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パノプティコン:ベンサムとピット首相

 

 1791年初頭――
 その日、秘書が届けてきた書状の束の中に、ウィリアム・ピット首相は面白い手紙を見つけた。差出人は哲学者ジェレミ・ベンサム。手紙には「パノプティコン」という名の刑務所の概要と建設計画が記されており、設計図も添えられていた。
 数年かけてこのパノプティコン計画を書き上げたベンサムは、アイルランドとロンドン市内で建設計画を実現させたいと思い、議会に上程することを思い立った。そこで、以前会ったことのあるピット首相に、相談してみることにしたのである。
 ここでベンサムの伝記『Works』 に基づき、ピットとベンサムが知り会った経緯について述べよう。
 1781年9月、新人の議員として庶民院に足を踏み入れたばかりの頃、ピットはボーウッドのシェルバーン伯爵の邸を訪問したことがあった。
 兄のジョン・チャタム伯、友人のジョン・プラット(後の第2代カムデン伯)、ケンブリッジ大時代の友ヘンリー・バンクスとともにシェルバーン邸の前に降り立ったピットは、屋敷に通されてすぐにサロンの客人たちと引き合わされた。その一人がベンサムだった。
 ベンサムは、雄弁家ピットを前に緊張し、共通の話題を持てるかどうか心配したという。ベンサムの目に映ずる22歳のピットは、議会で見かけるときと印象は異なり、話し方もシンプルなら、所作も極めて控えめだった。品性は良さそうではあるが、少々生意気そうに見えたともいう。
 変に生真面目で理屈屋、容姿も話し方も個性的なベンサムは、このときシェルバーン伯夫人の妹キャロラインと、ホイッグ党の国会議員チャールズ・フォックスの姪で同じくキャロラインという名の少女に同時に恋をしていた。キャロライン・フォックスへの憧憬は、やがて盲目的となり、愛の形象としてベンサムはパノプティコンを発案したのだった。
 
 シェルバーン伯の夜会では、チェスやホイストなどのゲームが行われていた。ベンサムとピットはチェスの前に座り対戦を楽しんだ。ベンサムはチェスの名人であり、初戦でピットは負けた。ジョン・チャタム伯がすぐにベンサムと対戦し、弟の敵を討った。
 ベンサムの目にはまた、ピットは冷淡に映ったようである。他人に興味を抱くことも、愛想を言うこともなかった、とベンサムは記している[1]。
 あるとき、二人で乗馬に出たことがあった。ベンサムの馬は荒く、扱いが困難だったため、先を走っていたピットにスピードを落としてほしいと頼んだ。ピットはすぐに引き返してきた。だからと言って、大丈夫ですか? などと声をかけるわけでもない [2]。呆れるほど不愛想なのである。
 無言のまま、ただペースを落として歩調を合わせるピットのことを、ベンサムが「なんて感じの悪い男なのだろう」と思ったところで不思議はない。雄弁家のピットが実は極度な人見知りであり、初対面の人と打ち解けるまでに時間がかかるという事実は、ほとんど知られてはいなかったのだから。

 そのベンサムが今、キャロライン・フォックスへの愛の結晶なる「パノプティコン」刑務所計画をピットに送ってよこし、議会にかけてほしいと言う。
 ベンサムの著書『パノプティコンと監視舎』によると、その建物はパンテオンを思わせる円形の建物である。中央の円錐形の監視所をぐるりと囲むような形で、囚人たちの独房が配置されている。監視所からは囚人たちの行動が、監視できるようになっている。各部屋で囚人たちは職業訓練を受け、実際にそこで仕事に従事することになる。囚人たちは暇を持て余すことなく仕事に励み、自分たちで生計を立てることを学び、実践するのである 。この計画は、犯罪者や貧困層の幸福度を上げることで、社会的な幸福が最大限に拡大される、とのベンサムの考えに基づくものである。

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 手紙と設計図に目を通したピットは、ベンサムの案に関心を抱いた。刑法の改定につながる案件であるだけに、すぐに動かすことはできなかったが、アイデアとしては決して悪くはない。
 ベンサムは自腹を切ってモデルハウスを建て、公開した。見学に訪れた議員たちの印象はまずまずであり、フォックスやピットの友人ウィルバーフォースら強くそれを推す者もあった。
 こうした経緯を経て、庶民院で刑務所制度に関する法案が議題に上げられた。この法案には、ベンサムの刑務所計画も取り入れられていた。賛否両論であったが、ピットはベンサムの計画に賛成票を投じた。フォックス、ヘンリー・ダンダス、ウィルバーフォースもピットに続いた。
 法案は両院を通過し、財務省はベンサムのプロジェクト対して2千ポンドの支払いを決定し、ピットは財務大臣としてその文書に署名した[3] 。時間と費用は要したが、1790年代末、ベンサムはテムズ川河畔にこの刑務所を建設する段階にまでこぎつけた。ところが、いざ、着工という段階になって、土地所有者であるスペンサー伯の反発にあい、建設計画は宙に浮いてしまった。
 結論から言えば、ベンサムのパノプティコンの夢は実現されず、計画のままに終わったのであった。
 ベンサムは計画の頓挫の原因を、国王にあると見ていた。ジョージ3世のベンサムに対する個人的な偏見が、議会の決定を妨げ、パノプティコンの夢を打ち砕いたのだと信じて疑わなかった [4]。
 それ以降――いや、恐らくそれ以前から――ベンサムはピットの政策について悪く言った。批判を繰り返し、友人や家族に宛てた手紙に多くの悪口を書いたが、それらがピットの政策に直接的に影響を与えることはなかった。
 1811年、政府はパノプティコン計画の廃案を正式に決定し、ベンサムには損失した費用の保障として2万3千ポンドを支払うことで、幕を引いたのだった[5] 。

K. O.

[1]Bentham, Jeremy, The Works of Jeremy Bentham, Published Under the Superintendence of His Executor, John Bowring, vol. 10, Edinburgh: W. Tait, 1843, p. 119.

[2]Ibid.,  p. 119.

[3]Great Britain, Parliament, House of Commons, Reports from Committees of the House of Commons which have been printed by order of the House and not inserted in the Journals, vol. 8, 1803, p.364.

[4]Quinault, O'Brien, The Industrial Revolution and British Society, Cambridge, Cambridge University Press, 1993, p. 172. 

Mackay, Thomas, A History of the English Poor Law: In Connection with the State of the Country and the Condition of the People, vol. 3, London: P. S. King & Sons, 1899, p. 44.

[5]Quinault, O'Brien, The Industrial Revolution and British Society, Cambridge, Cambridge University Press, 1993, p. 172.

参考:

Bentham, Jeremy and Miran Božovič, The Panopticon Writings, London: Verso Books, 1995.

土屋恵一郎『怪物ベンサム:快楽主義者の予言した社会』東京:講談社、2012年。



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