【SERTS】scene.10 持続可能なウォーエーノンとホリデーの上海蟹
※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
我が王は変わってしまわれた。
「あ、あ」
喘いだ唇の奥のすべてが渇いていそうな声で以って、そのありとあらゆる感情をかろうじて二音に押し込めた王は、真っ直ぐすぎるほど前を見ていた眼球だけを、そろりと僕に向けた。
……なにが、あったの。
そう問いたかった声が、直後、引っ込む。目を逸らしたくなるのを堪え、その痩せたからだを抱き寄せる。……さりげなく、そっと、その乱された胸元を整えてやる。王は乾いた目を閉じて、僕の胸に顔を埋めてゆっくりと長い息を吐いた。その微かなふるえが、立体駐車場の中を吹き抜けていく夜風に飛ばされていく。遠く遠く、青い夜の果てまで。
守れないことばっかりだ。きっと僕は、王に対するありとあらゆる見積もりをまちがえていて、そのせいで大切なことをとりこぼしてきている。現に今、僕は王が茫然自失として固まっていることそれ自体をどこか信じられないような心地で『発見』したのだ。しかし、その認識は明確に間違いだ。我が王はきっと変わったのではない。引きずり出されて剥き身になった少女の心は、まさしく、この腕の中のふるえそのままのまるごと一個ぶんなのだ。それ以上でも以下でもない、この腕に収まるくらいのおおきさで、世界に転がっている。
「……いいよ。僕がぜんぶなんとかするから。ただしいことじゃなかったとしても僕はそれを間違いだとは思わない」
王のちいさな頭をすっぽりと掌で覆い隠しながら、僕は地面に仰臥している男から横溢した赤い飛沫を見据える。莫迦な男だ。莫迦なのは僕もだ。「王は畏れられて当然である」という認識で世界を見誤り、王を危険に晒した。
結論。死すべき莫迦はどこにでもいる。
「チョロ、シルヴェスタ。後始末頼めるかい」
僕の数メートル後ろに控えていたエージェントに声をかけると、彼らはそれぞれ短く返事をして作業に取りかかった。特殊清掃業者との提携も視野に入れないといけないな、とどこか上の空で考えていると、その死体とばかり思っていた男が指先をわずかに動かした。まったく、きょうは見誤ってばかりだ。腕の中でまるっきり静止している王を、弊社随一の巨躯の持ち主であるチョロ……三入千夜郎に預けると、彼は「社長、いけません」と僕を引き留めたが、無視をしてその男に近づき、身を屈めてその頭を。
「チョロ、シルヴェスタ。後始末頼めるかい」
振り返ると、千夜郎の腕の中から王が抜け出て僕に駆け寄ってきた。ばかなこ、と呟く声はもう動揺のすべてを隠しきっていて、王は返り血を幾らか浴びた僕にためらいなく抱きつくと、「陛下」と甘ったれて擦り寄る僕を、自分がされたように千夜郎に押しつけた。
「食べちゃいますね」
そう言って王は、おそらくふたたび、腰から終体を生やした。曰く、今度の用途は生殖でも殺害でもなく、摂食らしい。
「証拠隠滅、かつ、SDGsです」
そんな素っ頓狂なことを言って王はにこりと微笑む。終体が、花ひらくように、牙を剥く。すると車から引っ張り出してきたであろう清掃用具を抱えたシルヴェスタが「何番すか?」とこれまた空気を読まない問いを王に投げ掛けた。
「ええと、7、12、16……」
答えながら、王は死体を咀嚼していく。鮮度の高い死肉はみるみるうちに白い花のなかに取り込まれ、やがてその場には横溢した赤だけが残った。そしてそれもすぐに吹き付けられた消毒剤によって白く埋め立てられていく。
「王さ、なんでまだ『そう』なの?」
僕の指摘が聞こえないなどとは言わせない。さっきからずっとカフェ店内の衆目のなか、僕の腋の下に頭を突っ込んでぐりぐりと額を擦り付けている王に、「答えてくださいよ」と回答を促すが、いくら待っても返ってくるのは沈黙のみ。仕方なしに「なんでそこ好きなの?」と質問を変えれば、
「ヤララカイからです」
と意外なほど素直な声が返ってきた。
「急所だからねえ。ハリエットの腋もきっとヤララカイよ? おでこぐりぐりさせて貰えば?」
すると王は「や、であるがあ?」とどこで覚えたのか斜に構えたギークっぽい発音でそう呟きながら、林檎のように烈しい頬の赤みを、耳にまで及ばせる。なにをそんなに照れることがあるのか……と呆れながら、目の前の席で呑気にコーヒーを啜っている元凶に視線を遣れば、彼は不敵な笑みをこぼして言った。
「いいぞ、俺の腋にぐりぐりしても。こっちおいで」
しかし手招きをするハリエットを一瞥もせず、王は消え入りそうな声で「拙僧にはまだはやいのであるがあ?」と訴えると、僕の腰に腕を回して動かなくなった。これにより僕は肩周りのストレッチをしているかのような体勢をキープさせられる羽目に。上腕三頭筋が伸びるのを感じながら顔を顰めてみせれば、ハリエットは肩を竦めて軽く首を傾げた。
王はなぜだかこの期に及んでもハリエットを前にすると初心に照れてしまうようで、その恥じらいをお気に入りポジションに隠れることでやりすごしたいらしく、こうして僕を困らせている。そんな僕たちを見たハリエットに「脇フェチみたいだぞ」と指摘されてしまった王だったが、それについては特段恥ずかしそうな素振りもみせずに「フェチとはなんですか? スキのことですか? この子は腋を舐めるのがスキですよ」と言って唐突に僕の癖を暴露した。そのあまりにも杜撰なアウティングに、僕は思わず唇に寄せていたキャラメルマキアートのマグを落としそうになる。
「腋かあ……そうかそうか」
ハリエットの生温い視線と、妙に穏やかな声。その細められた眼差しと眉間に刻まれた皺に込められているのが『ドン引き』という感情だということは、流石に僕にも理解できた。耐えかねて、
「腋はノーマルでしょうよ」
と訴えるが、
「腋はアブノーマルだぞ。感覚をチューニングしとけ」
と返されて相手にされない。
「くそー。王、ハリエットの嗜好も暴露して」
ならばアウティングにはアウティングで返してやろうと、AIアシスタントに問いかけるが如く王にそう促すが、「シコウ?」と首を傾げられてしまったので「僕と違う行動イン・ベッド」と補足してやる。ハリエットは自分はノーマルだと主張しているのか、涼しい顔でコーヒーを啜っていたが、王が「この星を舐めたり噛んだりするのがスキみたいですよ」と自らの項を指さしたのを見て、途端に「ごほぉ」と酷い音で噎せた。
「似たようなモンじゃんかよ!」
目を閉じたままハンカチで口元を拭っている彼に対し、ちゃんとハンカチを持っているタイプなんだなと的外れな感心を寄せつつ、指をさして揶揄する。すると彼は「お前よりだいぶソフトだろ」と視線を窓の外の往来に投げて逃げの姿勢をとった。だが、逃がさない。
「わかった。僕、わかっちゃった。王が可愛いからパピーを運ぶみたいに首の後ろ噛んじゃうんでしょ。その心は、ロリコン」
「ばか、ちげーよ。カス」
「噛みグセは直さないとね? これだから躾られてないヤマイヌは……」
「あ? なんか言ったか温室育ちのイエイヌがよ」
僕たちがやいやい言っている横で、僕の腋の下から頭を離した王が歩き回る店員の動きを目で追っている。どうやら注文していたスイーツが届くのを、今か今かと待ち構えているらしい。それから間を置かず、席に届いたのは奶酪と呼ばれる乳製品だ。直訳するとチーズだろうか。しかしハリエットの説明によると酒の香りのする酸味控えめのヨーグルトのようなものらしく、カップに入ったその装いはフルーツのトッピングで華やかではあるが、それ自体は至極シンプルな見た目をしていた。
「シュエシュエ」
店員にそうにこやかに礼を言った王に、それまで僕の性癖がいかにアブノーマルかについて具体例を挙げ説明し、「体液をフューチャーしているとみなされてBANされるぞ」と貶していたハリエットが途端に優しい声音になり「上海語でシュエシュエはシャヤノンだ」と訂正する。すると王はくるんと小首を傾げて、その指摘を飲み込めていないような素振りをみせたものの、「シャヤノン」と発音を確認するかのようにゆっくりと呟いた。ハリエットは指を組んで「そうだ」と頷く。
「ニィハオは、ノンホウ」
「ノン、ホウ……」
「ザイジエンは、ゼーウェー」
「ゼーウェー……」
眉根をきゅっと寄せて、慎重にハリエットの発音を真似る王は、顎に手を当てて何度も繰り返し唱えて真剣な様子だ。シャヤノンノンホウゼーウェー……呪文のように連なる、コミュニケーションの言葉。僕も覚えておこうと頭の中で繰り返す。
「では、ウォーアイニーは?」
唐突にその唇から飛び出した真摯な問いに、僕とハリエットが同時に居住まいを正す。僕は続けて咳払いをする。そしてこちらを横目でじっとりと見つめてくる彼に、どうぞ、の意味を込めて肩を竦めてみせると、彼は答えた。
「ウォーエーノン……だ」
その瞬間、僕とハリエットの間に『どちらが先にウォーエーノンと言ってもらえるか対決』の戦いの火蓋が切って落とされた。間違いなく、その感覚があった。小声であたらしい「愛してる」の表現を身につけようと諳んじている王に、「僕のこと、ウォーエーノン?」と問うた声が、ハリエットの「この国ではかなり重い表現になるから使うときには慎重にな」と注意を促す声に掻き消される。邪魔しやがって……と顔を顰める僕に、ハリエットはフンと鼻を鳴らして余裕の笑みを見せつけると、ラストオーダーを聞きにきた店員に「特には」と返してスマホで時刻を確認したようだった。
「早いね。大晦日だからか」
僕も時計を確認すると、まだ夕方前。この国の人間にとっての新年とは春節……旧正月のことだが、一月一日も休暇とする文化もここ数百年で浸透しており、店も大半が閉まる。だから都会で過ごすほうが幾らか快適だろうとこうして上海までやってきて、基本的に上海勤務であるらしいハリエットに「一緒に『年末年始』を過ごさないか」と誘ってみたのである。彼の僕に対する態度は相変わらずだが、僕は徐々にこの男のことを気に入り始めている予感がしており、それは王と彼に肉体関係があって、子作りを計画しているという屈辱的事実の緩和を図ろうとする心の機微だと言い切ってしまうのが憚られるような、なにか奇妙な連帯感やシンパシーを伴っていた。
「そろそろ買い出しに行かねえとな」
誘いに対する返事はこの通りイエス。ハリエットの職場も年末年始は休暇とはいえないまでも比較的緩い勤務形態になるらしく、彼の上官であるアンダーソンもクリスマスから娘夫婦のところへ遊びに行っているそうだ。
「待ってくださいね、急いで食べます」
奶酪をスプーンでつついていた王が、ハリエットの言葉にカップを鷲掴みにしたので、慌てて「ゆっくりで大丈夫!」と制する。この勢いからして、文字通り飲むように食べようとしたのだろう。ハリエットもそんなに急がないから、と訂正を入れたことにより、王はカップを皿の上に戻すと、トッピングの苺を掬ってニコニコと口に運びはじめた。その様子を眺めながら「あーんしてほしいな?」と王に訴えれば、対面からは舌打ち、隣からは「むん」と不服そうな声が上がる。
「オオキ……グチ、を? オオグチ、を、タ……タタキ、なさい」
スプーンに奶酪の欠片と桃の果肉を乗せ、そう言った王がこちらを向いた。どうやら口を大きく開けてほしいらしいが、表現が間違っている。
「ちょっと違うね?」
指摘した直後、口内奥深くにスプーンを突っ込まれてしまい、思わず噎せた僕を見て、ハリエットは短い笑い声を上げると、テーブルの隅に置かれていたプラスチックボードのQRコードをスマホで読み取ったようだった。このままでは会計を済まされてしまうと思い、そのパンナコッタのような触感のヨーグルトを舌で潰しつつ、「僕が払うよ」と申し出ると、彼は「お好きにどうぞ?」と嫌味に言ってボードをこちらに向ける。それを手繰り寄せて読み取り、代金を支払った直後に、スマホがポンと鳴った。見れば、【ハリエットさんから入金がありました】と電子マネーアプリから通知が入っている。
「はあ? ちょっと待って、キミ、いつのまに僕の口座なんか……」
薄ら寒い肌感覚につられて顔の筋肉が歪むのを感じていると、ハリエットは「他にも色々知ってるぞ」と宣材写真かのようにハンサムな笑顔を僕に向けた。要は「仕事上」と補足したいのだろう。
「ふーん? 他にはなにを知ってるの?」
大したことはなにも知らないだろうと高を括ってそう煽ってみれば、
「この場で言えることはある意味他にないかもな」
とその控えめな言に反した強い眼差しで僕を睨んだ。
「じゃあなにもないんだね。まあ、口座番号くらいなら許してあげるよ」
負けじと僕も繰り返し煽る。すると彼は呆れたように眉を持ち上げると、軽く腕を組んで言った。
「……フルネーム、生年月日、身長体重。スリーサイズ……は興味がないから覚えてないな。資産総額、交友関係、パパラッチされた回数、それらが乗った媒体、何曜日にどこにいるか。スマホに入っている連絡先。最近連絡を取っている人間。週何回セックスしてるか。それらを参考にして導き出したお前の好みのタイプ。ドンピシャなのがひとり……」
「待った」手を挙げて制止をかける。察しろと視線を送る。「ズルくない? 僕、キミのことなんにも知らないんだけど。偽名だし」
「なにが知りたい? 血液型か?」
「知ってもどうしようもないじゃん」
「なにかあったときに輸血、あるいはその手配ができる」
「なるほど?」
「おまえたちは血液型が同じですよ」
唐突に、王がそんなことを言う。空になったカップをぴんと指で弾いて。
「……味でわかるの?」意外に思いながらそう訊いてみると、王は「わかりますよ」と頷いてスプーンを置いた。
「同じ味ってこと?」
「いいえ」
「どっちが美味しいの?」
「栄養が摂れるのはおまえ。ハオチーなのはハリエットさん」
「お前、葉っぱじゃん」王と同じ野菜嫌いのハリエットが顔を顰める。
「葉っぱは食べないと駄目なんですー。必需品なんですー」
「……あ」
不意に、王が短い一音を発した。なにかに気づいたのかと「ん?」と音だけを投げ掛けると、次の瞬間に僕のスマホが着信音を鳴らした。画面を確認して、立ち上がる。
「ちょっとごめん。外で待ってて」
椅子の背凭れに掛けていた上着を取って、カフェの奥にあるトイレに向かう。そしてその道中、喫煙ルームがあったのでそこに素早く身体を滑り込ませると、受話ボタンをスライドさせた。
「いま大丈夫だった? ラドレくん」
風鈴のように澄み切ってささやかなその声の持ち主は、僕の名を呼んではにかんだような吐息を漏らした。
「大丈夫。どうしたの、ファユエンちゃん」
上着の懐から電子タバコを取り出し、カートリッジを挿し込む。スイッチを入れる。煙い。煙くて臭い。
「えっと、用事ってわけじゃないんだけど……ちょっと、声がききたくて……」
「ふ。可愛いね、そういうの。初めて言われたよ」
可愛い。可愛くて、ちょろい。女の子なんて、ちょっと転がしてやれば簡単に僕に好意を持ってくれる。
「ええー、うそだよ。そんなの」
ファユエンは僕が吐いた嘘に対して試し行為でもするように、きっと、電話の向こうで頬を膨らませているに違いない。そんな声音だ。
「嘘じゃないよ」
「会長さんは?」
会長さん……王についてはそんな『事実』のみを彼女に伝えている。どうせ少し調べれば『なぜか付き合ってない』とされている都合のいい記事がわんさか出てくるだろうから、深くは説明していない。この国に滞在しているのもビジネスということにしていた。
「いるよ。たぶんいまは外だけど」
オトコといるよ、とは言わない。僕も王のオトコと認定されて差し支えないほどの、肉体関係という実績を重ねているからだ。
「外国の人って今日明日がホリデーなんでしょ? 今夜はパーティーとかするのかな」
「パーティーってほどじゃないけど、まあお酒飲んでゆっくりする予定かな。ファユエンちゃんは?」
「私もお休み貰ったけど、ふつうの休日って感じ」
「なにしてるの?」
「うーんと、今はホリデーコフレのカタログ見てる。出遅れたけど、やっぱりかわいいよなあって未練たらたらで。どこも完売しちゃってるんだけどね」
「あるよね、そういうの。どこのやつが好きなの?」
「どこもかわいいけど、やっぱりFMがいいなあって。でもFMって全体的にシュッとしてるから私には似合わないよね。ギャラリーポポとかフェイクファンタジアとかが私には『ぽい』かなあ……」
彼女がFMのあとに挙げたふたつのメゾンのうち、前者は白×ピンク系でカワイイモチーフをふんだんにあしらったケースが人気。後者は額縁やユニコーンが象徴的なキラキラ金飾系。なるほど『ぽい』ような気はする。
「自分を呪わないでよ。いいよ、FMのプレゼントさせてよ。伝手があるから。送って差し支えないアドレス、あとで送っといて」
「えっ、私、そんなつもりじゃ」
途端に彼女は及び腰。だがそこが可愛い。そう言うと思っていた。
「ふ。じゃあどういうつもりでいつも電話してくるの?」
「……ラドレくんてさ、ズルいよね。そうやって色んな女の人コロコロしてるんでしょ」
コロコロ。
「コロコロて。してないよ」
「ほんとー? だってあの会場ですごい数の女の人に囲まれてたよ?」
「ああ、あれはコロコロか」
コロコロ。
「そうだよ、コロコロ」
「コロコロしたいだけなら、グラス割って困ってる子に声かけないよ」
コロコロ。
「……えっちなこと、しちゃったのに?」
「そうだね? ヤだった?」
コロコロするのって、しみじみ簡単だなあ。
カフェの外に出ると、王とハリエットがスマホを横持ちにして並んでいた。ソシャゲでもしているのだろうか。王が「対ありです!」と言って彼を見上げ、笑っている。
「ごめん、お待たせ」
ふたりに声をかけると、ハリエットがすんと鼻を鳴らした気がしたが「黙ってろよ」の意を込めて彼を一瞥し、王と手を繋いだ。王はスマホをポシェットに入れると、にこりと微笑んで「なにを買うのですか?」と無邪気に問うてくる。
「王の食べたいものを買おう。お酒はなにがいい?」
「ええと、ジャオと食事をしたときのお酒がまた飲みたいです」
「……白酒? またキミは強いのを」
白酒はコウリャンやトウモロコシを原料とする蒸留酒で、あのとき飲んだものがあまりにも強かったのでのちに調べてみたことには、度数は三十から六十度。高いものだと七十度もあるらしい。
「とてもいい香りがしたのを覚えています。でもたしかにおまえには強いかもしれませんね」
「白酒なら持ってきたぞ。鞄に入ってる。香型は清香だからまあなんにでも合うだろ」
そう言ってハリエットは背負っていたバックパックを指した。白酒は香りのタイプごとに分類される。清香というのは定番の型のひとつで、爽やかな香りと口当たりのよさが特徴だ。
「へえ、用意がいいね」
「お前を潰そうと思ってな。面白いから」彼はそういってなぜか可笑しそうに口元を歪めた。それを見て王も、
「こら。だめですよ。この子、酔うと泣いちゃうから」
と眉根を寄せた笑みを浮かべ、彼の腕を軽く叩いている。
「いや、泣かないし」
僕がそう訂正すると、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「え、なに? なんの笑い?」
「お嬢ちゃん、あのムービー見せてないのか?」
「見せませんよ。かわいそうに。もうあんなのはだめ」
「可哀想ってなに?」
ふたりがなにを指して、どういう意味で笑っているのかがわからず、混乱しながら問うが、答えは返ってこない。
すこしいじけた心地になりながら外灘の西洋建築が立ち並ぶなかを歩く。奮発してわざわざ上海のなかでも一等地である外灘の高級ホテルをとってやったというのに、この仕打ちだ。こうなったらベッドに真っ先にダイブしてやるぞ僕が一番乗りだ……と意気込んでいると、ハリエットが「ちょっとこっち寄るぞ」と路地裏へと曲がっていったので、後に続く。そして彼は一軒の食堂に入って行くと、香味野菜の匂いがする蒸気で白くけぶる店内で、なにやら店員に向かって声を張り上げている。
「なに? なんの店?」
注文口から少し避けた位置に移動してから問うと、彼は混雑したイートインを指さした。
「白斬鶏だ。食ったことあるか?」
首を伸ばしてそちらを覗き込んでみると、皆が皆大皿に乗った白い鶏肉のようなものをつついている。
「ないけど……カオマンガイとか、海南のチキンライスの上に乗ってるみたいなやつ?」そう、見たままの所感を述べる。
「まあ、近いがこれは冷たいんだ。冷製の茹で鶏だな。醤油ベースのソースにつけて食うんだが、ここのが一番美味い」
「蒸しじゃないんだ」
「鶏は蒸すより茹でるほうが食感が良くなる」
その食感はよほど魅力的なのか、店内は非常に混雑していた。じきに店じまいだろうに、大鍋から立ち昇る蒸気も消えてなくなる気配がない。
「ふうん。結構食通なんだね、キミって」
「そうでもない。ほとんどがアンダーソンの受け売りだ。あの人、ああ見えて食にうるさいんだよ」
「仲良いよね、あのお茶目な上官と」
アンダーソンは見るからに世話焼きそうな男だ。ハリエットの普段の態度からしてそういうのをうざったく思いそうではあるが、実際は違うということもまた、彼の態度からわかる。到底嫌いではなさそうな、むしろ好いていそうな雰囲気があって、彼らのエピソードを聞いているだけでつい微笑ましい想像をしてしまう。
「まあ……あの人が俺を拾ってくれたから、我ながら懐いているというか……あ、言うなよあの人には」
まるで思春期の子どものようなことを言って、ハリエットは頭を掻いた。当人はここにはいないのに、そっぽを向いて恥ずかしそうだ。
「拾ったって?」
「……ヘマして野垂れ死にそうだったときに、色々な」
「キミが死にかけることなんてあるんだね」
「あるだろ。お前みたいに契約してるわけでもなし。今の仕事も仕事だしな。連絡が取れなくなったら死んだと思ってくれ」
死ぬ。可能性。この男が。
「やめてよ……親になるんでしょうが」
なんだかとてつもなくさみしい気持ちになって、唇をわざとらしくへの字に曲げてしまう。あの人が死んだときの、あのつめたい手足の感触が今を生きる僕の手足をぞっとするほど急速に冷やして、いっそ痛い。「そういうの、勘弁してよ……」……眼鏡を押し上げる。
「ああ、元カレが亡くなってるんだっけか。悪かったな」
いつそのことを話したかは失念したが、ハリエットはそう気遣うように言って僕の肩を叩いた。その感触に嫌味はなく、その軽さが却って丁度いい具合に胸に詰まったものを溶かす。そこで息を吸って「元カレってねえ、そんなフランクな言い方しないでもらっていいですか?」と顔を顰めてみせると、彼は「名前、つけられないか」となにか納得したふうに眉尻を下げた。
「元、ではありませんしね」
また唐突に、王が口を開いた。
「いまでも大好きなのです。言ってしまえば、亡くなったひとは、亡くなっただけですから。それだけで関係性が変わるものではないのです」
ね、ラドレ。……そう言って、王は僕の名を呼ぶと、それからハリエットに向き直り、「用意ができたようですよ?」とカウンターで声を張り上げている店員を手で指した。すかさずそちらに向かっていくハリエットの背中を目で追っていると、王が僕の肩に寄りかかって「いいこいいこ」と甘やかな声とともに僕の手の甲を指で撫でてくれる。その手を捕まえてぎゅっと指を絡めていると、無言が泣き声になりそうで、ぐっと息を止めて、留めて、ぱっと解き放って深呼吸をする。涙を打ち消す。消さなくたっていいのに。
「王」
「なあに」
「ありがとう」
「……この子ったら。まだお酒は飲んでいないでしょうに」
王が僕の頬を両手でぱちんと包んだところで、ハリエットが戻ってきたので店を後にする。彼は僕に対してなにか言うことはなく、涼しい顔をして先頭を歩く。そしてザ・チャーニーズ・アーキテクチャの建築物が増えてきたと思えば、どっと観光客の姿が増え始めた。なにか観光名所なのかと辺りを見渡してみるが、建物はクラシカルな外装というだけですべてが真新しい質感をしている。なるほど、『それっぽさ』が売りの一帯なのだろう。浮足立った観光客たちもこのホリデーをどう過ごそうかと決めあぐねているらしく、路上で酒を飲んだり、牛歩でうろうろしたりしている。そんななか、ハリエットと同じように迷いのない歩幅で歩いている地元民や旅慣れていそうなバックパッカーなどがいて、途中から彼らと目的地を同じくしていることに気がついた。やはり的確な判断を下す男なのだな……とハリエットの刈り上げられた後頭部の辺りを眺めていると、不意に彼が立ち止まった。見れば『小吃大街』と掲げられた巨大なネオン看板が目の前のビルに張り付いている。この一帯の雰囲気に則したわざとらしい中国建築だが、中を覗き込むとテイクアウトメインの飲食店のテナントが集まっているらしく、観光客向けかと思えば仕事帰りと思しき地元民や家族連れも多い様子だ。
「ほら、なんでも好きなものを言ってくれ」
彼は王に対してそう言っているらしく、加えて自分とも手を繋いでほしいのかその大きな手を王に差し伸べている。途端にそわそわし始める王に「繋いであげなよ」と言ってその肩を押すと、王は「むん」「むううん」と繰り返し鳴いたあと、おずおずとその手を取った。
「だからなんでそんなに照れるの」
歩きながら、相変わらず耳を赤くしている王にそう問うてみる。すると王はごにょごにょとなにやら呟いたあと、「ハリエットさんは、かっこいい、から、照れます」と言い切ってぷいとそっぽを向いてしまった。それを聞いたハリエットが一瞬オーバーな予備動作とともに立ち止まるが、次の瞬間には何事もなかったかのように歩き出すので、これはもうなにか言ってやらなければ気が済まない。……キミまで耳を赤くするなよ。
「はあー? 王、僕は? 僕はかっこいい?」
「メイビー」王はこっちを見ない。
「ちょっと、メイビーってことはないでしょうが。ちゃんと見て僕の顔! 身体! 性格! 見てよこの横顔のライン、脚の長さ、たっぷり度量! ちゃんと見てくれたら絶対かっこいいから!」
王に向かって全力のプレゼンをする僕を一瞥もせずにハリエットは、
「たっぷりは詐称だろ」
と、呆れたような声を出す。僕の度量を強制的にかさ増しさせておいて、この態度は許し難い。
「キミまでなんなの! ちょっとかっこいいって言われたからって調子乗らないでよね。この、にわかが!」
「はいはい。にわかで結構。で、なに食いたい?」
「熟酔沼蝦が食べたいです!」
勢いのまますぐ近くにあったガラスケースの中の、酒壺に盛られた酔っ払いエビを指さす。これは淡水エビの紹興酒漬けで、他にも貝やカニなどの種類がある。できれば熟(茹で)ではなく生がよかったが、テイクアウトだと基準が厳しいのかこの店には火を通した商品のみが置いてあった。
「はいよ。これで機嫌直してくれよな」
そう言ってハリエットは店員に注文をすると、包んでもらったそれを僕に手渡してきた。それはずっしりと重く、可食部がある程度少ないとしても満腹になりそうな量だった。これは、かなり嬉しい。いつどんな時代も甲殻類は高い。
「なんなの、まるで僕がヘソ曲げた彼女みたいに」
「はいはい。ごめんごめん。それ、プレゼント」
「こんなんじゃ許しませんからね」
「はいはい。ラブユーラブユー」
「んもう、しかたないなあ。あとホリデーコフレとバッグと冷蔵庫も買ってえ。あと奥さんとも別れてえ」
どちらともなく始まった茶番に、ふたりして顔を見合わせ「きもすぎ」と笑っていると、ふと王が愕然とした様子でこちらを見ていることに気がついた。しかし僕らが誤解の二文字を口から射出するより先に王は、
「ど……どうしてもっとはやく言ってくれなかったのですか」
と、低いトーンの声を発し、ハリエットと繋いでいた手を振りほどいてしまう。待ってくれ! と引き留める彼の声も虚しく、王は「ご祝儀おろしてきます!」と言いながら駆けて行ってしまった。後に残されたのは大男二名による質量重めの沈黙のみ。じわじわと滲みだす冷や汗は思いのほか温度があったらしく眼鏡を曇らせる。霞んだ視界でもわかるほど顔色の悪いハリエットが「このファッキン間女が」と僕を睨むのに、「男が悪いよどう考えても」と返し、ふたりとぼとぼと案内板に近づいてATMの位置を確認する。二階だ。
そして引き続きとぼとぼとふたり肩を落としてエスカレーターに乗り二階へ。二階はフードコートになっているらしく、ちらほらと食事をしている人間らに紛れて、王はひとりもぐもぐと焼き小籠包を食べていた。そのあまりの切り替えの早さに床に転げそうになるのを堪えて王に近づき、「一個ちょうだい」とその向かいに腰を下ろすと、王は「お肉とエビがありますよ」と呑気な声を上げる。
「じゃあ、エビ」
「はい、どうぞ」
王がその一口サイズの焼き小籠包を竹串に刺して持ち上げるのを、口で受ける。熱い肉汁で口内が満たされ、その衝撃に声を上げそうになるが、熱で鈍くなる舌にも充分に、存分に、美味い。買って行こうかとも思うが、これは出来立てでないと意味がないだろう。
「お嬢ちゃん、俺にも」
僕の隣からハリエットが身を乗り出すが、王は今度はハリエットに冷遇を決め込むつもりらしく、先ほど僕にしたようにぷいとそっぽを向いてしまう。まさか自分に対してそういう態度を取られるとは想定していなかったのか、ハリエットはショックに固まってしまった。ざまあみろだ。
「妻帯者とはなかよくしません」
その言葉に僕とハリエットが同時に「そっちか」と漏らす。僕と彼の疑似ラブロマンスではなく、王は僕がハリエットに付与した『妻帯者設定』に反応したのだ。しかもほんとうに事実だと思い込んでいるらしく、王は真面目な顔で遠くを見つめている。
僕が小声で「あーあ」と漏らすと、ハリエットは「殺す」と僕の膝目掛けて拳を振り下ろしてきた。そのそこそこ容赦のない殴打に声を上げて痛がっている僕から離れて、彼は王の隣の席に座りなおすと、「お嬢ちゃん」と情けない声で呼び掛ける。
「結婚してないぞ、俺は」
「婚姻契約の有無は問題ではありません。紙一枚の出す出さないについてわたくしにはとりたてて興味がない。問題は関係性についての部分です」
「……そうだな。それは、うん。そうなんだけど、俺に現在付き合っている相手はいないし、それっぽい関係の奴もいない。スマホ、見るか?」
……この男、スマホを見せられるだと? 思わぬ強みに舌を巻く僕の対面で、彼は王のほうじっと情けなく見つめている。目も合わないのに。
「ほんとうに、いないの?」
「いたら口説かないだろう」
「いても口説く人はいますよ」
ドキリとする僕に視線を向けないまま、ハリエットはただそっと中指を立てた。特に異論はない。僕にはクソ野郎の自覚がある。
「俺は違う。絶対に」
「じゃあ、ちゃんと証明して」
「……今から口説くから、こっち向いてくれ」
なんなんだ。僕はなにを見せつけられているんだ。しかしここまで切実なやりとりを見せられて続きが気にならない視聴者はいないだろう。現に、フードコートで焼き麺やらインドカレーやらを食べているオーディエンスはちらちらとこちらを気にしていた。その気持ちは大いに理解できるが、この、スクリーン真ん前のド迫力席に陣取ってしまった僕の気持ちなど誰ひとり汲んではくれないだろう。今この場で、僕だけが孤独だった。
王は躊躇いがちにハリエットに向き直り、むくれた顔で彼を見つめている。思わず可愛いなと思ってしまうほどその表情はナチュラルで、僕ではなかなかお目に掛れない類のものであることはすぐに察した。
「……怒ってる?」
彼の手が、王の頬にやわらかく触れる。
「おこってません」
「淋しくなった?」
「さみしくありません」
「俺のこと、嫌いになった?」
「なってません」
じゃあ聞いてくれ、と彼は吐息だけで訴えると、薔薇色の頬に触れていた手をゆっくり下ろして、今度は王の手を握った。そして大きく深呼吸。まるで一世一代の大勝負みたいに、吸った空気を喉に留めて、押し出して。また軽く吸って。そして。
「……ウォーエーノン」
その言葉が発せられた瞬間、すべてが沈黙した。僕もオーディエンスもハリエットも呼び込みの声も調理の音も店内BGMも。王だけがその表情筋をにこりと動かして、彼の頬を引き寄せると、くちびるにキスをした。
「しかたのないひと。わたくし、大閘蟹が食べたいです」
大閘蟹とは、いわゆる上海蟹だ。
唐突に、ハリエットが立ち上がった。そして「後の買い物は頼む。先に部屋に戻っててくれ」と言うので焦って僕も立ち上がろうとすると、
「なんとしてでも大閘蟹を用意する」
と言って彼はひとり走って行ってしまった。そんな彼にオーディエンスからまばらに拍手が送られ、王はニコニコ笑顔でその背に手を振っている。僕は一体どうしたらいいのかと半ば虚脱状態に陥っていると、こちらに向き直った王が、残りの焼き小籠包の入った紙箱をぐいと押し付けてきた。それを受け取って、幾らか冷めたであろうそれを口に運べば、意外なことにもまだ熱い。
「……すごいこと言われちゃったね」
王がちゅうとストローで吸っていたドリンクのプラカップを奪って飲む。謎の甘い茶だ。
「すごいですか?」
「そりゃあね。で、どうするの。あそこまで言わせて」
「そんなに大層なことは言っていないでしょう。所詮、遊びなのですから」
その言葉に顔を上げると、王はいつも通りの笑顔で僕を見つめていた。蛋白石の発する偏光と酷似した虹色の睛は、ただただ穏やかにフロアのネオンを映してくるくるときらめいている。
「遊び……じゃないと、思うけど」
感じたままを伝えてみるが、目の前の笑顔は寸分たりとも崩れない。
「ふふ。ホリデーコフレ、バッグ、冷蔵庫……大閘蟹」
歌うように呟いて、王は立ち上がった。その瞬間、閉店十五分前を告げるアナウンスが館内に響き渡る。
買い物を済ませてホテルに戻ると、まだハリエットは着いていないようだった。既に部屋に運び込まれていた荷物を軽く整理しながら、王に「お風呂入っちゃいなよ」と促せば、すぐにシャワーの水音が聞こえてくる。
ひとりきりの居室の齎す静寂の残響のなか、スマホに目を落とせば、花園という名のメイドからのメッセージ通知がピンク色に光っていた。タップする。「友達とうちでご飯してる!」と、その友人と撮ったらしい自撮りが。可愛いすっぴん。ナチュラルな魅力。でも装った部分もあるはずで。きっと、私服とかポリエステル。プチプラのコスメも嫌いじゃなさそう。友達に会うときはちょっとした手土産を欠かさないタイプ。オンナノコから好かれる系オンナノコ。歳はいくつだろうか。バトのところの従業員なら同族の可能性が高いが、それでもかなり若い個体のようにみえる。肉体や精神の成長速度は種によって違うので判別は難しいものの、うちの新人エージェントであるゾエと同じように二十代かもしれない。そんな、テクスチャ。……匂い肌髪眼差し。
ネームバーをぐっと長押し。あらわれる、通知オフ。削除。ブロック。……ブロックに指を翳して、笑ってしまう。鼻で。軽蔑するかのように。ヤリ逃げという言葉が脳内でちかちかとEXIT看板のように明滅する。今ならスムーズにヤリ逃げられるのだからこんなに幸運なことはない。
「ラドレ」
ふと真後ろに声を感じて振り返る。そこにはバスタオルを頭からかぶった王の姿。
「替えの下着はどこですか?」
王は身体を拭くのがいつもおざなりだ。真白い肌が瑞々しく弾く水滴が、ころころと薄い肉体を這って落ちていく。きらきら、ころころ。転がるから、眩しい。
「ああ、ごめん……出すのが遅れちゃったね」
スマホの画面を落としてソファに放る。王の手を引いてベッドに座らせ、そのまま押し倒す。組み敷いた裸体は紛れもなく飾らない実体であるはずなのに、ナチュラルかどうかを疑ってしまう。つまり、ナチュラルではないとどこかで確信してしまっているのだ。本質に触れたいとこんなにも願っているのに王は素知らぬ顔ですべてを秘匿している。と、いう、虚妄。王は常に僕に対して好き勝手させてくれているのに、ぜんぶ触らせて、すべて受け容れてくれているのに、僕はどうしてかずっとさみしかった。僕がさみしいのに、王はさみしくない。さみしくなってくれない。一個と一個で、二個ここにある肉体。個々という概念。溶け合わないのは事実だからせめておんなじさみしさを共有したいのに。どうしてさみしくないのかあなたはおなじだけさみしがってくれないのかあのひとが。死んだのに。
虚妄だとしても僕の肉体に感じる具合の悪さはすべて本物だった。
声が聞きたいとか言ってみせてよ。ホリデーコフレが欲しいとか漏らしてよ。そんなつもりじゃないって贈り物を断ってよ。しょうもないことで自分を卑下してみせてよ。もっとイキモノみたいにカワイイとこみせてよ。
ひとりのときもそうやって笑ってるの?
「これはなんですか? 飲んでいいの?」
「これはフィンガーボウルみたいなもんだな。魚介類を手で食べる店だと出てくる」
「飲んでもいいってこと?」
「なんでそうなる。飲むならこっちにしてくれ……って、あああ」
ふたりぶんの話し声が聞こえる。ベッドから身体を起こして居室の隅、水回り寄りにあるキッチンスペースに顔を出すと、王がごくごくと喉を鳴らしながら傾けている大椀を、なんとか取り上げようと四苦八苦しているハリエットがこちらを振り返った。髪を下ろしているその姿は幾らかリラックスしているように見えたが、彼は僕を見ると一変して顔を顰め、「服着ろ」と短く指摘してきた。その気不味そうな視線に倣って見下ろした僕の肉体は確かにナチュラル。一旦引っ込んで下着だけを身につけて戻ると「足りねえよ!」と怒られた。
「ごめ、寝起きダメなタイプ……」
メンタル由来の吐き気を堪えながらソファに腰を下ろすと、目の前のテーブルにお茶とレモンの入った大椀が置かれる。「飲んでいいの?」「よくねえよ。なんなんだよお前らは」そうぴしゃりと言い放った彼の手からなにか投げ渡されたので掴んでみると、それは炭酸水だった。吹きこぼれないように少し待ってから開封し、一気に半量ほど飲む。彼が割り物として買ってきたであろうそれはレモン風味だった。
「一時間二時間でもあれば即ヤるんだな。発情期か?」
「うん、そう。発情期」
適当に返しながら、王に「ね?」と同意を求めれば「むーん?」と上の空。どうやら加熱中の電子レンジの中を覗き込むことに夢中らしい。まだ完了のベルは鳴らないのに扉を開けて中身に手を翳し、首を傾げてまた再加熱をしている。
「お嬢ちゃん、あんまりパカパカ開けないでくれ」
「あとちょっとが、待てないのです」
「いま頑張ってるから。電子レンジさんが。そっとしておいてやってくれ」
「仕事を頑張っているときのラドレみたいですね。わたくし、ソットシテオク、得意です」
「得意か。偉いな。じゃあ今のうちにこれをテーブルに運んでくれ。転ばないようにな」
薄々感じていたことだが、この男は王の扱いが上手い。寝起きでぼんやりと鈍い思考に任せて「キミ、子どもいるの」と問うが「見当違いにもほどがあるぞ」と鼻で笑われる。すると王はさっきの茶番を思い出したのか、手にしていた皿を乱暴にテーブルに置くと、「ご祝儀!」と弾けるような声を上げ、飾り棚の上に置いていた自らのポシェットに飛びついて中から取り出したものを僕に渡してくれた。それは白兎のキャラクターが描かれたミルク味の袋キャンディーで、ご祝儀と銘打ったくせ封が切られている。
「食べちゃってんじゃん」
笑いながら一粒取り出し、口に放り込む。クリーミーな口当たりと濃厚な甘さで、幾らか目が覚めたような気がした。
「いっこ、ください」
そう言って僕の隣に腰を下ろした王が、パーの手を突き出してくる。
「あっ、にこ、ください」
「もー。仕方ないですねえ」
その手のひらの上に二粒のキャンディーを落としてやるものの、王はその手を握らない。どうせ剥いてくれだだのと我が儘を言うのだろうと待ち構えていれば、案の定、
「うち、いっこ、口に入れてください」
と王は牙を見せる。
「はいはい」
フィルムを剥がし、そのちいさな口のなかに押し込んでやれば、王はニコニコ笑顔で「むふん」と得意げだ。下まぶたをにゅっと持ち上げるその動きの可愛らしさに、もうなんでもゆるしたいという、いつも結果薄弱な祈りが湧いて出る。
「もう、いっこ、ハリエットさんの口に入れてあげてください」
「はいはい。ハリエットくんおいでー」
手招きをすると、ハリエットは案外素直に傍に寄ってきてくれたので、王の指示どおりにキャンディを剥いて、屈んだ彼の口に放り込んでやった。そのとき。彼の舌になにか紋様のような青黒い図柄が見て取れて、ついその顎を引き寄せてしまう。そして顔を顰めて状態を逸らそうとする彼の側頭部……耳の辺りを手で掴んで「なにそれ」と問う。「刺青?」
すると彼は口をぎゅっと引き結んだかと思えば、僕の肩を強く押し除けた。その力加減に容赦はなく、僕は裸の肩をソファの背凭れに勢いよく叩き付けられてしまう。痛かったが、声には出なかった。ソファがカーペットごとずれた。すぐに王が「ハリエットさん」と彼の名を呼んだのは、流石に僕の身を案じてくれたからだと信じたいが、どうだろうか。僕が王と同じくその挙動の思わぬ手荒さに目を剥いていると、彼は小さな声で「悪い」と謝ってくれたので、二重に驚いてしまう。……電子レンジの発するあたため完了のベルがやけに遠く聞こえた。
「いいよ。こっちこそごめん」王が不安げに僕の胸に飛び込んでくるのを抱き留める。「セクシーだと思ってさ」と肩を竦め、敵意がないことをアピールして、彼の次の言葉を待った。だが彼はなにも言う気がないというか、言えなくなってしまったらしく、閉じた目元に皺を寄せたまま額を押さえて黙り込んでしまった。どうやら僕は、彼の触れられたくない部分に踏み込んでしまったようである。だがしかし、彼は僕に対して気を悪くしたというわけでもないことはその無言のニュアンスから察することができた。
「……言い訳、いいか」
長い沈黙のあと、ハリエットは口を開いた。控えめに。
「どうぞ」
僕は頷く。
「キスされると思って」
嘘だ。
「するわけないでしょうが!」
嘘笑いで返す。
「ごめん。かっこよくて」
驚かせたことを謝りたいのか、そう言ってハリエットはソファに腰を下ろすと、僕の胸に顔を押し付けている王の頭を撫でた。だが床に膝をついて僕の腹に身を乗り上げて抱きついている王は、むんともむふんとも言わない。
「それ、僕の前でよく言えるね? 社員たちから顔面兵器と呼ばれ慕われている僕に」
僕もまだ顔を上げずにいる王の頭を撫で回してみる。しかしふたりにわしゃわしゃと愛でられても王は僕にくっついたままだ。余程びっくりしたらしい。腹に回された王の手が何度もきゅうきゅうと切ない圧力をかけてくる。
「それたぶん褒め言葉じゃないぞ」
「うるさいな。ね、王。僕のほうがかっこいいよね?」
王の白い頬を指でつつきながらそう訊ねてみるが、返事はない。僕はなんともないし、ハリエットだっていつもの調子に戻っているというのに、どうしたのだろうか。明らかに拒絶を意味するその態度に耐えかねたらしいハリエットが「お嬢ちゃん、ごめんな」と謝罪を口にすると、ようやく王は僕の胸から顔を上げた。
「ラドレに乱暴しないで……」
どうやら驚いたのではなく、本当に僕のことが心配で憤っていたらしい。立ち上がった王は、今度はハリエットの膝に勢いよく座ると、彼の胸をちいさな拳で叩き始めた。感情のままにしている行為なのだろうが、力加減はきっちりしているらしく、ハリエットは痛がる素振りなく眉尻を大幅に下げて王の顔を覗き込んでいる。
「叩いたり押したりはだめ。パンチもだめ。キックもだめ」
そう禁止事項を並べ立てる声は、意外なほどか細い。
「……わかったよ。喧嘩は?」
「ケンカはいいです。一方的なのはだめ。騎士道精神に則ってください。サシでやろうやって言ってからにして」
サシでやろうや、の部分は低い声だ。
「それ、騎士なのか?」
「道を分かつことになった兄弟……かたや腕っぷしで成り上がった武闘派組織の若頭、かたや順調に出世ルートを歩むその兄貴分……かつて一緒にテッペン目指そうやと誓ったはずなのにどうして」
一緒にテッペン目指そうや、の部分は低い声だ。
「お前、なに覚えさせてんだよ」
僕に流れ弾が飛んできたが、「勝手に覚えたんだよ」と返して立ち上がる。「シャワー浴びてくる」
「すぐ出てこいよ。五分だ」
「はいはい」
適当に返事をして、バスルームへ。僕が起きるより前にハリエットが使ったのか、中の空気は生温く、それがちょっと不快だ。いい香りがするのが特に。野郎の次の風呂は勘弁……と軽薄に思ってみたりしながら、熱めに設定したシャワーを頭からかぶった瞬間に、残り香が気にならなくなるのを感じる。もう思い出せない、クチナシと苺のブレンデッド。だが思い出したことがひとつ。いや、思い出したというよりは曖昧な感覚だろうか。
そう、僕はアレに見覚えがある。……舌の上の刻印。アレは刺青なんかじゃない。呪いだ。
TO:ベスビアス
舌に刻印のある呪いについて調べて。
Re:顧問料いただけます?
「勘弁してくれよ……」
【LDRさんが特殊清掃事業部に入金しました】
Re:結構。では後ほど。
「どいつもこいつも僕のことナメてるよな……」
だがしかし、ビジネスにおけるナメられは大切だ。ある程度チョロくて可愛いと相手に思わせているだけで通る提案なんてごまんとある。
ドライヤーのスイッチを入れたところで、遠くから「五分経過!」とハリエットの呼び声がした。身銭を切らせておいてその態度はなんだ……と言ってやりたいが、口を噤んで洗面所を後にする。僕が勝手に身銭を切っているだけだ。
王とハリエットはこの五分で仲直りしたのか、非常に遺憾なことにもいちゃいちゃしながら晩餐の用意を続けていた。というよりハリエットが一方的に王の腰を抱いたり旋毛にキスをしたりしているだけで、王は縮こまって頬を赤くしているのみなのだが、もうご立腹ではないことは確かだ。その姿に思わず「イケメン無罪?」と投げ掛ければ、ハリエットから「お前がそのツラってだけで許されたことあんのか?」とぶっきらぼうな返事があった。
「あるねえ」……ヤリ逃げとか。
「そうか。俺はない」
「確かに、さっきも許されてなかったしね」
「本当になんでも許されんならそのツラ大事にしろよ。俺にボコボコにされないようにな」
「でもキミ、僕のことパンチキックできないじゃん」
「タイマンならいいってお嬢ちゃんは言ってたぞ。その場合はツラからいくから覚悟しとけ」
そんな会話をしていると、王が僕とハリエットの間に立って渋い顔で唸りはじめたので、慌てて「ごめんね」と縋りつく。その声に一抹の必死さを滲ませたのは、いま唸ったのが王の声帯ではなく終体だったからだ。アレが出てくると僕では王を止められなくなる。一本では蠍のような王の生殖器兼武器は、実は孔雀の尾羽のように複数生やすことができるうえに一本一本が意思を持っているような挙動をするので、敵意を向けられれば聖剣魔剣の一本二本ではどうにもならない。だから、出させないに越したことはない。僕が王の婚活に乗り気になれないのも、可能な限りひとりきりになってほしくないのも、それを考慮してのことだ。
王の膨れた頬を揉んでいると、ハリエットが「できたぞ」と言って蒸し器と思しき調理器具の蓋を開けた。さっきから麦芽のような香りがしていると思っていたが、彼は大閘蟹をビール蒸しにしていたらしい。使い捨てのビニール手袋をした手が縛られた蟹を取り上げて見せてくれる。
「ホテルで蟹蒸す人いる?」
言いながら彼に近寄って蒸し器を覗き込む。生姜とビールに蒸されて赤くなった蟹が計六杯。中々に景気が良い。
「メスとオス三杯ずつだ。市場が閉まってたから飲食店で下処理済みのを譲って貰った」
「わあ、ご苦労様。オスは食べたことないかも」
「このぐらいの時期から出回るそうだ。味噌と身肉が美味くなってくるから」
そう説明したハリエットが、蟹を縛っていた紐を丁寧に外していく。その作業を眺めていると、「手伝えよ」と目の前に蟹を突き出されたので、僕も渋々と手袋を嵌めた。ふたり並んで蟹から紐を解き、皿に乗せていく。そのさまを王が「なかよしこよしですね」と嬉しそうに評価するので、一瞬彼と目が合ったのち、「そうだよお。マブダチだよお」と思ってもないことを口にしてみれば、彼も不服そうに「ダチっす」と僕に倣った。
「ちゅう、して」
突如、王がそんなことを言う。僕とハリエットが同時に蟹と手袋をどうするか悩み始め、手元を慌てさせるなか、王は「はやく」と微笑んで雰囲気の主導権を握り始める。このままではハリエットに先を越されてしまうぞと、僕は咄嗟に「王、ちゅうしてあげるからこっち来て」と傍に寄るように促すが、王は「ちがいます。おまえたちがするのです」と身体を傾けて腕を組む。
「なんて?」「はあ?」認識の遅延が重なった。
「なかよしこよしはちゅうをする。これはおまえが言っていたことです。なかよしだからちゅうしようねって」
その瞬間、ハリエットが軽蔑の眼差しを僕に向けてくるのを、そっぽを向いて躱す。どこからどこまで王に箝口令を布けばいいのか、もう僕にはわからない。
「王……ええと、なかよしでもちゅうしないこともあるよ……?」
「どうして?」王の目はまっすぐだ。
「その……友だちどうしは、そんなにちゅうをしないというか。ちゅうするのはレアケースというか」
「こことここがしない理由は? おまえたちはなかよしでしょう。手を繋いだり視線で睦みあったり番の真似事をしたりしているではありませんか」
それはうっかり手を掴んだのとアイコンタクトとマジの茶番だ。
「あー……うーん……ごめん、ハリエット、バトンタッチ」
一抜けのつもりで手袋を外し、蟹の乗った皿を持って移動する。そして皿をテーブルの中央に置き、ちらりとふたりの様子を窺えば、両手を挙げているハリエットの胸に人差し指を突きつけた王が「なぜなぜ期なので!」と詰め寄っていた。
「ブロマンスはちゅうしないんだ……!」そんな焦った声がする。
「出ましたね、ブロマンスはちゅうしない派!」
「なんなんだ、しない派もなにもそれしかないだろう……!」
ハリエットの戸惑っている姿は、面白い。あとで弊社のオタク社員に厳重注意をしておこうと心に決めて、手を叩いて「そろそろ食べようよ」と声を張る。
「この勝負、預けたぜ」
チャージャーでも取りに行くのだろうか、そう低く言って王が別室へと駆けていく背中を見送り、疲弊しているであろうハリエットを振り返ると、彼は部屋の隅に置かれたバックパックから酒瓶を取り出したところだった。「それが?」「ああ。アンダーソンのコレクションから強奪してきた」「わあ、親不孝」「こっちは高えウイスキー買わされてんだ。イーブンだろ」僕の向かいの椅子に腰を下ろし、彼は陶製のそれを置く。そしてグラスの有無を問われたので、「あるんじゃない?」とキッチンを振り返ったところで、王が戻ってきた。その胸元にはなにやら箱のようなものが抱えられている。
「あの、これはご祝儀ではないのですが」
そう言って王がテーブルの上に箱を置くので、ハリエットとふたり身を乗り出して覗き込むと、王の手によって蓋が開けられた。次いでベロア素材の厳かな内蓋も解き放たれたその奥には、金細工の脚がついた酒杯が三つ。
「おまえたちにひとつずつ贈ります」
「え、いつ買ったの?」
「んふふ。秘密です」
悪戯な笑みを浮かべて、王は杯部分の底に紫色の塗りが施されているものを僕に、青い塗りのものをハリエットに手渡した。ご丁寧にも小分けの巾着を添えて。
「ありがとう……嬉しいよ」
突然の贈り物に、つい大人しくなってしまう。恐る恐るその酒器の表面に指を滑らせると、感触からして水晶であることが窺えた。そして、塗りだと思っていた部分の色味はどうやら削られた水晶の中に別の石が閉じ込められている仕掛けによるもので、思わず顔を上げて王の少し照れたような横顔を盗み見てしまう。これはかなり高価なものだ。その趣味の良さに舌を巻きながらも「こんなものを意味なく贈るはずがない」と考えてしまうのは、きっと深読みではない。王が僕たちそれぞれに抱いている感情については未だ不透明だが、『僕たちふたり』という括りを、王は大切に思ってくれているのだ。突き抜けるほどの単純明快さで以て、『ちゅうするほど』仲良くしていてほしいと切に願っているのだ。つまりたぶんきっと、王は別離を恐れている。僕と同じように。
「ありがとう、大切にする」
そう礼を言ったハリエットが抜け目なく王の頬にキスしたのを見て、僕も負けじとその反対側にキスをすれば、王は「ふへんへ」と得意げに、子どもっぽく、笑った。
「デカンタがなくて申し訳ないのですが」
「いいよ。じゅうぶんだよ。早速これで飲もう」
三つの酒杯を軽く洗って、ボトルから直に酒を注ぐ。
「よし。じゃあ、乾杯。お疲れ」
三人、酒杯を寄せ、一年を労う。とりあえずは礼儀かと一気に飲み干す。呻きたくなるほどの度数に片目を瞑り、腹に落ちた液体の熱さに僕が身体を強張らせて堪えている間にも、ふたりはパカパカと軽やかに二杯目三杯目を飲み干して、その香りのよさや余韻についてコメントし合っている。まったく、信じられない。
「まずは蟹を食べて殻をまとめちゃおっか」
流石に客室に匂いが染みつくのはホテル側に申し訳ないのでそう提案すると、王が真っ先に蟹を鷲掴みにしようとしたので慌てて制止する。「僕が剥いてあげるからおいで」と王を膝に座らせて、手にした雌の蟹の甲羅を外した。そして僕が蟹を解体している様子をじっと見つめていた王が「人体はどこが甲羅ですか?」と物騒なことを言い始めたので、その口を塞ぐために味噌を押し込んでやる。すると王はしばらくむんむん呻いていたが、やがてふたくちめを求めるかのように「あ」と口を開けた。
「はいはいハオチ―だねえ。ハリエットにお礼言いなさい」
「ええと、シュ……シャヤノン。です。ハリエットさん」
「ファカチー。たくさん食べろ。俺のもやるから」
直には触りたくないのか、ハリエットはまた使い捨て手袋を嵌めて蟹を解体している。彼が手にしているのは雄の蟹らしく、器用に白子を取り出し指に乗せると、テーブル越しに王の口元に寄せてくる。それをちゅっと吸った王は、直後ニコニコしながら酒を飲んで「ぷは」と景気のいい吐息を漏らした。
「いいご身分ですねえ」
「わたくし、王なので」
「そうですね、陛下」
「ふふ。我が騎士ラドレよ。こっちの蟹も剥くといい」
そんな無邪気で我が儘な姿に目を細める。当時からこうして甘えてくれればよかったのに、王は玉座を降りてからのほうが、明らかに僕に懐いていた。その理由については、大方見当はついている。
「はいはい、僕の可愛い陛下」
もう王の統治する国はない。今あの国が誰の治世なのか、はたまた民主主義国にでもなったのか、すべての詳細を僕は知りたくもない。家族が生きているのかどうか。同僚の誰が生きていて、誰が死んでいるのか。興味はない。ただ、あの人の墓がどうなっているのか、それだけを時折夢想する。
僕がなにかと自分に対する理由をつけて訪れていたあの場所には、いつも花冠が捧げられていた。いつも先に王が来ていた。一緒に会いに行こうと誘ってくれてもいいのに、王はその痕跡だけを墓碑に乗せて僕を誘わなかった。今ならその理由がわかる。王はひとりだけであの人を愛したかったのだ。そして、もうひとつの理由を思うと僕は未だに足の竦む思いがする。僕の人生最大の汚点と言ってもいいあの行為は、今も精神の枷として僕を呪いつづけている。……比喩として。ハリエットのように、僕は実際に呪われているわけでもない。王が僕を呪ってはくれなかったからだ。
『陛下に毒を盛るんだ、ラドレ』
僕は父にそう命じられていた。
「人間界には茶を喫するという文化があるそうですよ」
そう言って僕は侍女のいないことを利用して、自らの手で王に毒入りの紅茶を飲ませ続けた。王に生贄以外の食事をするという習性がなかったことが幸いして、王は味についてなんの文句もつけなかったし、ばれていないと思っていた。
……墓碑の花冠が、徐々にそのかたちを崩していった。最初のほうは綺麗に編まれていたそれは、日を追うごとに乱れ、結いつけが甘くなり、そしてしまいには編むことを諦めたのか花束が置かれるようになった。立ち尽くす僕の目の前で、風に飛ばされていく花々。冠として誂えられていたのなら飛ばされることもなかっただろうに。王はそれでも僕の淹れた紅茶を飲み続けた。そのさまを観察し続けた僕は確信していた。我が王はすべてを知っている。いや、端から知っていたのだ。だから僕に必要以上に近づくことなく、話しかけてくることすらなかったのだ。僕はそれをぎりぎりまで察知することなく、そして気づいた頃にはなにもかも手遅れだった。
そんな王が、僕の手からものを食べてくれている。もっともっとと無防備に口をあけて。あのときのことなんてすべて忘れたかのように。こんな幸福。殺り、逃げ。僕は、狡い。あんなことをされたのに、王は僕を呪ってくれなかった。だから僕が僕を呪うしかない。破滅願望に包まれたまま、どこまでも転がり落ちていくべきだと、大真面目に考えている。
「む。それ以上はハリエットさんの分がなくなってしまいます」
「いいんだよ。俺のものはキミのものだ」
「どこからどこまで?」
「どこまでも」
そんな会話をするふたりを眺め、心底羨ましく思っては密かに涙の予感を鼻から吸い込む。僕がいくらこの身を切り売りしたところで、もう王に償えない。王は、僕のことを怒っていないからだ。腰に手を当て、頬を膨らませ、眉根をぎゅっと寄せていたとて、王はさらさら怒っていないのだ。だから、謝罪すら許されない。
「むうん。みんなで食べたいのですが……」
王がそんなことを言ってしょぼくれたのを見て、僕とハリエットが同時に半分に割った蟹の味噌部分に齧り付いた。それの意味するところが『ウォーエーノン』であることに、王は気づいているのだろうか。……彼と目が合う。睨み合う。今こうやって愛を競っていることは、切ないよりも心地好い。遠回しに赦罪されているかのように錯覚できるからだ。
解き明かせない其の肉体と思考。しかしこの罪人にも解き明かす機会を与えられている、キミのミステリ。
「やっぱ美味いな、上海蟹」呟いて、殻を捨てる。
「いい値段するだけあるな」ハリエットもそう言って、殻を捨てる。
「紹興酒かなって思ったけど、白酒も合いそうだね。王、ちょっとお酒飲ませて」
すると王は、「これはもうダメです!」と険しい顔をして酒のボトルを抱きかかえた。どうやら僕が酔っ払うことを懸念しているらしい。
「大丈夫だよ、あと一杯くらい」
「いいや、ダメだな。ちょっと待ってろ」
唐突にハリエットが手袋を捨てて立ち上がった。蟹を啜りながらその姿を目で追っていると、彼はさっき僕が空にした炭酸水のペットボトルに何かを入れ、それと冷蔵庫から取り出した新しい炭酸水、それから氷を入れたグラスを手に戻ってきた。
「なにこれ、唐辛子?」
洗われたペットボトルの中に詰まっているもののなかで目視で名称を確認できたのはそれだけだった。
「唐辛子、山椒、花椒だな」
言いながら彼はその中に白酒をいくらか注ぎ入れ、蓋をすると上下に振り始めた。「漬け置きたいところだが、まあ急だし、お前の分だし」……途中、幾分かの殺意を込めたのではないのかと思しき強さのシェイクが挟まったが、見なかったことにする。そして氷の入ったグラスに少しだけ注がれ、あとは炭酸水がゆっくりと。締めくくりに軽くステアされたそれが、僕の前に置かれる。
「え、なにこれ美味しそう」
片手を茶で濯いでからグラスを持ち上げ、鼻を寄せればスパイシーな第一印象のあとに爽やかな果実の香りがする。「飲んでみろ」と促され、ひとくち。ピリッと辛く、しかし余韻はじんわりと甘い。そしてキンキンに冷えているのに、熱い。
「うまー。なに、キミってお酒の天才?」
「これもアンダーソンの受け売り。今度あのジジイに飯連れてって貰え。蘊蓄と小技ばっかでウザいぞ」
「ちゃんと褒めてあげなって」
「お前はあとはそれだけ飲んでろ。こっちは俺たちで空ける」
王もうんうんと頷いている。ふたりはなにやら僕に量を飲ませないようにしているらしく、念には念を押すつもりなのかテーブルの下をボトルの定位置としたようだった。それが面白くはないものの、剥いて口に運んだ熟酔沼蝦が想像よりずっと美味いので機嫌を良くする。まず、紹興酒の香りがよい。加えてこの店のレシピだと漬けダレにレモンが入っているらしく、それが花椒と八角の風味とよくマッチしていた。王も白斬鶏を口に運んで、「んん!」と目を輝かせて喜んでいるようなので、「あーんして」と強請れば、乱れた箸さばきで口に捻じ込まれた。刺突された歯茎が痛い。が、美味い。醤油ソースにはネギが効いており、肉はゼラチン質な口当たりで、柔らかくも歯応えが小気味よく、つるりと喉の奥に滑り落ちていってしまう。
「これは油面筋塞肉か?」
小皿にゴルフボール大の肉惣菜を取ったハリエットにそう問われ、「確かそんな名前」と答える。これはハリエットと別行動になってから買ったもので、見た目が美味しそうという理由だけで購入を決めたのだ。字面からして肉詰めの油麩だろうか、ハリエットが箸でその薄茶色をしたかたまりを割ると、とろみのある餡の上に肉汁がじゅわりと広がった。
「これ、好きなんだよな」
それを口に運んだハリエットが、そんなことを漏らす。
「ならよかった。いやー、本当に上海語は広東語を入れててもわからないね。上海語インストールしとこうかな」
「こっちに遊びにくることが多いならそのほうがいいかもな。意地でも上海語しか話さない人間も多いんだ。でも外国人には結構優しいから、英語しか話せない感じでいくと上手くいったりする」
そんなティップスに、へえと頷いて感心している僕の横で、王は細切り食材の炒め物を食べている。醤油色の濃いそれは、響油膳絲という名前だったはずだ。字面ではなんなのかが一切窺い知れなかったので試してみるつもりで買おうとしたところ、なにやら店員に大プッシュされたことは憶えている。醤油とごま油の香りが食欲をそそるが、やっぱり見た目でもなんなのかわからない。
「それ、なんだった?」と王に問えば、王も首を傾げる。ハリエットに視線を向けると「タウナギだな。タウナギとマコモダケの上海風炒め」と的確に返された。
「ああ、どうりで」
なにやら店員が「今夜に備えて」的なことを言っていたのだ。精がつくものだと婉曲に表現したかったのだろう。
「はい、ハリエットさん、あーん」
スプーンで掬ったその炒め物を、王はハリエットの口元に運ぶが、彼は少し嫌がっている様子だ。「嫌いなの?」と問えば、「黒い」と端的な返事があったので、つい笑ってしまう。
「いるよね、黒いもの食べられない人。なんなの?」
「食べ物の色じゃないだろ」
その凛々しい太眉が細かく痙攣しているところからして、彼は心から躊躇しているのだ。好きな子からの「あーん」という大イベントを前にしてもそうなるのだから、余程である。
「コーヒー飲んでるのに?」
「飲み物は違うだろうが」
「主観でしかねえー」
鼻で笑ってやると、彼は王の差し出すスプーンを避けながら僕を指差した。
「好き嫌いなんてみんな主観だろ……わかった、お嬢ちゃん、食うから。食うからちょっと待ってくれ。ちょっと置こう。な?」
しかし威勢がよかったのは最初だけ。王のしつこい「あーん」に疲弊したのか、彼は王の手首を素早く捕まえると、そのスプーンを奪って王の口に押し込んだ。すると王は咀嚼しながらも「あーん返し」に照れてしまったらしく、平静を装いながらも元気に目を泳がせていた。先ほどは冷徹さの片鱗を僕に見せていたくせ、矛盾している。だが、矛盾こそが人間である。王が人間ナイズされていくさまは、快い。
「どうせあとでワクワク子作りタイムを設けろとか言うんでしょ? 精がつくんだから食べておきなよ」
「まあ、それはそうなんだが……」
白酒ハイボールの二杯目を作りながら、そうハリエットに勧めると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で箸をその炒め物の上で泳がせ始めた。これを行儀が悪いとするのは、確か日本の文化だっただろうか。
「そのあとドキドキお預け解放タイムがあるんですよね?」
「そのきっしょい名前のイベントについては知らん」
「きしょくはないでしょうが。神聖なる儀式ですよ気持ちはいつも」
「きしょいも主観だから。確かに俺の中にある感情だから。あと、お預けはされてないだろこの光源氏め。毎食ヘビでも食ってんのか? それとも赤マムシ常飲してんのか? 元気すぎるだろ」
「いやあ、これぐらいじゃないと王のこと満足させられないんだよ知ってた? アッハ、知らないかあ。にわかだもんねえ」
「お前があまりにもしつこいから数打たせとけば大人しくなるって魂胆なんだろお嬢ちゃんは」
「数打たせとけってのは数が打てるって前提の上で成り立っていますよね? キミは平均何回ですか? 少ない王とのベッドイン経験かき集めて答えろやコラ」
「その腐った自信は数打つのが良いって偏見の元で成り立ってるから是正しろ」
言うまでもなく、僕とハリエットはこれをただのじゃれあいと認識してただただ口を動かし酒の肴としているだけなのだが、このままだと王に「ステイ!」と叱咤されてしまう可能性がある。或いは「またやってんなこいつらは」と呆れられるかだ。彼とアイコンタクトをして「そろそろ仲良しムーブを挟もう」と合意し、王の座っていた席に視線を向けるが、そこにその姿はなかった。
「あれ、またお風呂?」
「音はしないが……」
立ち上がり、ふたりして王の姿を探す。すると奥の寝室のライティングデスクの前に王が座っているのを見つけたので、風呂場を覗き込んでいたハリエットを振り返り手招きする。王はドレッサーと一体になった仕様のデスクの、その鏡の前であの人のピアスケースを開けて「兄様あのね」と語りかけていた。その切ない逢瀬を邪魔するわけにもゆかず、大男ふたりして、ドアに張り付いて耳を澄ませる。王は鏡にあどけない笑顔をうつして、今日のできごとを報告している最中らしく、「いまね、お酒を飲んでいるの。兄様はお酒、飲んだことないでしょ。うふふ」と双子の兄よりずっと年長になってしまったことをさびしげに、しかし明るく、伝えていた。その手にはあの真新しい酒杯が輝いていて、その瞬間、あれは王のものではなく、あの人のために用意したものなのだと察する。じゃあもうひとつ買わないと駄目だろうと、どうしようもないほどくやしくなって目を細めていると、ハリエットが僕の肩を無言で殴った。泣くな。吐息だけでそう言われて、泣いてないよ、と同じだけの吐息で応じる。
「あ、きょうはね。あたらしい言葉を教えてもらったの」
んふふ、と王は得意げに笑う。ひとりのときでも、きれいに。
「ウォー、エー、ノン。わかる? あいしてるって、意味……あいしてるって、たぶん、きれいな星があすこにあるよって教えてあげたい気持ちのこと……。だから、兄様。ウォーエーノン。……ふふ。兄様のところでも、星は見えるのかしら。きっと夢の中で、あの子が星を指さしに行くよ」
ハリエットは、もう泣くなとは言わなかった。音を立てるな、と言葉を変えた。僕たちふたりははウォーエーノン争奪戦に、敗けた。
「無理だよお」
えっえっ、としゃくりあげてしまうと、はっとした様子で王が振り返った。「おまえたち」と目を丸くして、そのままこちらに歩いてくると、「ハリエットさん! またこの子に深酒をさせましたね!」と再び彼の胸を両手で作ったちいさなこぶしで叩き始めた。
「ごめん、ごめんお嬢ちゃん。俺の不徳の致すところだ」
「もう、だめって言ったでしょ。ベロベロエンエンになっちゃうんだから……」
「ベロベロエンエンってなにー……」
すると彼らは顔を見合わせてまた笑いはじめたので、悔しくてふたりまとめて肩を抱いて、ベッドにダイブする。一番乗りでもなんでもないのにその感触はちょっと愉快で、笑いそうになったが、出てくるのは涙だけだった。
「ちょ、位置が悪い位置が」
そう言って、ハリエットは僕を挟んで反対側にいる王の手を引く。「キミが真ん中じゃないと許容できない」と、必死な様子だ。すると王は「出ましたね、ブロマンス一緒に寝ない派!」と言って、僕の身体の上を通ってハリエットの首を締めにかかった。「ちゅうしたり一緒に寝たりしたらそれはもうBLだろ!」「ちがう! ちがうのです! ニュアンスが!」……楽しそうなふたりの横で、何度も目元を拭ってみるが、温度のあるその漏水は収まる気配なく、しまいには繰り返し繰り返し喉が鳴る。笑いながら、王がこちらに寝返りを打って僕の頭を撫でる。王の背中越しに、ハリエットが僕の肩を叩いて笑う。「なんでふたりとも笑ってるのー……」
「もうアレ、見せちまおう。自省すると思うぞ」
「こら、悪いひと。でも深酒をしなくなるのなら……」
そんなやりとりののち、ハリエットはスマホを取り出した。ちらりと見えたホーム画像が王の写真だったことに文句を言おうと言葉を捏ねくり回しているうちに、彼はなにかの用意ができたのか、スマホを僕らの上に翳した。すると、再生されるムービー。
『……ラドレくん。帰りますよー』
『やだー……帰らないー……』
は? と漏らしながら、画面を覗き込む。そこにはどこかの洗面所のような場所でしゃがみ込んで泣いている僕の姿が記録されていた。
『おてて洗いましたかー?』
『んん? おて……おてて……お手、する……?』
べちゃべちゃに泣いている、僕。ハリエットの笑い声。次のムービー。王が撮っているのだろうか、手振れが酷いが、ハリエットに背負われながらまたしても泣いている僕が映っていた。
『ええーん……ハリエットくんなんかいい匂いするう……』
『ばかやろう。お前、起きてんのか起きてねえのかはっきりしろ』
『ここしょりしょりしてるねえ。かわいいねえ。……うっ。なんかかなしい……ええーん……』
『もう自分で歩けよお前! 情緒どうなってんだよ!』
(王の笑い声)
さっきから、血の気が引きすぎて意識を失いそうだ。とっくに涙も引っ込んでいる。腹を抱えて笑っているハリエットに、やけに優しく僕の頭を撫でている王。僕だけが固まって動けない。もしかして僕は、酔うといつもこうなのか? ……横になっているはずなのに、くらりとする。天井が回る。
「これに懲りたらもう酒飲みすぎんなよ」
「もう、このときはあなたが飲ませたのでしょう」
「断る勇気を持てという啓発だよ。よし、俺は飲みなおすぞ。お嬢ちゃんが付き合ってくれよな」
王とハリエットが起き上がって寝室を出ていくのを「待ってよ!」と追いかける。廊下を進む背中に「忌憚なきご感想を!」と叫ぶ。「可愛く思ってくれたのならまあアリかなと!」受けた傷を直視しないようしながら埋め立てようとするこの心の機微は、我ながら無様だった。
「過去最高とされた上司のダル絡みを上回るウザさ」──ハリエットの評。
「我がハンドラーライフ史上類を見ないかわいそうさ」──王の評。
「なんでボジョレー?」
ふたりに追いついて、宴席に戻る。まだハイボールはグラスに残っていたが、飲む気がしない。しかしこの具合の悪さは、またすこし経てば忘れて、懲りずに飲みすぎると決まり切っているものだった。僕のグラスを取り上げたハリエットに王の口調で「お前はもうこれを飲んでいなさい」とジンジャーエールのペットボトルを渡され、その物真似が妙に似ていることに却って憤りつつも素直に受け取った。それを飲みながら、僕が鶏やらタウナギやら豚やらを平らげていくその脇で、王とハリエットが子どもの名前についてささやかな協議をしている。
しあせだな、と思ってしまった。しあわせだと何度も反芻するたびに、舌の奥のほうがずきずきと痛むが、これはいつかきっと乗り越えられるはずのものだ。王とハリエットを、ふたりまとめた場合にでもまるっと愛したいというこの願望は、きっと王が抱えているそれと同じだけの質量であるにちがいなく、まるで小型の獣を胸に抱えているときのような弾力と熱があり、それは僕の腕から逃げださずに鎮座している。この感覚はきっと、ふたりの子を腕に抱いたときにまた思い出されるのだ。僕は、ふたりの子をこの手に抱きたかった。たったいま無性に。それは僕と王の子を抱きたいという願望とは別個の、それは、それは……。
ウォーエーノンという祈りだ。
「子どもの名前は僕が決めるよ」
そう、言ってみる。
するとふたりは「そうしようか」と笑う。未来のことなんてなんにもわからないのに。
我が王は変わった。僕も変わっていく。ハリエットはどうだろう。
新年を迎えてすぐ、王が眠たいとぐずり始めたのでハリエットが寝室へと連れて行った。その行く先は僕が領分と主張するほうの寝室だったので、万が一にも子作りタイムは発生していないと信じたいが、彼は中々戻ってこない。その間に、とスマホを確認してみれば各所から寄せられた『忘年会中』の楽し気なメッセージが山を成している。そのなかで、どうやらオフィスでパーティーを開いているらしい弊社メンバーたちは特に賑やかそうで、一番のお調子者であるシルヴェスタがシャンパンを一気飲みしようとして失敗している下品なムービーを眺めていると、【特殊清掃事業部】からのメッセージ通知が入った。その瞬間、ムービーの中にちらりと映り込んでいるベスビアスという名の美女スフィンクスが、やる気なさそうにピースサインをした気がした。
TO:舌に刻印のある呪いというのは基本的に言葉に制約をかけるものです。
死人に口なしという言葉がありますが、それが示すように生者にしか適用できないものであり、被術者が死んだ後にも呪い続けるという類のものではありません。
刻印の図柄を見てみないことには細かく考察できませんが、被術者にはキーワードが設定してあり「それを声にできないこと自体がデメリット」或いは「口にしたらなんらかのデメリットが発生する」はたまた「既に受けているデメリットを解消するために文字通りキーワードを探し出し、口にする必要がある」のどれかである可能性が高そうです。大抵は術者側が解除の文言を口にすれば解放できるという保険をかけているようですね。ただ既に術者が死んでいる場合は『詰み』である可能性もありますが……愛、ですよねえ。これって。非常にロマンティックな呪いであると私は評価したいです。
以上が私からの回答と考察です。ホリデーに働かせやがって。
では、よい年末年始を。
特殊清掃事業部部長 ベスビアス(うちの可愛いケモノちゃんたちのフードが不足しています。カンパはこちらへ)
「アイス食う人?」
その声に顔を上げると、ハリエットが部屋備え付けの冷蔵庫を覗き込んでいた。その背中に「はーい」と返事をする。「イチゴ、ラムレーズン、マカダミアナッツ」「ラムレーズン一択」
ベスビアスにカンパを送ってスマホを置くと、ハリエットが「仕事か?」と問うてくる。アイスクリームのカップとスプーンを受け取りながら「まあそうね」と頷いて、冷えたそれの蓋を開けた。真っ先に充填で盛り上がった部分をこそぎ落として口に運ぶ。
「ねえ。好きな子の話、してよ」
「あ? なんだよいきなり」
「恋バナしよ?」
「きしょ……」「きしょくないでしょ」
マカダミアナッツのアイスと容器のあいだにプラスプーンを突き立てて、彼は「別に話すことはない」とそっけない。その態度が別離のかなしみからなのか、はたまた呪い自体をひっそり愛しているからなのかは判別できないが、僕にはその女が呪いをかけたのだという確信があった。でなければ、あんなに悲しそうな顔をして僕を突き飛ばした言い訳なんてしなかったはずだ。
「かわいい?」
「……まあ」
「身長どのくらい?」
「ちいさかったよ」
「ロリ系?」
「死ね」
「おっぱいは?」
「殺すぞ」
しかし僕が不躾なことを訊いてみても彼は怒っていないらしく、手元では黙々とアイスの外周をスプーンで掘削していた。
「イチゴが好きってなんで知ったの?」
「……イチゴの、ケーキの……上のイチゴだけ、欲しがるから……」
「はは、かわいね。あげちゃうんだ」
「ぜんぶやるって言ってるのに、イチゴだけ持っていくんだ」
「かえってイチゴの不在が気になるやつじゃん」
「でも、俺はそれでよかった。わがまま言って、したいことをする。そういうところを……見ていられれば、それで」
「まさか、プラトニック……?」
「悪いかよ」
「てか、そもそも両想いじゃない……?」
「言うな。まだ新鮮に傷つくから」
「……いまでも好き?」
「……」
途端、彼は黙り込んだ。ということは、あのデート帰りのバスの中で彼が言った「昔のことだ」という事実、経年、折り合い、それらでは流せないなにかがそこにはある。そうなるとやはり呪いの主はその彼女でしか考えられず、どういった経緯で彼を呪うに至ったのかを解き明かす必要がある。そう、『必要』であるのだ。僕たちが僕たちとして生きてゆくために。
「なにその食べ方、キモっ」
僕が指摘する先で、ハリエットは容器からまるっとくり抜いて浮かせたアイスを、まるでハンバーガーにするように食らいついていた。潰した容器を包装紙のように扱って、がぶがぶと。正直、奇怪だが、彼は僕の言葉など気にした様子もなく、
「時短」とそれだけ言った。
「嗜好品に対して時短とか言わないでよ。……あ、禁煙はどうなったの。上手くいってる?」
「お前と違ってタバコの匂いしないだろ、俺から」
「は? うるさ。てかやっぱ味覚変わるの? 太る?」
「味覚は元々鋭くないし、太ってはない。ただガム噛み過ぎてガム代がヤバい」
「イライラしない?」
「する。……つうか、そんなのはどうでもいいんだよ。お前の番だぞ、恋バナ」
そう言ってハリエットは僕の胸のあたりを指さす。
「えっ、僕?」
目を丸くしていると、彼は、
「恋バナしよって言ってきたんだからお前もしろよ。不公平だろ」
と僕を急かした。その眼差しは僕の中心を撃ち抜いて、後退を許さない。
「えー……これ文脈からしてアレですよね。昔の好きな子の話ですよね」
「死んだ人は死んだだけ。関係性は変わらない。そうお嬢ちゃんが言ってただろ」
「う、ううん……そうなんだけど」
「あの子の兄貴なんだろ。よっぽどの美人なんだろうな」
「……まあ」
「身長は?」
「僕と王の、あいだくらい……?」
「どういうところが好きなんだ?」
「えー……ぜんぶ……」
「人にはロリだの乳だの言うくせ面白くねえな」
「なんなの。じゃあ、ええと……なんというか、友だちみたいに接してくれるところが、好きだったよ。向こうのほうが立場が上なのに」
「ふうん。優しいんだな」
「そうだ、ね。うん。今でも夢に出てきて、背中を押してくれるし」
「……お前、その人と同じ顔してるお嬢ちゃんのこと、どう思ってるんだよ」
「ちゃんと、別人だって思ってる。性格、ぜんぜん違うし。別人だって思ってなきゃ、できなかったことが、たくさん、あっ……」
たとえば、毒を盛るとか。
「あれ?」僕の胸の裡、それそのものが僕を指さす。「なんで」……そこで声が止まる。言葉が消える。僕ははたして、『陛下』があの人だったのなら毒を盛っていたのか?
「……泣かせようと思ってるわけじゃない。悪かった」
ハリエットはそう言って口の端についたクリームを指で拭って舐めた。まるで殴られた傷にそうするかのように。
「泣いてないし」
「そうだな。今は泣いてないな」
彼の声は優しかった。あの人の声にも負けないくらい。その声になにかあたたかいものを貰った気がして、目元を拭う。よし、ちゃんと泣いていない。お世辞にも要領がいいとはいえない僕はこうやって、ちゃんと地面を踏みしめていることを確かめて確かめて、一歩一歩ゆっくりと進むことしかできないのだ。
「僕はたくさんのものをもらったから、ほんとは、泣いちゃいけないって、わかってるんだけど。たまに、すごーく、無理なときがある。あの人の最期に、僕はそばにいたけれど、あのときのあの感触が、今もずっと怖いんだ。もう死んでしまうって怖さ。なのにあの人はぜんぜん平気そうに、ニコニコして……ちょっともー、アイスなんて食べさせるから、寒いじゃん……」
震えだす手を押さえつけていると、ハリエットは「そうだな。悪かった。ちゃんと聞いてるよ」と言って僕からそっと視線を外した。するとたちまち震えはおさまって、僕は過去を掘り下げるに必要な推進力を得た気がした。だから、笑顔になる。笑顔をつくる。王みたいに。顔だけでも笑うと心も動いた気がして、僕はとても元気だった。すべてを慈しめるのではないかと錯覚するほど。
「……僕、あの人に愛されてた。たまに僕のこと好きみたいな目をするの、堪らなかったな。可愛いなって。目が合う度に思ってた。……最期の瞬間もずっと可愛かった。信じられないよ、今でも。こんなにずっと可愛いなんてさ」
王、僕は。キミに恨まれたってしかたがない。僕はキミが兄上様に恋をしていることくらい知っていた。恋敵になんて優しくされたくないだろう。恋敵と口もききたくなかったことだろう。恋敵に抱かれたくなんてなかったにちがいない。恋敵に毒を盛られて、でも、それでもキミは、僕をいつだって大切に扱ってくれた。僕にキミの考えなんて心底わからないけれど、それでも知っていることがある。キミは、あの人によく似ているのだ。
「……さいごに、なんて言ってくれたんだ。その人は」
「それは……」
ああ、ここに愛がある。だから秘匿するものでもないと腹に力を込める。
あの遺言は予言だったに違いない。だから僕は受けて立つのだ。すべての謎も罪も愛も、この手で解き明かす。この先なんど決意が心許なくなって挫けても、同じ志をもつ仲間がいるから、怖くたって、進むことを選べる。そうしてなんどだって僕は勝ち取るのだ。あの人からもらったものを。そして、王からもらったものも。落としても取りこぼしても。
「……『いつか、僕の愛が、かならずキミを救う』」
救済が嵐とともに待ち受けている。
End.
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