人は自分の人生を主体的に生きているのか

今回のテーマは「主体」です。
現在の学習指導要領のテーマが「主体的・対話的で深い学び」ですので、学校現場にいる者としても「主体性」について考えないわけにはいきません。

果たして、主体的であるとはどういう状態を指す言葉なのでしょうか。
主体性については、僕の研究主題でもあります。
それについては以下にいくつか論考を書いているので、興味のある方はご覧ください。

「主体的である」というのは、なんだか「良いこと」のように感じます。「受動」と「能動」であれば、言われるがままである「受動」よりも、自分で考えて行動している感じがする「能動」の方が価値があるように感じます。

「自律」という言葉もありますね。
自分を律しているのは自分である。自分のコントローラーを人に渡すな。

「決断力」があるというのは、良いこととして語られます。
「優柔不断」が褒め言葉にならないことの裏返しですね。

学校現場にいると、子どもたちの「主体性のなさ」を感じることが多くあります。「もっと自分で考えて行動してくれよ」
「それくらい、わかるだろう」
「先生がいないと、何もできないなぁ」

これらは職員室での先生方の愚痴としてもよく聞かれます。
これらを言ったり、聞いたりするたびに、「ああ、先生たちは子どもたちに主体的であることを望んでいるんだな」と感じるのです。

しかし、一方で、先生は以下のようなことも言ってしまいます。
「今は授業中ですので、教科書を開きましょう」
「先生の話を聞きなさい」
「一人一台端末でゲームをしてはいけません」

これらの「指示」や「命令」や「禁止」という言葉を多用してしまうのも先生の特徴です。これらの言葉を受け続けた子どもたちの「主体性が奪われている」という問題提起に対しては、こちらも反省をするしかありません。

一体、先生たちは、子どもたちを「主体的に」育てたいのか、それとも管理のしやすい「受動的に」育てたいのか。
まあ、こんな二項対立には意味がなくて、答えはその中ほどなのでしょうけど。


さて、では、我々は「主体的に生きるべきなのか」という問いならどうでしょうか。
奴隷のような暮らしは嫌ですね。
でも、何でもしていいよと言われても、逆にそれに「不自由さ」を感じてしまうのも人間の特徴です。

そこで我が師、内田樹先生のご見解を伺うことにしましょう。
内田先生は「強く念じたことは実現する」ということを述べるために以下の例え話をされています。

さきほどの渡し船の喩えを使うなら、その状況は「川を渡りたいと思っていたらちょうどそこに渡し船が来た」とも言えるし、「渡し船が来るところにぼんやり立っていたら、船頭に声をかけられ、『乗らんかね』と言われたので、『そう言えば川を渡ってみたいような気もするな』と思った」という順番でことが起きた可能性もある。
僕はなんとなく武運というのは後者ではないかという気がするのです。

『そのうちなんとかなるだろう』 内田樹著 p96

自分の人生を自分でコントロールしているという感覚は気持ちが良いものかもしれません。毒親なんて言葉がありますけど、子どもの人生にいつまでも介入してしまう親のもとで育った子どもは不幸になること請け合いです。

一方で、人生をコントロールすることなんてできないこともまた自明の理です。人は一人で生きているわけでは無いので、様々な変数が複雑に絡まり合うような人生をコントロールし切ることなんてできません。

では、どうすれば良いのかというと、起こった事象にその都度(アドホック)対応するしか無いのですね。でも、それは決して「我慢する」とか「諦める」とかいう消極的な意味合いではありません。むしろ、「運命である」と割り切るような感覚が近いかもしれません。

仕事について内田先生は以下のように述べています。

「誰かこの仕事できる人はいませんか?」という呼びかけがある。周りを見渡すと誰も手を挙げない。自分にその仕事ができるかどうかわからないけど、なんとなく「やればできそう」な気もする。そこで、「あの〜、僕でよければ・・・」とそっと手を挙げてみる。
僕たちが天職に出会うときのきっかけって、だいたいそういう感じなんかじゃないかって思います。

同書 p97

「自分には何ができるのか」というのは「自分が一番知っている」と思っている人が多いですが、これは結構な確率で誤りなんです。内田先生の言葉を再度借りれば、これは「自分の評価が、外部からの評価よりも適正であるという過信」なのです。人は自分のことを、実はそんなによく知らない。

僕だって「完全なる自信を携えて」学校の先生になったわけではありません。当然ですよね。やったことがないのだから。教えるのは好きでしたけど、この仕事に就いてみると、実は教えることよりも、他の業務の方が多かったりする。先生という職業においては教えることの比率は、実はそんなに高くない。実際、多くの先生が「授業準備の時間がない」と嘆いているくらいです。

でも、とりあえず、やってみた。
採用試験で合格させてもらえたし、やってみたかった仕事ではあったから、やってみた。

自分の能力の適正なる評価において、この仕事で成功する確率が高いと判断したから選んだわけではない。
業務内容に精通していて、この業務内容なら続けることができる、と合理的に判断して選んだわけでもない。

やってみた。そしたら、うまく行った。何だか、楽しかった。
そんなものなのです。人生なんて。

むしろ、自分の能力を適正に判断して、自分の性格に合った天職を見つけようとしたら、多分一生、就職できません。そんなもの、やってみないとわからない、からです。

すべてご縁のものです。どれも「あの〜、僕でよければ、やりますけど」というあまり主体的ではない流れの中で、その後の人生を決定づけるような出来事が起きた。

同書 p98

ということで、人生においては、「主体的ではない流れの中」を漂って、周りからの「呼びかけ」に「(無主体的に)反応する」ということが、正解なのではないでしょうか。