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[最終回]65 花鳥風月

私は今、忙しい。
やっと早起きが板についてきた。
(…と言っても9時前後😃)

1日がはじまる。

身支度に加え、いくつかのルーティンを行う。
そして“今日という日”に合わせて行動を決めていく。

・すごくいい天気!
  →寝具一式を洗おう!
・穏やかな風だわ!
  →ベランダに風鈴を吊るそう!
・あの本が読みたい!
  →図書館へ繰り出そう!

てな具合いに。
料理に取りかかりつつ洗濯機を回す。
途中、ベランダでひなたぼっこ。これでもかと言うほどベランダの柵から身を乗り出し、太陽の光を顔や手のてらや腕やらにあてる。
曇り☁でも雨☔でもとりあえずベランダの景色を眺めたい。そこにはいつも違う空がある。昨日の私とはココロもカラダも違うから、自ずと目に映る景色も変わる。
今日の雲☁はいつもより美味しそうだなとか、いつもとなりの屋根に止まってる鳥たちが今日は慌ただしいなとか。
こうやって変わり続ける世界を、毎朝生まれ変わった自分で味わう。

遅い朝ごはんのような早い昼ごはんのような食事を終え、さんぽに行く。図書館だったり、近所の遊歩道、パン屋さん、やおやさん、、てくてく歩きながら“今日”を散策&満喫。電車に乗るような遠い場所には行かない。
帰宅したらパソコンに向かいブログを耕す。手作りごはんやお菓子の記事をアップする。

洗濯物をと入れたり、お菓子や作り置きおかずを
こしらえたり、読書したり、映画やアニメ鑑賞したり、料理動画を見てイメージトレーニングしたりしてると陽が落ちてくる。
また晩ごはんに取りかかる。
お風呂に入ってカラダをゆるめる。
もふもふ眠りに就く。



精神世界にどっぷり浸かっていた昨年までが、夢か幻だったかのような気がしている。私は幻想を見ていたのだとも思う。
長い間、時間が止まった3次元の世界で彷徨っていた。だけど時間を止めて、やらなければならないことがあった。
手と足をバタバタさせながら一生懸命に鏡の世界を泳いだ。だけど今となっては飛び込む前から“クロールで◯km泳げばゴール”ってゆーのは決まってた。
ビジョンで視たものは、いつかの未来にすでに起こっているが故に視える。問題が発生すると同時に解決の手はずも整っている。約束したら、果たされている。出逢った人とは別れている。
そんなことを学ぶ良い機会だった。この期間があってこその“今”である。

当時、果てしない迷路と思われた。だけどトンネルの向こうの景色が私の内側に視えはじめた。長かったようなあっとゆー間のような。私が取り組んできたそれを言葉にするなら「魂の自立」だろう。

私はとりあえず自分との約束を果たした。
なんとゆーか…、達成感。これにて終了🙌✨
みたいな気分なのだ。
このタイミングで区切りをつけ、“ヒミツ基地のなか”を終了する。
65か…、がんばった😳✨ いろんなことがあった。
ありがとう!

「もぐぽこ」は続く✨

いわゆる「目覚めて生きている人」を見つけるのは難しい。なぜなら、まず自分が眠っていると認識できないからだ。そもそも目を開けていないのなら
知覚できない。知覚できないということは目に映っていない。だから認識できない。そーゆー世界だ。考えてみればシンプルな理由である。
実際、目覚めて生きる人や悟りを開いた人はたくさんいるんだろうと思う。ではなぜ、3次元世界(ネット空間)にどっぷり浸かると出会えなくなるのか。それは、目覚めると3次元世界から抜けていくからである。
自分の人生に夢中であり、地に足をつけて現実(4次元以上)を生きている状態だから、時間の概念がすっぽりと抜け落ちた3次元を基盤にすることはなくなる。目の前の現実をめいっぱい味わうことができるようになると、動かない時間と空間に興味が無くなる。

誰かとの傷のなめあい、なすりつけ合い、そして
正解を探したり、誰かに意見をもとめることもなくなる。
「これは善い」「あれは悪い」
「あの人は正しい」「この人は間違っている」
ネット空間で繰り広げられていることの大半はこれだが、人生の正解探しや答え合わせに興味がなくなり、次第に距離を取るようになる。
物事の両極をすべて取り込み、その上でどう在りたいかを発揮していく。それを発揮するフィールドは「現実」であり、この肉体でもって体験できる一度きりの人生なのだ。

さらに、自分の心に従って自己責任で生きていくようになる。自分に嘘が一つもなく、自分の感情と行動の責任を負える状態。つまり人のせいにしない精神を構築することであり、同時に他者の負うべき責任を背負わないという選択ができること。これが基本となる。
素直な心で感情を味わうことができるから、感情の移り変わりが忙しない。興味の対象がコロコロと変わっていく。それは時に小さな子どものように映るかもしれない。そうかと思えば常に凪いだ海のようにも感じる。
過去を内包したから膨大な記憶はあるけど引っ張り出して照合することもない。未来が視えているから安心して目の前の一秒一秒を大切に扱えるようになるのである。

一歩一歩、歩んできた。。

☽☽☽

さてさて、、
ここまで歩んできた道は私にとって険しいものでした。でも、今とても満足しています。
ところで私の道を少し振り返ってみました。
やはりこのブログで話してきたように“ぽんこつLIFE”でした。知らないことばかりで、たくさん失敗を重ね、傷だらけになりました。でも魂はピカピカのままでした。
たくさん気づき、認め続けてきました。素直に学び、反省し、修正することができました。
私の自慢ポイントです。


ぽんこつLIFEでこんなことに気がつきました。
私は、花鳥風月という言葉が好きなのですが、それは「私の道」を表しているように思います。
一般的に「花鳥風月」とは、

❝美しい自然の風景やそれを重んじる
   風流を意味する四字熟語である。❞
            (Wikipediaより引用)

定位置で寛ぐ毎日。

☽☽☽
私の道は、花→鳥→風→月 を辿りました。
まず目に映り、触れることのできる「花」を見て色や質感、香りなどを味わいます。物質や肉体に付随する様々な体験をします。

それが済めば「鳥」。やや視線を上げなくてはなりません。鳥は空を飛んでいるのです。飛ぶ姿や鳴き声を楽しむ。自分とは住む空間が違う人間と出逢い、交流の中で新たに精神面を鍛錬していきます。大空を飛び回る生き物たちと出逢い、自分との差を受け入れていきます。

「風」は感じるものです。目には見えません。目に見える木々や葉が揺れる姿を見ることで、それを認識することができます。目に見えるものの中から目に見えない真実をすくい上げていくのです。

最後に「月」。月は存在しているのでしょうか。
そこに在るけど、実体はよく分かりません。
新月はそこには在るはずなのにどこにも「無い」。
「無い」ものに魅了、翻弄される。
そういったものを対象にしていく段階にまで到達し、「この世に実体が無い」ことを学ぶのです。




目の前の花の香りに気づけないのに、鳥の存在に気づくことなどありません。鳥の存在を認識できないなら、その空間に舞う風を感じることもないでしょう。目に見えない風を感じることができなければ、物言わぬ月を知覚することなど到底ありえません。
目に見えるものから目に見えないものへと人生のテーマが変わってゆく。私の道はそんな変遷を遂げてきたように思います。

この世に“生”を受けた時点で“死”が決定しているように、何事も終わりと始まりの地点は重なっています。
順当に歩んでいくことができれば人生は自動運転で、自分の心に従っていけば道を外れることはありません。しかし“心に従う”を誤って解釈している方々が多いように思います。
心に従うとはー。
思い通りに事を運ぶ、欲求を満たす、自分の意見を突き通す、ということではありません。それは真逆の行為です。これをやっていくと、自分の人生から外れていきます。

詳細は60、63、64で記しました。↓

「自分でまいた種は自分が刈り取らねばならない」という言葉があります。
種まきの際、すでに全てが決まっているのです。
どんな種をまけばどんな花が咲くか、決定しているからです。カボチャの種をまいた後で、「バラが咲いてほしい」と一生懸命水をやっても、残念ながらカボチャが芽を出します。バラは咲きません。それなのにバラが咲かないことに嘆く人がいます。そうではないのです。自分がカボチャの種をまいたのです。そしてあろうことか実ったカボチャを踏みつけたり、捨ててしまったり、他の畑に移ってまたカボチャの種をまいたりしてしまうのです。
そして、こう言うのです。
「私がまいたのはバラだ」と。

カボチャの種をまいたことに自覚がなくても、本来、実ったカボチャは自分を成長させてくれる美味しいカボチャなのです。現実を受け入れることは身の丈を知ること。理想と現実の差がなくなった時、人は幸せを感じることができるのです。

わたしの花が咲く🌻

因果応報という言葉があります。
意味は、“過去の行いの善悪によりその報いが生じること”ですが、この世界を端的に表した言葉です。
私は、意味は知っていましたが本質が理解できたのは最近です。知識として知っていることと本質が理解できているかはまた別の話。
そんな事が山ほどあったのです。それを認めていく道でもありました。



冒頭でお話しした「私の1日」は私の魂が求めていた願いです。私はそれを思い出すことができました。
なので今、忙しいのです。
例えばですが、これを読んでくれている貴方が、私の生活を見て「そんなんでたのしいの?」と思ったなら、そのくらい抵抗があるもの、意識の外へ除外しているもの、全くの死角となって認識できずにいるもの、そういったものがまさに受け容れるべきもので「魂の願い」かもしれません。そのくらい自分の認識外だということです。“あり得ない”を受け容れた先でしか見ることのできない景色があるのです。

魂の本当の願いとは、頭で考え抜けば答えが出るものではないですし、誰かが教えてくれるわけでもない。自分さえ良ければ、あれさえ手に入れば、お金さえあれば、あの人さえ消えてくれれば、、その延長線上には見つけられないということです。
「受け容れる」「諦める」「認める」
月並みですが言葉にするとそんな境地に至った時、ポッと姿を現します。

この“ヒミツ基地のなか”があまり人の目に触れることがないのは、“大多数の人間には不必要なものだから”だと心得ています。私が歩んできた道が大勢の人に共鳴するはずがないのです。私だけの道ですから。しかしながら、私の言葉に触れ、何か感じるものがあるとするならば、それは“アユミの中に自分を見て(投影して)いる”からでしょう。皆、根底では繋がっているからだと思います。

当初からこのブログを“内観作業&愛の証明”と位置づけていた為、魂の自立を果たした今、綴る言葉が見当たりません。一度、このあたりで締めようと思います。今後、何か新しいマガジンを創ることができればいいな、と思いますが今のところは思いつきません。「すべて愛のぽんこつLIFE」として発信していこうとは思っていマス😃。
現在、アユミの興味の対象は「手料理」と「もぐぽこ日記」✨

〚ヒミツ基地のなか〛これにて終了💗
ありがとうございました😊

私の花🌻

〚 水と三日月☽をこの小さな胸に 〛
 Ayumi☽


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