見出し画像

【ネタバレ有】「君たちはどう生きるか」を、 曇りなき眼で見定めろ!(前編)


!注意!
本記事は映画内容のネタバレをガッツリ含みます!
未視聴の方はブラウザバック推奨の上、すぐに映画館に足を運ばれることをおすすめします。何よりそれがスタジオジブリの、そして宮崎駿監督の一番の願いでしょう。








(以下より記事内容です。)








さて、「君たちはどう生きるか」
皆様はすでにご覧になりましたか?

どうでしたか?

鑑賞後、モヤモヤした後味が残りませんでした?

僕もです。



パンフレットも買ったよ


この映画、公開日は2023年7月14日。
スタジオジブリ(ひいては宮崎駿の)の意向により、
メディアへの事前情報は一切非公開という異例の形で封切られた本作。


2023年8月11日をもってようやくパンフレットの発売、
キービジュアルや声優情報等が少しずつ公開され、
ちらほらネットニュースなどでも見かけるようになった今日この頃。


「見に行ってみようかな」
なんて、
気になりはじめた方も多いのではないでしょうか。




本作品、自分は公開直後に見ました。
そして、先日二度目の鑑賞をしました。
理由は冒頭にあるように、消化しきれなかったから。
さらに視聴中気になったら書き留められるように、メモ帳とペンも持参。



書いたぜ(暗かった)


なぜこんなことするかと言うと、この映画、
とてもとてもシンプルでは無いんですよ。


「何が言いたいかはっきりとは理解できない」
「でも、絶対に大切な意味が隠されている気がする」



という後味が残る類の映画です。
この記事をご覧になっている皆様なら、共感してもらえるでしょうか。


そこで今回、深追いをせず、断片的に自分の思ったことを書き綴るだけに留めたところ、これがかえって考察として纏めるよりも全体像を浮かび上がらせる結果になりました。

以下より、その断片を掲載します。
これは映画を頭から視聴して、そのとき思ったことを素直に文字におこしただけの、時系列順のメモ書きです。
気になったことを書き留め、あとから調べて加筆した事項もあります。


「君どう」鑑賞後、何か形容できないモヤモヤを胸にこの記事にたどりついたあなたが、何かに気づくほんの少しのきっかけになれたら嬉しいです。


(以下より箇条書きになります。)




0.導入

・戦争の3年目の火事で母を失い、4年目に父と東京を離れた
→いつの時代?宮崎駿が1941年生、終戦が1945年なので、
 自身の子供時代としてイメージしやすい時代を描いている。
 自伝っぽい一面がありそう。



戦争の作画すごい。鬼気迫るものを感じる。でもこれは「もののけ姫」の時のように、天才宮崎駿ただ一人がセンスで突っ走ったものでは無い。スタジオジブリ全体の決意を感じさせる。今回宮崎駿は、動画作画を自らで手がけていないはず。



夏子登場。口を聞かない眞人。嫌悪の感情を出すわけでも無い。ただ手を引かれ、強引に腹を触らされたときはすごい顔した。「げっ」みたいな。実は、彼は相当動揺している。ただ、その歳に不相応なくらいの自己抑制力で、感情をぐっと噛み殺しているだけ。

穏やかな表情の奥に何を思う。



・夏子は強い人。穏やかだが、母になるという決意を感じさせる。それは、これから出産に臨むという意味でもあり、眞人の母として振る舞わなくてはいけないという意味でもある。



・二人とも無表情、無感情。ただ1回視聴後だから言えることとして、このとき二人の内心は相当グチャグチャのはず。彼らはそれぞれに闇を抱えて、今この場所にいる。


〜眞人の闇〜
・母を失ってから日が浅く、まだ立ち直れていない。
・にも関わらず父は新しい女性と結婚。しかもその人は母の妹。
・しかも、すでにその腹には子どもが。
・これから長く慣れ親しんだ東京を離れ、田舎へ引っ越す。
・新しい暮らしは否応なしに始まる。こちらの準備などお構いなしに。

〜夏子の闇〜
・姉が死に、その旦那の元へ今度は自分が嫁ぐ。
・姉と夫の間には11歳の子どもがいる。
・自分はその子にとっても母として振る舞わなければならない。
・予想していたことだが、その子は簡単には心を開いてくれそうにない。
・時間をかけて、辛抱強く寄り添っていくしかない。
・しかし自分は身籠っており、初めての出産を控えている。
・夫になる人は仕事に打ち込んでおり、家のことは自分がやるしかない。

1.眞人、青鷺屋敷へ行く


アオサギ登場。初期のアオサギは見れば見るほど不吉な描かれ方をしている。悪魔的というか。眞人と問答する様子は、ゲーテの戯曲「ファウスト」に登場する、悪魔メフィストのようだ。



・しかし、後で調べたところアオサギは福音を運ぶ鳥らしい。ガイド役として導いてくれる存在とも。興味深い。



・7人の老婆登場。とにかく不気味。魑魅魍魎感がすごい

子ども泣くでこれ



・父親の鞄に群がる姿は、さながら屍体に群がる妖怪のよう。眼鏡の婆は目が4つあるようだ。これは、見ず知らずの環境に放り込まれた眞人の不安な気持ちがことさらに老婆を不気味に感じさせていて、それを主観的に描いたのではないかな。



・しかし、これも後でわかることだが、彼女たちもまた眞人を守る存在だ。背の高い夏子の後についていく7つの小さいシルエットも、「白雪姫」で彼女を守る7人の小人たちを連想させる。


箒でどうしようというのか


・疲れて眠った眞人を見る夏子の表情に、微笑みはない。やや疲れて、途方に暮れているようにも見える。眞人へ、努めて母親らしく振る舞おうという気の張りもあるかもしれない。これから関係性を築くことへの不安も感じさせる。



・父親の勝一は豪胆な人物だ。家族に対する愛情に疑いは無いが、一方で大雑把で、やや細やかな配慮に欠ける。強調しておきたいが、新しい学校に車で乗り付けて目立つことも、眞人の額を傷つけた犯人探しも、眞人自身は一切望んでいないのだ。病床の眞人に寄付のことを話す際、キラキラした目をしているのも、このキャラクターが微妙にズレた人物であることを象徴している。声優がキムタクというのも絶妙に良い。

お父さん。目がギンギンで怖い。



・眞人の自傷行為は、初見時では突然すぎて理解できなかった。「自分をいじめた犯人に思い知らせるため」といった考察も見受けられれるが、これだとあまりに表面的すぎる。眞人はそんな薄っぺらい動機で動かない。



・眞人の自傷は、「新しい環境への不安」「夏子に抱く複雑な感情」「配慮のない父親」「その結果の学校での理不尽な暴力」など、こうした諸々のストレスによる、現実逃避行動だと思う。「こうすれば少なくとも暫くは外界から距離をとれる」という、自己防衛のための自傷行為。



・彼は、限界まで押し殺した感情を、画面を介してもいっさい表に出さないため、我々は初見で「急にどうした!?」と驚く。宮崎アニメのキャラクターは観客への説明のために動かないことを、我々は覚えておく必要がある。


2.不気味なアオサギと不思議な塔



・アオサギに折られたはずの木刀がまだある!→その木刀が朽ち果てる描写。アオサギと対峙し、鯉やカエルに「おいで下され」と誘われたことは夢だったかもしれない。しかし夢であっても、その出来事は現実に影響を及ぼし得る。村上春樹の「海辺のカフカ」で、似たような表現がある。「夢の中から責任は始まる」。


・アオサギと対峙し、大量のカエルに覆われる眞人の助けるべく矢を放つ夏子と、後に続く老婆。また、老婆の「不思議なことがたくさんあるお屋敷ですから」という台詞。
→宮崎アニメでは、女性は比較的神秘的なもの、不可解なものに対して順応することができる。成熟していない子どももそう。対して父親は物質的であり、仕事人間という描かれ方をすることが多い。これは宮崎駿がそう捉えているというより、古来からそのような描かれ方をすることが多いため、その設定を自然に受け継いでいるというだけのことだろう。「誰が決めたわけでなく、生物的な差異として、女性の方が神秘に適正があるもの」なのだ。


・つわりに苦しみ上の空でありながら、眞人の傷を案じる夏子と、しかしその手に光る指輪。すごい描写だ。「お姉さまに申し訳ない」→「早く良くなってください」と逃げるように眞人が帰ってしまうのは、この指輪と無関係ではない。


・寝巻きのまま、幽霊のように森の中へ消える夏子。眞人はそれを見ているのに特に気に留めないという、不気味な描写。母親は子を産む時、一回あちら側へ行く。生と死の狭間。それは、生きているのか死んでいるのか極めて曖昧な存在になるということ。子を産むというのは、それくらい神秘的で危ういことである。


・7人の老婆の一人、キリコ。極めて重要な人物だ。おばあちゃんたちの中にいるが、一人だけどこか意地悪な印象というのは、ポニョのトキさんを彷彿とさせる。トキさんは宮崎駿監督のお母様を投影したキャラクターというのを聞いたことがあるが、キリコはどうだろうか。間違いなく言えるのは、彼女はここからずっと眞人をそばで守り続ける唯一のキャラクターである。彼女は世界線を超え、時を超えて、姿形を変えてまで、ずっとずっと眞人を守っている。



・キリコのセリフに不可解なものが1つある。アオサギに言われるまま館に踏み入ろうとする眞人に言う「夏子様がいない方が良いと言うんでしょう?それでも行くなんておかしいよ!」という言葉である。これ、本当にキリコの言葉か?奉公人の立場で、そんなこと言及するだろうか?



・では誰の台詞なのかというと、これは眞人の深層心理での自問自答と考えると自然だ。眞人の「行かないと。そこに母さんがいるとアオサギは言った」「いや、母さんは死んだはずだ。行くのか?僕は夏子さんが嫌いなんだろう?」という葛藤する心の声を、キリコは単なる口寄せ装置として発しているような台詞だと思う。考えすぎだろうか。



・屋敷の中で横たわる夏子は、死んだはずの母の顔をしている。実はこの少し前から、「夏子に会いに行こうとしているのか、母に会いに行こうとしているか」が曖昧になっている感じがする。しかし、この時の眞人にとってそれはさほど重要じゃない。どちらも眞人にとっては母であり、その人に会いに行くとしたら生死の狭間、つまり「あっち側の世界」へ行かねばならない。

3.大叔父に招かれ、あちら側の世界へ


・黄金の門「我ヲ学ブ者ハ死ス」の意味するところ
正直よくわからん。調べたところ中国の芸術家が残した言葉に似たような言葉があり、それは「私を模倣するだけのものは大成しない」というような意味合いのようである。ただ、それを「俺の模倣ばかりしていてはダメだ」という宮崎駿からのメッセージと考えるのはあまりにも表面的すぎるような……この建造物が墓と呼ばれていることや、明らかにベックリンの絵画、「死の島」をオマージュしていることから、この場面から読み取れるのは『こちら側の世界は「生死」、そして「創造性」に密接に関連づいている』という程度に留めておいた方が良さそうである。
※数少ない公式情報でもあるパンフレットには、「宮崎駿が友情をこめて描く、生と死と創造の自伝的ファンタジー」という記述がある。



・あちらの世界のキリコは若い女の姿をしている。墓の門を開けペリカンに襲われている眞人に気づき、素早くペリカンを追い払うと正しい方法で門から距離をとらせ、「門の主」と呼ばれるものから免れさせる。以降、彼を守り、そして導く存在である。当然この若い姿でいる間は現実世界の老婆のキリコは現れず、眠るとき彼を取り囲む老婆の人形も、キリコを除いた6体となっている。


着物は老婆のときと同じものである。


・魚を解体する時の「そこで良い。もっと深く!」「思い切り引け!」というやりとりは、命を奪い糧を得るという「生きるための術」を伝授しているようでもあり、同時に「男女の営みの手ほどき」を受けているようなシーンである。そうして得た魚の肉がワラワラの栄養になるというのも、そういったことの暗示では。


・ワラワラの声優に滝沢カレンを起用した人のセンスよ。天才か?



かわいさと狂気の同居


・ワラワラは、下界で十分に栄養を得ると膨らみ、DNAを連想させるような螺旋を描きながら浮かび上がる。上で生まれるのだという。この世界において、死者は下、生者は上だ。参考までに、死者の国=天上=天国というのはキリスト教に発する考え方とされ、逆に日本神話における黄泉の国は根の国とも呼ばれ、地下深くにあるとされる。




・ペリカンに食べられるワラワラ。パックマンみたいで凄く良いな…




・ペリカンを撃退するヒミ登場。手から花火を打ち出し、ワラワラを食おうとするペリカンを退けるが、その火によって一部のワラワラも燃えて死ぬという。本編とは関係ないかもしれないが、これ個人的にグッときたポイントである。なんか…とても良いなと思う。




・なんと言っても、ただの火じゃなくて花火というところ。役割的には、ただの火でも問題はないはずだ。ただ、花火の方が祭りの賑やかさ・儚さを感じさせるし、それでも一部犠牲は免れないというのも切ない。生まれる喜びと、死別の切なさ。…なんて素晴らしい想像力だろうと思う。もはや花火であることに深い理由があろうが無かろうがどうでも良いとすら感じる。ただ理屈じゃ無く、すごく良い。



・死にゆくペリカンの最期の言葉。

「我が一族はワラワラを食うためにこの地獄に連れてこられたのだ」
「一族は飛ぶことを忘れた」
「ワラワラを食う。ヒミ様はワラワラを焼く」
「ここは呪われた海だ…」


深意はわからないが、抜け出せない循環を永遠に繰り返す苦しみを憂い、ペリカンは息絶える。この循環は何を示唆しているんだろう。


ある程度簡略化して描いてるのに、傷や疱瘡が生々しい。これぞジブリの職人芸。

4.夏子を探す旅へ


・鍛冶屋の小屋にいるインコたちは、獰猛という性質とは裏腹に非常にコミカルなデザインだ。生々しいほどにリアルなペリカンやアオサギ(鳥モード)とは随分違う。このあと赴くインコの国も、そういった子ども向けのアニメーションのようなカラフルな世界。


・墓の門の前で感じた、「創造性」というワードを思い出す。あちらの世界とは死者の世界というのは間違いないが、同時に創造物(=アニメーション)の世界というのを象徴しているのではないか。こんな感じ↓で。

あちらの世界       こちらの世界
死者の世界        生者の世界
地下           地上
虚構(アニメーション)  現実


・それを言うと、ヒミの格好もひらひらのフリフリで、子ども向けのアニメーションみたいである。魔女宅、ハイジ、アリエッティといったような、どちらかというと西洋的な服装だ。ジブリの描く異国というか。色彩豊かな世界とも相まって、とにかくカラフル。


西洋的ジブリ。アリエッティを思わせる色彩。


パンとバターとたっぷりのジャム。これまで地味な食事描写が多かった本作品の中で、ダントツに美味しそうなジブリ飯。それをボタボタとこぼしながら、なんだか下品にむさぼる眞人。


・上記のパンの他にも、ナウシカを彷彿させる原生林を飛ぶ蟲や、ラピュタの石の光る洞窟など、「ジブリのセルフパロディ?」というシーンが目立つのもこの辺りから。「このシーンはこれを表現している!」と断言するのは難しいけれど、この世界はこれまでジブリが作り上げてきたアニメーション作品の集合の隠喩という気がしてならない。


・宮崎駿にまつわるエピソードで、「子どもたちに外の世界へ出てほしいとトトロを作った結果、そのトトロを『ずっと見ている』と言われたことがあり、ひどくショックを受けた」というのがある。ジブリの作品は、時に現実の美しい部分を切り取る。それが子どもたちに「世界はこんなにすばらしいんだよ」と伝えたいという動機だったとしても、見方を変えれば誇張であり、嘘でもある。


・必要以上に美味しそうに描かれたパン(=ジブリ飯)を食べて、「美味しい!」と喜ぶ眞人。夢のような世界を描いたアニメ作品に夢中になり、そればかりを食べ、外の世界へ出て行かない子どもたち。それは宮崎駿の目からすると、ある種おぞましく映るのだろうか。



夏子との邂逅。この作品の一つの山場。

「あなた!なぜこんなところに来たの!?」
「出ていって!あなたなんか大嫌い!」


見たことない鬼のような形相で放たれる強い言葉。ショックを受ける眞人。しかし、これって夏子の偽らない本心だろうか?というのも、これを言い放つ夏子自身も、極めて辛そうな、傷付いたような表情をしているのである。


・これは、夏子が理性で深層心理の奥に押し殺したはずの本心なのかもしれない。ただ、いつもの理性的な夏子であれば、こんなナイフのような言葉を眞人に面と向かって投げるはずがない。夏子は強い女性である。その女性がこれほどまでに不安定になるほど、出産というのは母親を追い詰める。


・出産とは、生きるか死ぬかの世界に一人旅立ち、そこから子を連れて帰ってこなければならないという、命懸けの勝負である。そんな勝負の場では、必死で繕った仮面も、剥ぎ落とされてしまう。だからこそ、人知れず戦うために、一人きりで辿り着いたこの場所に、あろうことか眞人が入りこんでしまった。今まで、なんとか懸命に繕っていたのに。こんなに無防備な自分を、眞人にだけは見られたくなかったのに。



…すみません、予想に反して大分長くなってしまいましたので、前編・後編に分割したいと思います。今回はここまで。

後編はまとまり次第投稿します。
ここまで長文をお読みいただきありがとうございました。



2023年9月2日 追記
後編投稿しました。



〜ブログについて〜

音楽分析を主なコンテンツとしてブログを運営しております。
軽い読み物としてどうぞ。

音楽の話をしよう ~深読み、分析、そして考察。~

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?