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スピットヘッドのイギリス海軍の叛乱(1797年)


  1797年、ヨーロッパはフランス革命戦争の戦火に包まれていた。フランス軍が勢いを盛り返す中、第1次対仏大同盟は劣勢となり、1796年にはスペイン軍がフランス軍に撃破されて同盟から離脱した。スペイン海軍を手中に収めたフランス海軍がイギリスにとって大きな脅威となる中、ジョン・ジャーヴィス提督指揮下のイギリス艦隊が、サン・ヴィセンテ沖でスペイン艦隊を撃破した(1797年2月)。この戦勝の報は、イギリス国民に希望を与えた。海軍の軍功は大いにたたえられ、ジャーヴィス提督はセント・ヴィンセント伯爵に叙爵され、その部下ホレーショー・ネルソンはバス勲章の叙勲を受けた。艦隊のキャプテンにはメダルが授与され、上級将校には昇進が約束された。[1] 

    その一方、水兵ら下位階級の乗組員たちは劣悪な環境に置かれたまま。褒賞を与えられることもなければ、待遇が改善されることもなかった。兵士の多くは強制徴募によって無理やり海軍に入隊させられた者たちであり、低賃金と非衛生で粗末な食事、上官らによる厳しい体罰に日々耐えていた。[2]
 海軍の徴兵方法については、政府内でも見直すべきだとの声もあった。1795年には各州に対して海軍への人員派遣を求める法が制定され、毎年一定数の男子が各地域から海軍に送り込まれた。それにもかかわらず、海軍の上層部は強制徴募(プレス・ギャング)という旧来の徴兵制度を変えることに消極的であった。その結果、多くの者が手錠をかけられ、強制的に船に乗せられたのだった。

 1796年暮れ、海峡艦隊の乗組員たちが労働条件と船内の環境改善を求めて、海軍大臣スペンサー伯に嘆願書を送った。これらの書状は、実際、スペンサー伯の手に届くことはなかった。海軍本部に届く前に、葬り去られたのである。その後、保養地バースに逗留中の元海軍提督ハウ伯のもとに、11通の嘆願書が送付された。1794年にフランスとの海戦でイギリス海軍を大勝利に導いたハウ伯は、誠実な人柄ゆえに下士官や水兵たちから信頼されていたのである。

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       Richard Howe, 1st Earl Howe (1826-1799)

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       Lord Hugh Seymour(1759-1801)

 嘆願書を読んだハウ伯は海軍中将ヒュー・シーモア卿を嘆願書の発送地ポーツマスに派遣し、艦隊の乗組員の状況を報告させた。[3]ポーツマスで安全を確認したシーモア卿は海軍本部を訪れ、海軍大臣スペンサー伯に状況を説明した。スペンサー伯は海軍内部に不満が膨張しつつあることを初めて知り、愕然とした。乗組員が自分に嘆願書を書いたことさえ、知らずにいたのである。[4]

   
 1797年3月末、スペンサー伯は海峡艦隊のブリッドポート提督から一通の書状を受け取り、スピットヘッドに停泊中の艦隊の乗組員たちが不満を募らせていることを知った。海軍大臣は即座にブリッドポートをロンドンに召還し、風向きが変わり次第、セント・ヘレンズ(ワイト島)へ出港するよう命じた。ブリッドポート提督はスピットヘッドに引き返し、4月16日、H. M. S.ロイヤル・サブリンのガードナー提督に出帆を命じた。

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                         George Spencer, 2nd Earl Spencer(1758-1834)

 その頃、艦内では嘆願書を送った乗組員たちが、海軍本部から一向に回答を得られないことに不満を鬱積させていた。絶望感を募らせた船員たちはガードナー提督の命令を拒否し、出港を拒んだ。上官に対するこのような「勇気ある背信行為」は、各艦の船員たちを活気づけた。叫び声と共に、H. M. S. クィーン・シャーロットの乗組員たちが給与の引き上げを訴えて暴れ出した。船員たちは訴えた。陸軍の昇給はたびたび行われているにもかかわらず、戦争の主力である海軍の給与については百年前(チャールズ2世治世時)に設定されたまま。一向に変更されないのはおかしい。ブリッドポート提督は部下をロンドンに走らせ、海軍大臣に叛乱の勃発を伝えた。[5]
 翌朝、スペンサー伯は首相官邸に急ぎ、ピット首相に叛乱の経緯について説明した。嘆願書に目を通したピットは、階級、職種に応じた上限4シリングの賃上げに同意し、スペンサー伯ほか3名を政府代表としてスピットヘッドに派遣することにした。その晩、ロンドンを発った4名の代表者は翌朝現地に到着し、近隣の宿屋に対策本部を設置した。[6]

 その頃、スピットヘッドに停泊する16隻の軍艦の代表者、計32人がH. M. S.クイーン・シャーロット号に集結し、今後の計画を話し合っていた。
 叛乱兵たちは、賃上げ交渉に応じるという政府代表のメッセージを受け取ると、騒然となった。それで満足した者もいれば、賃上げだけでは足りないと叫ぶ者もあった。32人は意見を出し合い、最終的に「最大限の要求」を政府に突き付けることで一致した。夕刻、叛乱兵たちは政府代表に提案の拒否を伝えた。その上で、新たな要求文を政府代表に送った。それらは「家族を養うことができるだけの給与の保障、食糧の質と量の改善、野菜の配給、疾病者・負傷者への給与の支払い、寄港先での陸上休暇、航海中にはいかに自己管理を徹底したところで病気になることがあることを理解してほしい」という、至極妥当な要求であった。[7]

 その一方、政府代表は更なる賃上げを提示し、叛乱兵に受諾するよう求めた。双方の主張を携えて政府代表と叛乱兵の間を往復したガードナー中将は、譲歩案を拒んで「国王直々の恩赦」を求める叛乱兵たちに腹を立てた。

「お前たち、政府の提案を受け入れろ。さもなければ、全員絞首刑にする!」

 この一言があだとなり、叛乱兵とガードナーの間で諍いが起こった。叛乱兵はガードナーを船から引きずり降ろして交渉の道を絶った。さらに、横柄な、いけ好かない将校たちをまとめて船から追い出した。温厚で理解のある将校たちは船内に留まることをゆるされたが、実際、捕虜として留め置かれたも同然であった。[8]

 事態の悪化を見たスペンサー伯はロンドンへ急ぎ、ピット首相に現状を説明した。4月22日朝、首相はウィンザー城に閣僚と海軍本部委員会のメンバーを招集し、陸上休暇以外の全ての要求を承諾することで合意を得たい、と述べた。出席者は全会一致で、ピットに同意した。国王もまた閣議の決定に同意し、叛乱兵全員に恩赦を与えることを約束した。[9]
 スピットヘッドに戻ったスペンサー伯は、翌4月23日の朝、国王の宣言文のコピーを各艦隊の提督に渡し、事態の収束を図った。ブリッドポート提督がH.M.S.ロイヤル・ジョージに乗り込み、国王勅語を読み上げると、船員たちは一斉に喜びの歓声を上げた。停泊中の戦艦から、抗議を示す赤い旗が次々と取り去られる中、H.M.S.クィーン・シャーロット、H.M.S.マース、H.M.S.マールボロの三隻は依然として赤い旗を掲げ、不満を表明し続けた。三隻の叛乱兵たちは、国王勅語が偽物ではないかと疑っていたのである。そこで、政府代表はコピーではなく、ジョージ三世の署名入りの原本を代表者に見せることにした。すると、間もなく、3隻から赤い旗が取り除かれた。出帆の準備を終えた軍艦が次々と錨を上げ、セント・ヘレンズに向けて出港して行った。5隻がスピットヘッドから動かずにいたが、事態は間もなく収束すると思われた。[10]

 海軍が軌道を取り戻しつつある中で、政府は乗組員の給与に関する迅速な法の改定が求められた。枢密院に委員会が設置され、法改定に関する議論が開始された。ここで、大きな問題が生じた。委員会のメンバーはこれが急を要する案件であるとの認識に欠け、叛乱兵に示した「5月3日までに法の改定を行う」との約束を守らなかった。首相官邸では、ピットが海軍の給与の見直しにかかっていた。月額5シリング前後の昇給を行うとして、年額五十三万六千ポンド が必要になると見積もり、追加予算案を立てた。[11]
 問題は、その費用をいかに捻出するかである。ピットは印紙、新聞、広告に対する税を引き上げ、装飾用プレートを新たな課税対象とすることで、昇給の実現に望みをかけた。首相は追加予算案と増税案を5月5日に庶民院に提出することにしたが、カレンダーを見れば、次回の議会の開催は5月8日である。ここで、さらに3日間の延滞が生じることになった。[12]

 政府の決定を待つ乗組員たちは、約束の5月3日を待っても法の改定が行われないことで、不安に駆られた。兵士たちは法の改定が煩雑な手続きを要することを知らず、すぐにでも行われると思っていたのである。しびれを切らした乗組員たちは、再び不満を募らせはじめた。
 そうした中、5月3日に貴族院で行われた討論の詳細を記した新聞の最新号が、事態を悪化させた。新聞を読んだ乗組員たちは、法改定を撤回させようとする一部の議員の意見に目を止め、政府に対する不信を募らせたのである。それだけではない。5月初頭に海軍本部が起草した「叛乱を強硬手段で終息させることを命ずる文書」の存在が、艦隊の乗組員たちの間に知れ渡り、5月7日、再び叛乱の火の手が上がった。[13]
 第二の叛乱は、スピットヘッドから遠からぬセント・へレンズで起きた。乗組員たちがまたしてもブリッドポート提督の命令に背いて、艦内に立てこもったのである。この一報を受けたH.M.S.ロンドンのコルポイズ提督は叛乱の火が自らの艦に及ぶことを恐れ、水兵たちを甲板の下に閉じ込めようとした。憤慨した水兵たちが暴れ出すと、慌てたコルポイズは部下に発砲を命じ、最悪の事態を引き起こしてしまった。これが引き金となり、大規模な叛乱が発生。コルポイズ提督を含む3人の将校が叛乱兵によって拘束され、危うく絞首台に送られる騒ぎとなった。[14]

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      Alexander Hood, 1st Viscount Bridport(1726-1814)

 その頃ロンドンでは、海軍の乗組員に対する待遇改善と新たな増税案が議会で議題として取り上げられていた。法案が両院で可決されると、ピット首相は国王のもとに急いだ。この1ヶ月間 、眠れぬ夜を過ごしていた国王は、事態が再び悪化したことを憂慮していた。叛乱兵への恩赦を示してから、既に二週間が経過するというのに、何をぐずぐずしているのかと、政府に対していら立ちを募らせてもいた。そこへ、ピットが法案の承認を求めて訪れた。国王は憤慨し、やりたくないことを後回しにするなと、首相を叱りつけた。[15]


 政府の要請を受けて、ハウ伯爵が急遽バースからロンドンに戻り、政府の決定を携えて、スピットヘッドへ馬車を走らせた。
 鼻持ちならない政府の役人ではなく、ハウ提督が調停役として訪れたことで、叛乱兵たちは態度を一転させた。乗組員の中には、声をあげて再会を喜ぶ者もあった。ハウ伯が各艦を回り、政府の決定と国王勅語を読み上げると、叛乱兵たちは歓声を上げ、艦内に閉じ込めていた3人の捕虜を解放した。ハウ伯はまた、下士官や水兵との関係を乱す問題のある将校を移動させることも約束した。[16]

 スピッドヘッドでの海軍の叛乱は、このようにして、一人の逮捕者を出すことなく解決した。
 国王の不安と怒りを一手に受けたピット首相は、何も事態を甘く見てぐずぐずしていたわけではなかった。首相の頭には、叛乱が勃発した当初から、大きな疑念が占めていた。それは、この一連の事件が予め計画されていたものであり、この背後にロンドン通信協会やアイルランドのユナイテッド・アイリッシュメンなど、急進的な反政府組織が関与しているのではないかということであった。ピットの周囲でも、この叛乱が「革命的」であると見ていた者も多い。なぜなら、叛乱兵たちの動きは計画性を感じさせるものであり、ハウ伯に宛てた請願書や政府に突き付けた要求文は、高い教育を受けた者によって書かれたことが明らかであったからである。[17]
 首相は陸軍大臣と共に、情報網を駆使して事件の黒幕について探りを入れたが、決定的な証拠をつかむことはできなかった。


 スピットヘッドの叛乱は一応の解決を見たが、これで一件落着というわけにはいかなかった。この事件が火付け役となって、海軍全体に鬱積していた不満が連鎖的に火を噴き始めたのである。
 海峡艦隊に続き、北海艦隊で叛乱の火の手が上がった。政府がその火消しに翻弄される中、テムズ川河口のノアで叛乱が起きた。そして世は、首相が胸に抱き続けた疑念がいよいよ現実のものとなったことを知り、震撼することになったのである。

Kazumi Oshima


[1]Mahan, A. T., Influence of Sea Power on the French Revolution, Boston: Little, Brown, and Company, 1898, pp, 216-218.
[2]Knight, Chalres, The Popular History of England, London and New York: Frederick Warne and Company, 1883, vol. VII, p. 339.
[3]Manwaring, George and Bonamy Dobree, The Floating Republic, London: Geoffrey Bles, 1935, p. 24.
[4]Ibid.
[5]Ibid., p. 32. 
[6]Ibid., p. 42. Bryant, Arthur, The Years of Endurance, New York: Harper and Brothers Publishers, 1942, pp. 187-188.
[7]Fuller, Edmund, Mutiny!, New York: Crown Publishers, 1953, p. 97.
[8]Bryant, op. cit., p. 189.
[9]Manwaring and Dobree, op. cit., p. 76.
[10]Bryant, op. cit., pp. 189-190.
[11]Hague, William, William Pitt the Younger: A Biography, London: HarperCollins Publishers, 2005, p. 434.
[12]Ibid., p. 434.

[13]Bryant, op. cit., p. 191.
[14]Ibid., pp. 189-190.
[15]Hague, op. cit., p. 434.
[16]Langley, Harold D., Social Reform in the United States Navy, 1798-1862, Annapolice: Naval Institute Press, 2015, p. 134.
[17]Knight, op. cit., p. 338.


Neale, William Johnson, History of the Mutiny at Spithead and the Nore: With an Enquiry Into Its Origin and Treatment ; and Suggestions for the Prevention of Future Discontent in the Royal Navy, London: Thomas Tegg, 1842.



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