自分を見るのと見張るのとは違う
↑この違いを、最近すごく感じます。
私にとって「自分を見る」とは、ここで息してるナニカを感じること。
「自分を見張る」とは、”正解” を設定した上で、自分がそれと合ってるかチェックすること。
わたし素直かな?優しいかな?前向きかな?等々。
自分を、あまり言葉を使わずに見ると、落ち着きます。
どんな状態でも、まあ緊急事態ではない。
なんか知らんけど生きてる、ってなる。
自分を見張ると、言葉で考えるから、たとえば「重いより軽いが正解」みたいになって、理想と違う自分へのダメ出しが始まる。
なんか足りてない感がうまれる。
自分を見るつもりが気づいたら見張ってた、ということはよくあります。
やっぱり "正解" に沿わせようとするのは、そっちのほうが認められて、安全に過ごせそうだから。
でも自分見てて感じるのは、たぶんその時々でふさわしい状態になってるから、そないチェックせんでも大丈夫ということ。
今日も謎に生きており、めちゃくちゃ足りてるということ。
暗くても、閉じてても、嘘つきでも、状態のひとつとして。
やいやい言わんと過ごしたいと思いました。
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