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出雲蕎麦〜風土がもたらす蕎麦のある豊かな暮らし〜


島根の代表的な食文化と言えば、筆頭に挙げるのは出雲蕎麦で間違いないだろう。夏の食欲のない時などは特に、ひんやりと冷たい蕎麦が身体に心地よいものだ。しかしただ美味しいだけで代表の座に居座っているのではない。出雲蕎麦には地域の暮らしや文化、風土の全てがギュッと詰まっているのだ。


地域に根づいた
身土不二の蕎麦

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(写真/島根県観光連盟)

出雲の人はよく蕎麦を食べる。古くから蕎麦処として知られ、大晦日や年中行事、祝い事といったハレの日以外でも、お昼ご飯に、夜は酒のアテにと、蕎麦を求めては店を訪れる。

丸い朱塗りの三段器に盛られた黒っぽいお蕎麦。出雲の人にとって蕎麦といえばこの姿である。つゆはつけるものではなく、かけるもの。ズズッと啜って軽く咀嚼すると、穀物の香りとつゆのダシの風味が口の中で絶妙に絡み合う。瑞々しい蕎麦は、夏の暑さで乾いた喉を潤すのにもちょうどいい。何度も何度も食べた味、それでも時々また食べたくなる。ただの蕎麦好きと言ってしまえばそれまでだが、やはり出雲の人にとって蕎麦は、切っても切れない関係にあるように思う。


「身土不二」という言葉がある。「身と土、二つにあらず」という仏教用語で、人の身体と人が暮らす土地は一体であり、その土地でとれたものを食べるのが身体に良いとする教えだが、出雲の人と蕎麦の関係も、ちょうど身土不二の精神に置かれていると感じる。白くて喉越しの良い上品な更科蕎麦もおいしいけれど、黒くてコシがあって野趣に富んだ出雲蕎麦が、やはり身体に馴染むのだ。


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山間地の暮らしに
欠かせなかった蕎麦食

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(写真/PhotoAC)

今でこそ蕎麦は店で食べるのが主流だが、もともと蕎麦は山間の農村地域で、人々の日常食として家庭で食されていたもの。古くは中世以前からあり、その頃は今のような「そば切り」と呼ばれる麺状のものではなく、蕎麦粉を団子の要領で調理した、蕎麦がきのような食べ方であったらしい。 


やがてそば切りの技術が広まり、近代になると家庭でも麺状にした蕎麦を食べるようになっていった。ソバの生産地の地域では、蕎麦打ちは家庭でやるものだったという。「ソバの産地ほど蕎麦屋はなかった。蕎麦は自分の家で打ったのが一番うまいから」なんていう話を、島根県のソバの産地、奥出雲で聞いたことがある。嫁に行くとまずその家の蕎麦打ちを覚え、客人にはお茶や菓子より蕎麦を振舞ったのだとか。山間地域において、蕎麦は日常の暮らしに欠かせないものだったのだ。蕎麦を打ち、湯がき、みんなで食べる。蕎麦を囲んだ家族の団らんは、きっと豊かで贅沢なものだったに違いない。


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挽きぐるみの蕎麦を文化にした
松江城下の歴史

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上/宍道湖に面し、「水の都」と呼ばれる松江市。湖の落日は特に美しく、季節によって様々な表情を見せるその光景は「日本の夕日百選」に選ばれている。(写真/島根県観光連盟)


蕎麦のルーツ、信濃国から来たお殿様
島根において蕎麦が山間地でのみ食されていたものであれば、今のように食文化とまではならなかっただろう。蕎麦が地域に根づいた理由としては、やはり1638年に松平直政公が信濃国から松江藩に転封したことが挙げられる。当時から蕎麦処として知られていた信州から、蕎麦好きのお殿様が来られたとなれば、士族や町人の間で「そんなに旨いものか?」と城下を中心に蕎麦ブームが巻き起こったかもしれない、そんな楽しい想像もできる。江戸後期には外食が流行り、出雲大社門前や松江城下周辺に蕎麦屋が発展していったという。それにより遠方から訪れる出雲大社参詣の人々なども蕎麦が食べられるようになり、蕎麦食は一般庶民の間で広がっていった。

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上/松江城下にある塩見縄手と呼ばれるエリアは風情が漂う(写真/島根県観光連盟)


◎蕎麦を広めた「参勤交代」と「けんどんそば」
現在、国内における「そば切り」の初見は1574年、長野県の寺に残る文書である。その後そば切りの技術がどのように全国に広まっていったのかは定かでなはいが、寛文(1661年頃)の江戸で「けんどんそば」と呼ばれた安価な蕎麦売りが繁盛したのが理由の一つと考えられる。当時の江戸の町は労働者や職人、参勤交代の武士などであふれていたため、安価でしかも手軽に食べられる蕎麦が爆発的に広まったのであろう。島根県で発見された「そば切り」の初見は1666年、当時の出雲大社の神職、佐伯白清の日記に記されている。それによると“松江藩寺社奉行・岡田半右衛門役宅でそば切りの振る舞いがあった”とされ、時期的に参勤から戻った武士や商人が松江で蕎麦を広めたとしても合点がいく。


松平不昧公と出雲蕎麦

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上/【松江城】1611年に堀尾吉晴により築城された後期望楼型天守の城。平成27年に国宝に指定され、国宝5城の一つに。最上階からは城下の町並みや宍道湖が一望できる。(写真/島根県観光連盟)


そして蕎麦の地位をグッと押し上げたのが、江戸時代の代表的茶人で「不昧公」の名で親しまれた、松江藩七代目藩主の松平治郷(はるさと)である。風流を愛し、独自の武家茶道をつくり上げた不昧公は、「蕎麦懐石」なるものを考案したほどの大の蕎麦好きであった。茶の湯の懐石といえば精選された食文化であり、そこに庶民の食べ物であった蕎麦を取り入れることで、蕎麦の地位を確固たるものにした。島根県の奥出雲町にある名家で、江戸時代に本陣宿を務めていた「櫻井家」には、不昧公に供した際の蕎麦懐石の御膳が残されている。

 「よく噛んで食べるほうが、蕎麦の味がよく分かる」

これは不昧公の御言葉だが、挽きぐるみで打つ出雲蕎麦は、喉越しを楽しむ江戸蕎麦とは違い、しっかり噛むように食べることで穀物の香りが楽しめる。しばしば田舎蕎麦と揶揄される挽きぐるみの蕎麦だが、ソバの持つ本来の旨味を見据えた不昧公は、「どんなものでも供し方ひとつで旨いものがある」と表現したかったのかもしれない。蕎麦懐石の器は日本的な様式美の完成形とも思えるもので、そこに盛られた出雲蕎麦はとても田舎蕎麦などといえない、堂々とした佇まいに思える。日常食としても、ハレの席でも違和感なくいただける今日の出雲蕎麦は、こうした不昧公の「粋」により完成されているとしみじみ感じるのである。

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上/蕎麦を茶懐石に取り入れた出雲国松江藩7代藩主の松平治郷(はるさと)。江戸時代の代表的茶人の一人で「不昧公」の名で知られる。茶道「不昧流」を大成させたことで、松江に茶の湯文化が浸透した。(写真/島根県観光連盟)


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上/【出雲大社】大国主大神を主祭神とし、縁結びの神として広く知られる。旧暦十月に全国の神々が出雲大社に集まり、ご縁についての会議が開かれる。この「神在祭」の際に神社周辺の屋台で温かい新蕎麦を振る舞ったのが釜揚げ蕎麦のはじまり。神門通りには様々なお店が軒を連ね、参拝のついでに散策するのも楽しい。


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奥出雲の地に息づく
たたらの歴史とソバ栽培

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上/砂鉄を採取するために山を切り崩し、その跡地には広大な棚田が形成された。雲南市大東町山王寺の棚田は「日本の棚田百選」に認定された。(写真/島根県観光連盟)


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上/奥出雲を源流に、出雲地方を悠々と流れる斐伊川。(写真/島根県観光連盟)


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良質なソバはたたら製鉄の副産物
不昧公と深い繋がりのあった前述の櫻井家は、当時盛んであった「たたら製鉄」の頭取を務めていたことでも知られる。たたら製鉄とは日本古来の製鉄法で、奥出雲地方では約1400年前から近世まで、このたたら製鉄が盛んに行われており、最盛期には全国の8割に及ぶ鉄が、この地域を中心とした中国山地の麓で作られていたという。


この鉄の原料となる砂鉄を採取するために山を切り崩し、たたらで使う大量の木炭を作るために山林を伐採し、その跡地で焼畑をしてソバの種をまいたという。昼夜の寒暖差が激しい奥出雲の気候はソバの栽培に適しており、こうしてできたソバは風味豊かで良質と高い評価を受けていた。不昧公をはじめ蕎麦好きのお殿様が奥出雲の蕎麦を食べ、参勤で江戸に行きその評判を広めていたのであろうか。当時の奥出雲の蕎麦は幕府に献上されていたほどであった。


長きに渡り地域の経済を支えたたたら製鉄は、意図したものでないにせよ、出雲の蕎麦文化にも多大な影響をもたらしたといえる。

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上/奥出雲地方の吉田にある「菅谷たたら」には、たたら製鉄が創業されていた生産施設が唯一残されている。国のじゅうよう重要有形民俗文化財指定。(写真/島根県観光連盟)


◎たたら製鉄
古来より行われてきた伝統的製鉄法で、砂鉄を原料に、木炭の燃焼熱によって砂鉄を還元して鉄を得る。約2.5トンの鉄をつくるのに、 熱源となる木炭約12トン、原料の砂鉄約10トンが必要といわれ、この大量の木炭を調達できる豊かな森林資源と良質な砂鉄があることから、奥出雲では古来より製鉄業が栄えてきた。日本刀の原料となる「玉鋼」はこの手法でしか精製できず、奥出雲にある「日刀保たたら」では現在もこの製鉄法を絶やすことなく受け継ぎ、平成28年日本遺産に認定された。


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人の力と風土が築き上げた
蕎麦文化

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過去を紐解いていくと、出雲蕎麦の食文化としての地位は、長い歴史の中で非常に多くの必然的要素の上に完成したものだと言える。良質な蕎麦が栽培できる気候的要素はもちろん、参勤交代やたたらといった歴史的要素や、不昧公のような風流人による文化的要素、割子など良質な器を作る地元の手仕事の伝統技術もそうだろう、何よりそういった先人たちの思いに寄り添い、商いや儲けとは関係のない所で、文化の継承に尽力する人たちの力が、伝統食としての出雲蕎麦を支えている。どれか一つが欠けても、今の出雲蕎麦文化は違うものになっていたであろう。


洗練されてはいないが、素朴で味わい深く、カッコつけず、ソバ本来の味で勝負する出雲蕎麦。その姿はどことなく、出雲の地そのものと似通っている。これから先またどんな風に引き継がれ、新しい可能性を見出すのか。長い歴史の中の出雲蕎麦の物語は、まだまだこれからも続いていく。

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