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マルティン・ルターの讃美歌《神はわがやぐら》について

讃美歌《神はわがやぐら Ein feste Burg ist unser Gott》は16世紀のドイツの聖職者マルティン・ルターによって作曲された。キリスト教徒にとって馴染み深いこの讃美歌は、果たしてどのような経緯を経て作曲されたのだろうか。ここではルターの宗教改革時の取り組みの一つである讃美歌の作曲と、後世に与えた影響について述べたい。

1.宗教改革の発端

1517年にルターによって行われた宗教改革は、ヨーロッパに古くから根付いていた宗教的価値観を一転させた。その影響は計り知れなく、間もなくドイツ各地の諸侯や北欧諸国がルターを支持し、カトリック教会から離脱した。こうした中、ルターは著書『キリスト者の自由』を著し(1520年)、キリスト者は最も自由な主であり、何者にも隷属していないと主張した。
宗教改革を進めるに当たりルターが推し進めたのは、典礼の刷新であった。しかしながら、この刷新はローマ・カトリック教会の典礼を全面的に排除するものではない。むしろ、古くからのミサの要素を生かしつつ、独自の方法を編み出したといえる。典礼刷新の第一段階はラテン語の典礼文の後に、会衆によるドイツ語の讃美歌が挿入されたことである。1526年にはドイツ語によるミサが制定された。

2.ドイツ語による宗教歌への寄与

ドイツ語礼拝が定着化すると、会衆が歌うための讃美歌(すなわちコラール音楽)が必要とされた。音楽的な素養のない一般会衆のためとあって、讃美歌には平易な旋律とわかりやすい歌詞が不可欠とされた。ルターは合計36曲の讃美歌を自ら作曲し[1] 、礼拝に用いた。従来カトリックの典礼では、ラテン語による聖歌が歌われるのが一般的であったが、中世後期において、世俗音楽からの影響を受けた宗教歌がドイツ語によって歌われたことが明らかとされている[2] 。しかしこれらの宗教歌は限定的な地域で歌われていたと考えられ、ドイツ語宗教歌の発展に寄与するには至らなかった。これに対し、ルターの讃美歌は同時代と後世に影響力を発揮した。宗教改革後にドイツ各地で書かれたドイツ語歌詞の讃美歌は、ルターの影響によるものと考えられる。ハイネはまたルターの歌詞を絶賛し、「ドイツ文学の始祖」と呼んでルターを称賛した[3] 。

3.コラール音楽発展への寄与

ルターの讃美歌の旋律の多くはモノフォニー(単旋律)であり、歌詞の内容と合致させた多彩なリズムを有する。ルターは職業作曲家ではなかった。しかし、その幅広い音域を有する豊かな旋律は当時高く評価され、後世に歌い継がれ現在に至る。また、ルターの影響を受けて、讃美歌の作曲はドイツの作曲家たちの主要な仕事となり、後には、コラール音楽という一つのジャンルが花開いた。バロック期、バッハやテレマンの時代になると、コラールはより複雑な和声を有するようになり、礼拝における讃美歌という枠組みをこえて、演奏されるようになった。また、バッハの《コラール前奏曲》に見られるように、コラールは鍵盤楽器をはじめとする言葉を伴わない音楽の発展にも貢献した。

4.讃美歌《神はわがやぐら Ein feste Burg ist unser Gott》

ルターの讃美歌は各国語に翻訳され、多くの人々に親しまれるようになった。その中でもとりわけ有名な一曲は《神はわがやぐら》である。この讃美歌が作曲されたのは1528年頃であると考えられる。作曲の具体的な経緯については不明であるが、ルターがこの作品を書いた頃、ドイツではペストの流行とその終息があり、ルター家においては息子のハンスが重篤な病を克服し、また、娘エリザベートが誕生するなど、ルターは苦難と幸福の入り混じった日々を過ごしていた[4] 。そうした中、ルターは詩編46番に基づき、この讃美歌を作詞作曲した。

かみはわがやぐら わがつよきたて/くるしめるときの ちかきたすけぞ/
おのがちから おのがちえを たのみとせる/よみのおさも などおそるべき[5]

この讃美歌は時代を超えて愛唱され、後世の作曲家がその旋律を作品に用いている。例えば、バッハは《カンタータ》BWV80(1715年作曲、1724年改作)の冒頭のコラールにこの旋律を用いており、メンデルスゾーンもまた《交響曲第5番 宗教改革》op.107(1829年作曲)の第4楽章にこの讃美歌の旋律を取り入れている。
また、この讃美歌は19世紀以降、愛国心を喚起させる革命歌のイメージを有するようになったとも考えられる。これについてハイネはエッセイÜber Deutschlandに次のような一文を書き記している。

 ルターとその一味がウォルムス へのりこむ際、歌った壮大な歌[《神はわ がやぐら》]は軍歌であった。ウォルムスの古い寺院は、あの新しい歌の響きによって震撼したことだろう。(……)あの歌、ドイツ宗教革命のマルセイユ[ラ・マルセイエーズ]ともよばれうるあの歌は今も尚、人民を奮い立たせる力を維持し続けているのだ[6]。

 ハイネがこのエッセイを著したのは1834年である。1830年のフランスの7月革命やポーランドの独立蜂起の直後ということもあり、ヨーロッパ中が暴動や抗議行動などで揺れ、とりわけドイツ連邦においては統一を目指す動きが激化しつつあった。そのような中、ハイネは19世紀の革命の時代とルターの時代を重ね合わせ、ルターを一人の革命家として賛美し、ルターの讃美歌《神はわがやぐら》をフランスの革命歌《ラ・マルセイエーズ》と重ねて称賛したのである。讃美歌と革命歌という一見相反する対象が、ルターの讃美歌を通じて結ばれた興味深い例である。また、1871年ドイツ帝国成立の際、ワーグナーは《皇帝行進曲》を作曲してビスマルクに献じた。その中間部において、《神はわがやぐら》がドイツ帝国の栄光を讃えるべく、管楽器によって奏でられる。
ルターの教会改革へ向けた一途な取り組みは、多くの人々の共感を呼んだ。しかし、聖職者ルターのイメージは時を経て変化し、革命家、戦士としてのイメージに塗り替えられるに至ったのである。

5.結び

 以上、ルターの讃美歌作曲が後世に与えた影響について記した。ルターの最大の功績は宗教改革という取り組みそのものであり、音楽はルターの活動のごく一部分でしかない。しかし、彼が改革を進めるにあたって着手した讃美歌の作曲は、会衆を教会へと誘うのみならず、同時代や後世の作曲家に影響を与えることとなったのである。こうした事実は西欧の音楽がいかにキリスト教と切り離しがたいものであるかを証明し、改革に込めたルターの意志が、讃美歌が歌われる限り永遠に生かされるのだということを我々に示しているのである。

文・大嶋かず路

[1]全てがルター自身の作曲か否かについては異論があり、中にはグレゴリオ聖歌の旋律から着想を得て書かれた曲もある。

[2]横板康彦『教会音楽史と讃美歌学』東京:日本キリスト教団出版局、2011年、25頁。

[3]Heine, H., Über Deutschland, in Heinrich Heine‘s Sämmtliche Werke4, Hamburg: Hoffmann und Gampe, 1868, p. 94.

[4] Rein, W., The life of Martin Luther, New York: Funk and Wagnallis, 1883, p. 147.

[5]『讃美歌第1,2篇』讃美歌委員会編、警醒社出版、共同刊行教文館、1910年、256頁。

[6]Heine, H., op. cit., p. 94.

参考:[音楽関連]H.M.ミラー『新音楽史』村井範子他訳、東京:東海大学出版会、2000年。[宗教改革関連]永田諒一『宗教改革の真実――カトリックとプロテスタントの社会史』東京:講談社現代新書、2004年。

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