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善と悪

妻と子ども2人、あわせて4人暮らしの我が家。
今年新しい仲間が我が家にやってきた。

メダカである。

ある日、妻が近所のホームセンターで買ってきたのだが、最初はすぐに死んでしまった。
その後ママ友からメダカを譲り受け飼い始めたのである。
死なせないように水質に気をつけたり、水槽を買ってきて水草や隠れ家を沈めたり、メダカが楽しく暮らせる環境を作っていた。
幸い飼育に成功し、つがいからは子メダカも生まれ賑やかになった。

毎朝起きると声をかけ、新しい卵が生まれていないか確認する。
我が子たちも興味津々に様子を観察している。
メダカを中心に、新しい幸せの形が見える。

そんな姿を見ると、僕はささやかな幸せを感じるとともに、ある別の感情が存在することに気づき困惑する。

「もしこのメダカを、家族に無断で逃がしたらどうなるのだろう」

当然家族は怒るし悲しむし、そもそも野に放つこと自体咎められるべきことである。
しかしもし仮に、いや絶対にやらないのだが、もしもやってしまったらどうなるのか。
そんなことを考えてしまう。

途端に、そんな自分に嫌気がさす。
いったいなぜこんなひどいことを考えてしまうのか。
そしてふと気づくのである。
幸せを奪うこと、失うことは簡単でも、それを得て、守り、取り戻すことはとても難しいことであるということを。

繰り返すが、本当にメダカを逃がして家族を悲しませるようなことはしない。
自分だって悲しいし、メダカから生まれた幸せが消えるのが怖い。
ただ、自分の中にある善と悪の両方に向き合いながら、幸せの意味を確認するのが僕のやり方なのである。

なぜこんな面倒なことをするのか。
幸せとは脆く儚いものであることを、僕は薄々気付いている。
幸せでいる時間はとても大切で喜ばしいことなのだが、同時にそれを失うことへの恐怖心もはっきり存在する。
心の準備ができていない状態でいきなり幸せを失うことは、どれほど辛いことだろうか。
だったら…それなら…いっそのこと、早いうちに幸せを手放し、幸せを失う恐怖から解放されたい。
そんな風にも思うのだ。

しかし、幸せを失うこと、未来への恐怖は、裏を返せばそれを守ろうという強い決意にも裏書きされている。
僕はその裏書きを何度もなぞりながら、今ここにある幸せを見つめようと思う。

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