見出し画像

想うということ

たくさん活動した土日とは打って変わって、今日はひたすらやる気の失せたぼやぼやとした一日だった。

昨日は半分屍になりながら働いて、その後突然顔を見せにやってきた彼とお寿司をかじりながら映画を観た。ゲド戦記、ようやく最初から最後まで観ることができた。やはり駿さんとは違う、と思えたし、これはこれでいいような気もした。

今日見た夢の中には案の定自然が溢れていたし、寝る直前までじゃれついていた彼も登場した。私の見る夢はいつも突拍子がなくてストーリー性もないけれど、断片的に覚えている部分はなんだかんだで面白かったりする。

そんなこんなで朝を迎える、それどころか、気がついたらもう時計がてっぺんを越えていた。オンデマンドなのか対面なのかいまだによくわからない授業を当然のように切る形になったけれど、あの授業は教科書を先生が読み上げるだけなんだもの、別にいいだろ、という気持ち。(よくないです)

しばらくエアコンの下で二人ダラダラしてから、彼は家へと帰っていった。いつものようにあの手この手を使って引き止めるのはお決まりの流れ。もちろん一欠片の寂しさくらいはあるけれど、もう彼がいるとかいないとかでどうこうなる私では、ない。そのことを私も、そしておそらく彼も理解している。


少しずつ一人で立てるようになってきて、依存という言葉も脳裏を掠めなくなった。これが大人になるということなのか、普通の人は元々依存なんてしないものなのかは知らない。

恋愛に溺れる人生だったと、思う。20年そこらしか生きていないのだから人生だなんて大層な言葉を使うものではない、けど、この生涯のほんの一部分だけを切り取っても、私は充分に溺れていたと言える。

物心ついた頃から、恋は麻薬だった。幼い頃から創作欲を掻き立てるものはいつだって恋だったし、結ばれることがなくったって創作で昇華さえできれば満足できた。実際、恋多き女の私が想いを通わせた相手は今までにたった一人しかいない。


片想いがいかに楽で、愉快で、無責任なものなのかを知った。
さらに、満たされきった幸せが私の創作の敵である、ということも知った。

想っているけどほんとうの意味では満たされない、この溢れんばかりの想いとそれ以上近づくことのない欲求不満がうまく合わさることで、私は今まで数えきれないほどの物語を生み出してきた。
創作への依存という形で、縋り続けていたのだと思う。けれどその依存は、今よりずっとはるかに豊かなものであった。

満たされるようになってからというものの、私はその上の幸せを求めて、さらなる欲求をぶつけた。今度は創作にではなく、彼に。滑稽だったと思う。たくさんの人を巻き込んだし、お互いにたくさんの涙を流した。彼以外何もいらない。そんな私もいた。

このままではいけないと感じたのはいつだったろうか。思考も生活も、いつだってその核には彼がいること。それこそがよかれと思い込んでいた。けれど間違いだということにも、どこかで気づいていた。

また、創作を始めていた。書くことこそが人生の本業だった私を取り戻すために。
創作だけでなく、自分のこと、誰かのこともこうして書くようになった。目の前の誰か、けれど見えない誰かに向けて書くことを始めた。

私の片想いが、再び歯車を回しはじめる。少しだけ錆びついて、昔のようにはうまく回ってくれないこともあるけれど、私は本来の私を取り戻しつつあると感じている。満たされない幸せこそが、私のエネルギーであったことを思い返しながら。

私の中心は彼ではなくなった。それが心地いいと思う。きちんと両足で立てている感覚がする。彼に何かを求めなくなった分、私が私自身に求めるようになった。これが一番、私にとってよかったことのような気がする。

彼を想うことと、創作を想うことはおそらくずっと別物だ。そしてどちらの想いを手にしても、どちらとも手にしても、いいと思う。私は欲張りだから、きっと両手にいっぱい抱えてしまう。それで、いいと思う。




この記事が参加している募集

振り返りnote

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。