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規範が欠如した教育の問題点

教育学には規範が欠如しているという話をしようと思う。
これは言い換えると「何のために教育をしているのか」という問いに対して、教育学は答えることができていない、という話である。

教育という営みは「方向づけ」である。それは、教師が子どもたちに「教える」という点からも明らかであろう。そして、教育が「方向づけ」である以上「どの方向に進んでいくのか」というのは死活的に重要な問題でもある。公教育という以上、みんなで揃って崖の方へ行ってしまうのは自滅への道である。

しかし、それができていない。
そして、その「空隙」をついてきているのが、保守政治家や経済界なのである。

例えば、道徳の教化科という流れがあった。もしも教育学に「児童には思想の自由がある」という規範がしっかりとあればこれは防げたかもしれない。

もちろん、保守派の方々にはそれなりの思いがあったのだろう。
「子どもたちの思想の自由は大切であるが、自由を強調するだけでは、共同体の秩序や連帯や絆は廃れていってしまう。事実、現在の日本にはそのような一体感が無いではないか。これは、学校教育が道徳の指導に対して及び腰であったからである。」

道徳の教科化にはさまざまな要因があったとされるが、教育側が「道徳に及び腰であった」というのはかねてより指摘されていた点である。実際、私が勤め始めた頃の現場の話ではあるが、「道徳の指導は学校生活全体に渡ってしているから、道徳を授業ですることはない」と堂々と言い放つベテラン教員もいたくらいである。
他にも、当時の道徳授業の時間の使い方としては「テスト返し」や「授業の補習」や「お説教」など、道徳教育の拡大解釈が甚だしいという専門家からの指摘も、まあ、わからないでもない。

道徳の教科化については過去にいくつかの記事を書いているので、以下を参照してほしい。


他にもコロナ禍を経て急速に普及した「GIGAスクール構想」は、まさに「経済界」からの要望以外の何者でもない、というのが、私の見解である。
このようにいうと、GIGA推進派教員の方々からは怒られるかもしれない。彼らは、GIGA端末の持つ「教育的価値」や「効用」について信じて疑わないのだから。もちろん、それらの価値は否定されるものではない。しかし、それらを「所与(あって当然のもの)」として受け取って使ってしまっているという点については、少し立ち止まって考えるくらいはしてもいいのではないだろうか。

実際、私の勤める自治体でも「お金をかけているのだから、しっかりと使いましょう」ということを平気で述べる指導主事がいる。しかし、これはおかしい。それが「教育目標に適っているから使う」なら、まだわかる。しかし「お金をかけているから、使おう」というロジックを教育実践で適用してしまうのならば、仮に革新的なパチンコ好き政治家が、「パチンコなどの射倖心を煽る遊戯を通して、集中力を培うのだ」と宣って、各児童に「パチンコ台を購入」してしまったら、それさえ使うことになるのか。いや、なるのだろう。「お金をかけている以上、使わないと勿体無い」というロジックは、まさにそういうことなのである(そして、これを跳ね除ける力を持つのが、まさに今回の記事のテーマでもある「規範」なのだ)。

ちなみに、GIGAスクール構想の問題点についても過去に記事を書いているので、このことを知りたい方はどうぞ。
内容をざっくり要約すると、「霞ヶ関における最弱官庁である文科省が、多大な予算を通じてGIGAスクール構想などできるわけがない。つまり、GIGAスクール構想は、文科省発案ではなくて、総務省と経済産業省が糸を引いているのだ」ということを書いています。


このように、現在の教育学は規範が欠如しており、その「スキマ」を様々な利権や団体にいいようにされているのである。それで困るのは教育学者ではない。彼らはそれを憂うことはするが、別に困らない(学校現場がAI化されたとしても、教育学は「AI時代における教育」を考えることで、なんとか生き残れるだろう)。困るのは、当然「学校現場」である。
「どうしてこんなに忙しいのだ」という悲鳴は、まさに教育学の弱体化と呼応しているのだ。


「教育は何のために行われるのか」という問いに対しては、さまざまな答えがある。

保守派に聞けば「美しい日本にするため」と答えるだろう。
経済人に聞けば「GDPを上げるための人材を育成するため」と答えるだろう。
保護者に聞けば「良い大学へ進学し、大企業へ就職するため」と答えるだろう。
子どもに聞けば「友だちと休み時間に遊ぶため」と答えるだろう。

それぞれが、それぞれの立場から「教育の価値づけ」を行なっている。どれも間違いとは言い切れない部分があるし、それぞれの立場の「正解」でもある。

その中で、教育学はどの立場に立てばいいのか。まさに、そこが問われている。

このようなことを言うと、「あなたたちは教育公務員なのだから、与えられた業務を粛々と遂行すればいいのだ」と言うお叱りを受けることがある。しかし、規範について考えなくなった学校現場が行う教育は、そんなに良いものと言えるのだろうか。

私はこの話をすると、必ず「アイヒマン」について思い浮かんでしまう。彼は、ナチスによるユダヤ人虐殺の中心人物である。だから、彼がイスラエルの秘密警察モサドに捕まったと聞いた時、多くの人は彼のことを「ヒットラーのような強烈なキャラクターを持つ人物」とイメージしたはずである。
ユダヤ人であり哲学者であるハンナ・アーレントもまさにそうであったが、アーレントがその裁判を傍聴したときの感想がまさに「悪は陳腐」なのである。アイヒマンは「普通の人」であった。ただただ、右から流れてきたものを左に渡すように粛々とユダヤ人を絶滅収容所へ送っていった。そこに強烈な思想も哲学も規範もなかった。「物事が滞りなく進むこと」に徹した結果だったのだ。

現在の学校教育における「教育公務員」たちは、以上の「アイヒマン」とどれくらいの距離を保つことができているのだろうか。

まあ、こう書いておいてすぐに前言撤回するのも難ではあるが、多くの現場の教師たちは大丈夫であろう。彼女らは、そこまで「操り人形」ではない。ほとんどの教師は良心を持って、日々、熱心に教育をしているはずである。そうでなければ、日本はもっともっと残念なことになっているはずである。

しかし、その「教師の良心」でさえも、年々弱体化させられているような気がする。原因はもちろん「現場の多忙化」である。忙しい時に、人は「考えること」ができなくなる。すると、ある日、何か重大な出来事が起こった時にも反応ができなくなる。

学校は「正常性バイアス」が高い環境だと言われている。正常性バイアスとは「今日と同じような明日が来るであろう」という感覚である。これは「危機意識」を低下させる。学校現場において「いじめが隠される」と言うのも、実はこれと関係している。いじめは隠されていない。そんなことをするのは教師の良心が咎めてしまう。問題は「いじめをいじめと捉えられない」くらいに強い「正常性バイアス」が働いているということだ。「これくらいなら、いじめではないだろう」と言う「昨日と同じような今日」思考が、いじめの重大化に対する感度を鈍らせる。結果として、学級の閉鎖性と相まって、重大事案になるまで周りが気づかないのだ。

学校は年間200日も開いている。このような組織においては「安定感」が大切である。だから「正常性バイアス」は必ずしも悪いことではない。200日が毎日イベントだらけであれば、それはそれで「児童も教師も疲弊する」などの別問題が発生するだろう。
そのような正常性バイアスが高い環境の中で、いかに「心身のアンテナの感度」を高めるのか、というのが、まさに現代の学校現場の喫緊の課題なのだ。

そして、その「アンテナの感度」に関係するのが、「規範」なのだ。
「学校現場にパチンコはまずいだろう」という「その感覚」である。

「良い教育とは何か」という議論がある。
これは価値判断を含むものであり、非常に難しい問題である。
実際、20世紀後半から流行した「ポストモダン思想(これは悪口で使われることが多い表現だ)」は、「物事に絶対的なものはないのだ。全ては立場によって異なる相対的なものなのだ」といって、各種の価値論をバッサバッサと切り捨てていった。
結果「良い教育とは何か」ということを教育学者たちは軽々に発言できなくなってしまった。なぜなら、ある教育を「良い」としても、当然それに対しては、いろいろな立場から「いや、それは違う」と反論ができてしまう。
「あなたは、あなたの立場からしかモノが見えていないのだ」という「強烈な相対化」は、教育学における「絶対的な規範」を生み出す土壌をほとんど壊してしまった。

相対化自体は悪いことではない。
中世ヨーロッパには「暗黒時代」があったとされる。これは「聖書が全てである」という「絶対的価値」が支配した時代である。この時代に、(キリスト教が生まれる前の)古代ギリシアで生まれた様々な知見はヨーロッパから朽ち果ててしまった。その後、アリストテレスをはじめとする優れた知見がアラブ世界より逆輸入されるまでを「暗黒時代」という。
哲学史を紐解くとわかりやすいのだが、この暗黒時代の間に「歴史に名を残す哲学者」はほとんどいない。時代で言うと、アウグスティヌス以降はデカルトまで1000年近く誰もいないのだ。だから、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我あり)」というのは、革命的だったのだ。絶対的な価値観をぶち壊す夜明けという意味で。

そういう意味で、「絶対的な価値観が支配する世界」というのは、良いことではない。一方で、「良いか悪いかは、個人次第である」という「相対化」もまた良いことではない。そうなれば、現代のように「権力者」にとって「都合がいい」世界になってしまう。

「絶対的な価値」と「相対化」の間で、「よりマシ」な規範を打ち立てるという、何とも扱いが難しい課題を背負っているのが、現代の教育学なのだ。

「よりマシ」というのがミソである。
これは、まさに民主主義について語ったチャーチルの言葉と符合する。

「民主主義は最悪の政治形態である。過去の他の政治形態を除けば」

現代の民主主義に期待する人は少ないであろう。投票率も低く、支持されていない人がなぜかずっと首相でいることの不可思議さ。国会でのやりとりは「形式的」であり、何も決まる感じがしないのに、経済のことはどんどん決まっていく。

それでも、とチャーチルは言う。
「民主主義はよりマシだろう」と。最善ではないし、欠点も数多くあるけど、それでもマシなのである。独裁制よりも、一部の人しか政治に関与できない寡頭制よりも、マシなのである。この感覚こそ、相対化と戦っていける「最後の砦」なのだろう。
そして「よりマシ」の「より」を強調して言えば、これは「程度の話」なのである。「独裁制か民主制か」というわかりやすい二項対立による「原理の話」ではなく、「白と黒の間」の「グレーの濃淡」を感じる「程度の話」なのだ。

だから「感度」を高めていきたいのだ。
絶対的な規範を打ち立てられない時代、権力者に良いようにされないためにも、学校先生には「それはマズいだろう」と感じられるような「感度」を失わないでほしい。アイヒマンになるわけでもなく、ヒットラーになるわけでもなく。

その感度を高めるための「学校教育の規範」の話をしたかったのだが、紙数が尽きてしまったようだ。少し結論めいたものを書けば、「民主主義を担える公共の感覚を持った市民の育成」と言うのが、現代の学校教育の規範になり得ると感じているのだが、これの理路はまた別の機会に。

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