見出し画像

先生が「休みづらい」ことを考える

学校の先生は休みづらいと言われている。
学校はカレンダー通りの勤務体系なので、土日祝は休みであるが、平日は基本的に毎日開いている。そして、朝は8時過ぎから子どもたちが登校してきて、(高学年であれば)午後4時過ぎまでは残っていることもある。これは教員の勤務時間のほとんどの時間に「子どもが学校にいる」という状態である。その中で、提出物の点検、会議、研修、保護者対応、事務仕事など諸々している先生は「有給休暇」を取得している暇がないのである。

あまり知られていないが、実は学校の先生の多くは「休憩時間」さえ取得していない。これは、休憩時間が「放課後」に設定されており、その時間に会議や研修や保護者対応が入ることがほとんどであるという事情と関係している。
近年、働き方改革の波が学校現場にも押し寄せているため、管理職も「残業時間削減」に対しては何度も言及しているが、そもそも「休憩時間さえ取得できない労働環境」について言及していることを聞いたことは一度もない。つまり、管理職もこの件に関しては「休憩時間に教員が自主的に労働している」と認識しているのであろうが、これはあまりにひどい。
そもそも「休憩時間に会議や研修を設定」していることを容認しているのは管理職である。「休憩時間が取得できない現状」を「黙認」というか、むしろ「積極的に推進」していると疑われても仕方がない状態である。

さらに学校によっては「給食指導」の時間を「休憩時間」に設定している学校もあると聞くが、これはさらにひどい。当然だが、給食「指導中」は、先生はまったく休めない。配膳指導もしないといけないし、配膳中に皿を落とす子もいる。最近だと、うずらの卵を喉に詰まらせて児童が亡くなってしまうという痛ましい事故があったので、時に神経をすり減らしながら給食指導にあたっている。アレルギー対応もあり、これも命に関わるので、学校の先生の給食時間はまさに「かきこむように」食べるという有様である。

さて、話を「休みづらい」に戻そう。
実際、勤務校の先生に聞いてみても「有給休暇を消化できなかった」という先生は多い。「余った有給休暇を現金で買い取ってくれる制度があればいいのに」という冗談は年度末の職員室の恒例である。

しかし、それでもどうしても平日に休まないといけない日だってある。先生本人が体調を崩すこともあるし、先生の子どもが体調を崩すこともあるだろう。老齢の両親の介護もあるし、そもそもそんな「大義名分」が無かったとして、単に休みたいという時にさえ、特に憚られることではないはずである。
そもそも有給休暇については取得の理由を管理職に述べる必要は無いのである。たまに「どうして休むんですか?」と聞く管理職がいるが、これは場合によってはパワーハラスメントに当たる事例もあるらしいので、答える必要は無いのである。

しかし、である。
やはり先生は「休みづらい」ので、先ほどあげたような「大義名分」が欲しいのである。「それだったら仕方ないよね」と周りに思ってもらえないと「休みにくい」のであるから、学校の労働環境が良いとは到底言えない。

では、どうしても、そこまで学校の先生は「休みづらい」のであろうか。
これについては「学級の子どもはその先生の子どもたちである」という、小学校独特の認識に関係しているのでは無いかというのが私の仮説である。もう少し詳しく話そう。

例えば、休み時間に学級の子どもが、他の学級の子どもとケンカをしたとする。すると、それを聞いた両クラスの先生は、それぞれ当該児童を連れて集まり、事情聴取をすることになる。そして、裁定が終わり事件が解決すると、先生たちは「どうもうちの子がすみませんでした」と言わんばかりに会釈をして解散となる。
これは、まるで「我が子が他の家の子とケンカをしてしまって挨拶に行く」姿では無いだろうか。

実際、職員室では「うちの子たちは〇〇ができないわー」とか「うちの子どもはなかなか賢いよ」という言説はよくある。
小学校は「学級担任制」を採用していることが多い。だから「自分のクラス」があり、学級経営という言葉も日常的に使われている。もちろん、中学や高校であっても「自分のクラス」はあるだろうが、中高は「教科担任制」であり、授業ごとに先生が変わるので、小学校ほど「自分のクラス」という感覚は薄いのであろう。それが良い悪いという話ではない。実際、小学校でも、働き方改革の一環として「教科担任制」を採用しようという動きは中央教育審議会からも出てきている。ただ現在は、小学校の先生は「自分のクラス」で過ごす時間が圧倒的に長いため、「他の先生」が「他の学級の様子」を知る機会というのも圧倒的に少ない。

だから、であろう。
学校の先生が休んだ時に、その学級に入る先生は「勝手がわからない」という事態が起こる。

授業はどこまで進んでいるのだろうか。
授業をするときの雰囲気はどんな感じであろうか
教室のものは勝手に使っていいのか。
そもそも、部外者が勝手に授業をしてしまっていいのであろうか。

別に代わりで入る先生だって「教員免許」を持っているわけであるから、そこまで卑屈にならなくてもいいとは思うのだが、「うちの子理論」で考えるとそういうわけにはいかない。
例えば、隣の家の人がしばらく家を空けるから、そこの家にしばらく入って家事や育児を代わりにしておいてね、と言われた想定をすれば伝わるであろうか。
その条件で「どうぞ、いつも通りに振る舞ってね」と言われても、困惑するであろう。

家庭にはそれぞれの習慣がある。
ソファの上でクッキーを食べることを容認する家庭もあれば、クッキーは粉がボロボロ落ちるから食卓机で食べてほしい家庭もあるだろう。男性のトイレをするときに、尿が周りに跳ねるから「座る」ことを求める家庭もあれば、別に気にしない家庭もある。ビールの空き缶を山のように溜めてから捨てる家庭もあれば、逐一捨てる家庭もあるだろう。

これと同様のことが、小学校の各教室では行われているのである。
中高の教室を覗くと驚かされるのは、「その個性の薄さ」である。どこの教室も大差がなく「シンプル」な作りになっている。それは、その教室に「多数の教師」が出入りするからであろうことは想像に難くない。多数の教師が出入りするのであれば、特定の教師の個性が教室内で発揮されているのは「嫌な感じ」がする。
一方、小学校の教室における個性は、まあすごい。僕はあの「ガチャガチャ感」が嫌いであり、むしろ中高の教室のシンプルさに好感を抱くのであるが、それは小学校教員だと少数派らしい。小学校の教室はガチャガチャしている。壁には子どもたちの作品から、授業で使った掲示物まで所狭しと掲示されており、その圧迫感たるやすごいものがある。僕の教室を覗く別の学級の子どもは、「この教室だけ、なんか広く感じるー」と意見を素直に述べてくれる。

「勝手がわからない教室で授業をしろ」と言われても、先生は困惑してしまう。すると、どうなるか。それは簡単である。
「私がどう動けばいいのか指示を出してくれ」となる。

先ほどの例をまた使えば、お隣さんの家に入って家事育児をすることになった場合(どんな場合だよ)、「何をしておいて欲しいか」のリストがあれば心理的負担はかなり軽減されるであろう。

端的に言えば、これが「休みづらい」原因なのである。
つまり、自分が休んだ日の「6時間分の授業プラン」を用意することが求められるのである。これはかなり難しい。そして、気が引ける。
「私は人様の家でも好き勝手振る舞えますよ」というタイプが多数を占めていれば、こんなに気を使わなくてもいいのであろうが、そういう人は少数派である。多くの先生は「人様のクラスで授業なんて、私にはとんでもない・・・」と尻込みしてしまう。

すると、どうなるか。
これは簡単である。「プリントを大量に刷ってやらせておく」である。
学習プリントがあれば、代わりの先生でもやらせることがわかる。プリントをやらせればいいのだ。

学習プリントがあれば、代わりの先生でも困らない。プリントに丸をつければいいのだ。しかし、もしかしたらその学級には「丸つけのルール」があるかもしれない。それなのに、私なんかが勝手に丸つけをしては申し訳ない。だから、丸つけは休み明けに復帰した先生にお願いしよう。

こうして、「休みづらい休み」をとった休み明けには「6時間分のプリントの丸つけ」という「過酷な仕事」が残っている。
さらに教室はグチャグチャであることも多い。それは「人様の教室を勝手に掃除してもいいのだろうか」という遠慮からくる配慮なのだろう。

これを経験した人はわかるであろうが、つまり「休んだら、休んだ以上の仕事が後日やってくる」のである。

だから、学校の先生は「休みづらい」のである。

近年、「チーム学校」ということが言われている。
これは、「うちの子理論」とは真逆の発想である。チーム学校は「学校の子どもは、学校全体で育てていこう」という素晴らしい理念ではあるが、ここまで読んだ賢明な読者はお気づきであろうが、チーム学校という理念は空語である。
学級担任制を続けていく限り、チーム学校は達成されない。
それは端的に「人様のお子さんを躾できない」という表現で伝わるであろう。

OECDで務められて、諸外国の教育事情にも詳しい岡本薫氏が興味深いことを述べている。

一九八〇年代にOECDが「家庭教育を支援するために各加盟国政府が実施している政策の比較研究」という事業を企画・提案した。このとき、フランスやドイツなどの大陸ヨーロッパ諸国や日本は賛成したが、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといったアングロ・サクソン諸国は、研究を行うこと自体に大反対した。アングロ・サクソン諸国の人々の間には、「家庭の独立」や「各家庭での独自の教育」を尊重する伝統が極めて強く、「政府が家庭教育に対して何かをする」ということ自体が、たとえ支援であっても、タブー視されていたためだ。
アングロ・サクソン諸国の人々が家庭や学校の役割について持っているイメージは、アメリカの開拓民を思い浮かべると分かりやすい。幌馬車に乗った家族が開拓地に定住し、家を建て、柵をめぐらし、お父さんが鉄砲を持って家族を守っているーというのが、その典型である。

「日本を滅ぼす教育論議」 岡本薫著 講談社現代新書 2006

小学校の学級が「学級王国」と言われることも納得できる。王国のルールは、王国の外側の人間には見えないものなのだ。
これに関連しているのは「学級崩壊」である。小学校では、王国の反乱が激しくならないと、周りの国の人たちは気づけないのだ。そもそも内乱状態は「恥ずべき事態」という先生の認識も手伝って、崩壊の発見は「もはや手遅れ」となることが多い。すると、内乱状態のままなんとかやり切るか、先生が「病気休暇」を取得して、王を入れ替える「革命」が実施されるか、の二択となる。

独身で、両親の介護もなくて、仕事が趣味みたいな先生にとっては、以上の文章に共感することは難しいであろう。このような先生は、「休んだ先生の代わり」をしてくれることが多いので、むしろ「なんで私があの先生のために仕事をしないといけないのだ」と憤ることさえあると思う。

私としては職員室でのんびりしている先生もいるのだから、その先生方に管理職が仕事を振ればいいのにとも思うが、私自身も3児の父であり、しょっちゅう休むことになるので、そんなことは口が裂けても言えない。

この記事が参加している募集

忘れられない先生