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一年前のチョコレートの香りはもう分からない

 雨が降るのを暖房の効いた部屋の内側から眺めていた。水滴がガラスにはりつき、他の水滴とくっついて重くなり下へ垂れていく。一部分だけをじっと見てみる。一滴、二滴とガラスにくっつく。水滴同士が惹かれ合うように結合する。そして落ちる。くっつく、落ちる。その繰り返し。部屋の中との温度差で少し曇っている窓。冬と春の中間。

 一年前の今頃、私は君と出会ってしまった。少し遅くなったけど、って渡したバレンタイン仕様のチョコレートが少なからず私たちの関係を一歩進める大きなきっかけの一つになったことは間違いない。つまり、始めてしまったのは私で、終わってしまったのは始まってしまったからで、全て私のせい。巻き込んでごめんね。一日中断続的に雨が降り続くでしょう、と後ろの方で言っているテレビの天気予報を背中で受け流す。たしかにこの雨はしばらく止みそうにない。


 今年のバレンタインは自分のためにラベイユのはちみつボンボンショコラを買った。特別おいしかったのは「東京百花蜜」のミルクチョコレートの方。蜂蜜といえばアカシア、ラズベリー、ラベンダー、コーヒーなど花を特定したものをイメージしていた。百花蜜とは一種類の花ではなく、野山に咲くさまざまな花から蜜蜂たちが集めてきた蜜のことを言うのだそう。

 こんなときすぐに私は蜜蜂になった自分を想像する。たとえば、初夏の清里のような花が咲き乱れる野山を気が向くままに、風に乗りながら飛んでいる。お気に入りの花を見つけては立ち寄って蜜を味わう。そしてさまざまな蜜を家に持って帰って、魔法使いが使うような大きな鍋に全部入れてことこと煮詰める。そして冬を越せるように少しずつ食べようと大切にしまっておくのに、ある日突然人間が来て全てを奪ってしまう。私が集めた大切な愛を。いろんな花から受け取った愛を。──私はがっかりしながらもう一つチョコレートを口に入れた。


 スイートオレンジのアロマオイルと焙煎したてのコーヒーの香りが漂う私の部屋、ここに君がいた証拠はもうどこにもない。君がいた直後はシーツに君の体温と匂いが残っていて、君が帰った朝はそのベッドで二度寝するのが好きだった。君と一緒に寝ているようだった。私が集めた君の香りはもうどこかに行ってしまった。もう一度探しに行きたいけれど、もう蜜蜂になれない私はこの部屋で雨を眺めるしかやることがない。

コートの要らない休日。春を感じる雨の香り。甘くてほろ苦いチョコレートを口に入れてまた二度寝した。



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