなり帰りの挨拶をするのに、「まだ帰りたくない」と珍しく拗ねる娘に、思わずひっそりもらい泣きしながらの別れとなった。
「夏休みに入ったら、またゆっくり来るからね」と、言い訳のような文句で、後ろ髪を裁ち切りながら
雷に追いたてられるようにしてアクアラインを越えると
地元につく頃には雨はやみ、夕日が雲の切れ間から差し込んでいた。
生きていると、いろんなことがあるけれど
願わくばどうか、明るく穏やかな日々が長く続きますように。
苦しみのない、健やかな日々を
願ってやまない。
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