Billy Pitt

英国史をはじめとするヨーロッパ史を中心に書きます。 18世紀から19世紀初頭に活躍した…

Billy Pitt

英国史をはじめとするヨーロッパ史を中心に書きます。 18世紀から19世紀初頭に活躍した大英帝国首相ウィリアム・ピット(小ピット)についてなど。

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最近の記事

モロカイ島のダミアン神父:Saint Damien of Molokai

序 観光客がにぎわうハワイは、陰ることのない常夏の楽園として世界中の旅行者を魅了している。 その楽園の一角――モロカイ島と呼ばれる小さな島の悲劇の歴史を知る者は少ない。そこには、不治の病に身体をむしばまれ、世から見捨てられた病人たちの絶望の日々があった。秒針は患者たちが生を終えるまでの時を刻み、日々登る朝陽は患者たちに死の瞬間がさらに一歩近づいたことを実感させた。 そのような死の島に1873年、一人のカトリック司祭が降り立った。ベルギー人聖職者ジョゼフ・ド・ヴォステル、

    • 第2代ロンドンデリー侯爵の死に関する記事

      200 Magazine Edition 3 August 1822/2022 没後200年記念

      • タレーランとピット

          ◇タレーラン、首相官邸を訪れる   1790年代初頭、フランス革命勃発後、ジャコバン派による圧政が強化され、貴族や聖職者に対する弾圧が公然と行われるようになると、多くのフランス人たちが祖国から逃げ出し、国外に避難所を求めた。イギリスにもドーバー海峡を渡って連日多くのフランス人たちが押し寄せ、政府はその対応に追われた。 亡命者の中には、フランスの政治家タレーランの姿もあった。タレーランは1792年より外交使節団の一員としてロンドンに滞在していたが、山岳派がクーデターに

        • Pod出版:ロシア・ウクライナ・ポーランド関連論文

          アマゾンにPod出版という出版方法があるということを知ったのは最近のことです。原稿を規格に合わせてアップロードするだけで、本が完成するのだという。出版費用もかからず、設定もそれほど難しくなさそうですので、いつか自分でもこの方法で本を作ってみたいと思っていました。 そこでこのたび、以前書いた論文をPod出版してみることにしました。 この論文については、これまで近所の印刷屋に持ち込み、簡易的に製本してもらい、読みたいという人に差し上げていました。 Pod出版という方法なら、こう

        モロカイ島のダミアン神父:Saint Damien of Molokai

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        • ウィリアム・ピット関連
          10本
        • 音楽関連雑記
          4本

        記事

          オペラ《王様の会議 Le Congrès des rois》(1794)

           1794年、イギリス首相ウィリアム・ピットはジャコバン派の台頭したフランスの状況について語る中で、こう述べた。 「(パリでは今)ローマ教皇の結婚など、あらゆる茶番が上演されている」  理性崇拝を掲げ、キリスト教教会の破壊に及んだ国民公会は、国王ルイ16世を断頭台で処刑したのみならず、公共のモラルや社会的常識までをも覆した。  こうした中、劇作家や音楽家は時世の要求する作品を猛スピードで書き上げ、劇場では君主制や旧来の国政を嘲笑する芝居やオペラが日々上演された。  ピット

          オペラ《王様の会議 Le Congrès des rois》(1794)

          グリエール《ザポロージャ・コサック》Op. 64(1921)とコサックについて

          レインゴルト・グリエール(1875-1956)はキエフ出身。モスクワ音楽院でタネーエフ、 アレンスキーらに師事し、作曲を学んだ。同時期にスクリヤービンやラフマニノフがモスクワ 音楽院に在学していた。音楽院卒業後、同校で教鞭をとる傍ら交響曲や室内楽作品の作曲を行った。ロシア革命後もモスクワに居住し作曲活動、教育活動に専念し1956年に他界した。 初期の作曲活動においてグリエールは後期ロマン主義時代に特徴的な「伝統的な音楽語法からの離脱、もしくはその拡張」を試みると同時に、チャ

          グリエール《ザポロージャ・コサック》Op. 64(1921)とコサックについて

          Pitt Family Tree ピット首相の先祖

          ウィリアム・ピット首相(William Pitt the Younger: 小ピット)の家系図。(判明分のみ記載。配偶者については省略)。ノルマンディー出身のフランス人Gervase de la Puetteは12世紀に軍人としてイングランドに渡り、定住したと考えられる。息子トマスはイングランドで誕生している。姓の綴りはPuette, Pitte, Putte, Pyte, Pyts, Pitts, Pittなど、多様である。ピット首相の曽祖父トマス・ピットも青年時代にPit

          Pitt Family Tree ピット首相の先祖

          スピットヘッドのイギリス海軍の叛乱(1797年)

            1797年、ヨーロッパはフランス革命戦争の戦火に包まれていた。フランス軍が勢いを盛り返す中、第1次対仏大同盟は劣勢となり、1796年にはスペイン軍がフランス軍に撃破されて同盟から離脱した。スペイン海軍を手中に収めたフランス海軍がイギリスにとって大きな脅威となる中、ジョン・ジャーヴィス提督指揮下のイギリス艦隊が、サン・ヴィセンテ沖でスペイン艦隊を撃破した(1797年2月)。この戦勝の報は、イギリス国民に希望を与えた。海軍の軍功は大いにたたえられ、ジャーヴィス提督はセント・ヴ

          スピットヘッドのイギリス海軍の叛乱(1797年)

          パノプティコン:ベンサムとピット首相

             1791年初頭――  その日、秘書が届けてきた書状の束の中に、ウィリアム・ピット首相は面白い手紙を見つけた。差出人は哲学者ジェレミ・ベンサム。手紙には「パノプティコン」という名の刑務所の概要と建設計画が記されており、設計図も添えられていた。  数年かけてこのパノプティコン計画を書き上げたベンサムは、アイルランドとロンドン市内で建設計画を実現させたいと思い、議会に上程することを思い立った。そこで、以前会ったことのあるピット首相に、相談してみることにしたのである。  ここ

          パノプティコン:ベンサムとピット首相

          エッセイ:「コヘレトの言葉」とバシレイオスの『修道士大規定』について

          旧約聖書の「コヘレトの言葉」は知恵文学の一つとして正典に採用され、古代社会の教育において役割を果たしてきた。文中で「すべてが空しい」「風のようなもの」であると厭世的な感情を反復させる「コヘレトの言葉」は聖書全体においても、とりわけ異色な存在である。こうした特色を有する「コヘレトの言葉」について特に関心を抱いた点は、その成立過程、当時の社会における知恵文学の役割、後世における受容形態についてである。このような関心のもと、ここでは、4世紀に書かれた聖大バシレイオスの『修道士大規定

          エッセイ:「コヘレトの言葉」とバシレイオスの『修道士大規定』について

          マルティン・ルターの讃美歌《神はわがやぐら》について

          讃美歌《神はわがやぐら Ein feste Burg ist unser Gott》は16世紀のドイツの聖職者マルティン・ルターによって作曲された。キリスト教徒にとって馴染み深いこの讃美歌は、果たしてどのような経緯を経て作曲されたのだろうか。ここではルターの宗教改革時の取り組みの一つである讃美歌の作曲と、後世に与えた影響について述べたい。 1.宗教改革の発端 1517年にルターによって行われた宗教改革は、ヨーロッパに古くから根付いていた宗教的価値観を一転させた。その影響

          マルティン・ルターの讃美歌《神はわがやぐら》について

          カースルレー子爵とネルソン提督は遠縁であるというはなし

          前回、カースルレー子爵とウィリアム・ピット首相は遠縁であるというお話をしましたが、今日は、カースルレー子爵とネルソン提督が遠縁であるというお話です。 まず、カースルレー子爵ロバート・ステュワート(第2代ロンドンデリー侯爵)の母方の家系を遡ってみます。カースルレーのお母様サラ・フランセス・シーモア=コンウェイ(1747 - 1770)はロバートが1歳の頃に亡くなり、ロバートは祖父母のもとで可愛がられました。 母方のお祖父さんである初代ハートフォード侯爵フランシス・シーモア=

          カースルレー子爵とネルソン提督は遠縁であるというはなし

          ウィリアム・ピットとカースルレー子爵は遠縁であるというはなし

          ウィリアム・ピット首相(小ピット)の家系図を追っていくと、イングランド史に名を残すジョージ・ヴィリアーズ(1592-1628)が先祖に登場し、かなり遠縁になりますが作家ジェーン・オースティンもピット家の家系図の中に登場します。 今回は、ピット首相の側近であり友人、その後継者であったた第2代ロンドンデリー候ロバート・ステュワート(前回のおはなしで可哀そうな経験をしたカースルレー子爵)がピットの家系図の中に登場するというおはなし。 二人の間に血縁はありませんが、意外なところでつな

          ウィリアム・ピットとカースルレー子爵は遠縁であるというはなし

          ピットとウェリントン公:18世紀のビー玉遊び

            1880年に出版されたWilliam Clarke “The Boy's Own Book, A Complete Encyclopædia of Sports and Pastimes“(Crosby Lockwood, 1880)は、19世紀の男の子たちの遊びについて記した本。18世紀・19世紀の歴史書や小説にしばしば登場するビー玉遊びについても言及されており、本書にはいくつかの遊び方が紹介されている。   ウィリアム・ピット首相(小ピット)やウェリントン公の伝記な

          ピットとウェリントン公:18世紀のビー玉遊び

          「この世に永遠の敵は存在しない」:小ピットの言葉とオペレッタ《コシチューシコ》

           1786年にイギリスとフランスが長年の敵対関係を解消して通商条約を締結したとき、当時のイギリス首相ウィリアム・ピットは「この世に永遠の敵は存在しない」と議会で述べました[1]。イギリスとフランスは非常に長い間敵対関係にあり、両国の間に灯る憎悪の炎は消すことができないと思われていました。ところが、ピット首相は通商条約によってこの関係を改善させ、共にに財政危機を乗り越えることを目指し、議会に承認を求めました。  「この世に永遠の敵は存在しない」——首相の言葉は、当時、なかなか理

          「この世に永遠の敵は存在しない」:小ピットの言葉とオペレッタ《コシチューシコ》