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オペラ《王様の会議 Le Congrès des rois》(1794)

 1794年、イギリス首相ウィリアム・ピットはジャコバン派の台頭したフランスの状況について語る中で、こう述べた。

「(パリでは今)ローマ教皇の結婚など、あらゆる茶番が上演されている」

 理性崇拝を掲げ、キリスト教教会の破壊に及んだ国民公会は、国王ルイ16世を断頭台で処刑したのみならず、公共のモラルや社会的常識までをも覆した。
 こうした中、劇作家や音楽家は時世の要求する作品を猛スピードで書き上げ、劇場では君主制や旧来の国政を嘲笑する芝居やオペラが日々上演された。
 ピットの述べる「あらゆる茶番」の一つに、1794年に上演されたオペラ《王様の会議Le Congrès des rois》がある。各国の君主を嘲笑し、侮辱する内容のこの作品は、イギリス人の目から見れば当然、低級な茶番と言うことになるが、実際にこの作品の完成度は低く、たった2回の上演で打ち切られた。

当時の劇場の演目
 
 当時、コミック劇場では政治的、愛国的な内容の作品が頻繁に上演されていた。1794年1月4日には、共和制の家庭の事情を描いたピュイゼギュール侯爵アマン=マリー=ジャック・ド・シャストネのボードヴィル、19日には、劇作家セウランの愛国詩による《快楽と栄光》(音楽:ソリエ)、21日には、フランス軍によるトゥーロンの占領を描いたコミックオペラ(歌詞:アレクサンドル・デュヴァル、音楽:ルミエール・ド・コルヴェイ)が上演された。
 2月5日には、デュヴァルとコルヴェィによる3幕の喜劇オペラ《アンドロスとアルモナ》《バソラのフランス人哲学者》の初演が行われている。
 オペラ《王様の会議》(全3幕)の上演は2月24日に行われた。台本は当時、無名であった作家イヴ・デマイヨー(Ève Demaillot)が担当し、作曲にはグレトリ、メユール、ケルビーニ、ダライラック、ベルトン、クロイツァー、ドヴィエンヌ、ソリエ、ジャダン、ブラジウス、デシェイズ、トリアルら12人のフランスを代表する音楽家が加わった。

創作の背景

 オペラ《王様の会議》は、大掛かりな作品であり、創作や上演に携わった者の数は圧倒的に多い。
 発案者と創作までの経緯については不明であるが、国際社会におけるフランスの危機的な状況が、本作品誕生の契機となったと考えられる。
 フランス革命の勃発を経て、緊張関係にあったフランスとオーストリアの関係が破綻し、1792年4月、フランスとオーストリアの間で戦争が勃発した。イギリスは当初、中立を守ったが、同盟国ネーデルランドがフランスの侵攻に脅かされ、オーストリアが南ネーデルランドをフランスに引き渡すなどの経緯を受けて、フランスに対する態度を硬化させた。1793年1月にフランス革命政府が国王ルイ16世を処刑したことで、英仏の関係は破綻し、同年2月、フランス政府がイギリスとネーデルランドに宣戦布告した。
 イギリス首相ピットはスペイン、オーストリア、プロイセン、ロシアなどに呼び掛けて対仏大同盟を結成した。フランス軍は反革命勢力の躍進と、対仏同盟軍の進撃に手を焼き、各地の戦闘で撤退を余儀なくされた。国民公会はこの苦境の原因としてピットを名指しで非難した。こうした中で、オペラ《王様の会議》が着想され、上演されるに至ったと考えられる。

《王様の会議》の内容

 あらすじ:対仏大同盟参加国の君主たちがプロイセンの宮廷に集まり、フランスの領土分割統治について会議を開いた。会議の席に着いたのはイギリス国王ジョージ3世、首相ピット、スペイン王、サルデーニャ王、ナポリ王、プロイセン国王、ロシアの女帝エカテリーナ2世の代理人である。ローマ教皇もまた代理人を派遣することに決め、サンタンジェロ城に幽閉中のカリオストロを代表として会議へ送り出した。ところがカリオストロは会議の席でローマ教皇を裏切り、その場を混乱させた。——カリオストロの差し金で革命派の6人の女性が議場に乗り込み、出席者たちを誘惑する。水槽(水差し?)に押し込められた君主たちの前に、影絵や恐ろしい亡霊が現れる、など。怯え、命乞いをする君主たち。と、そこへ、サンキュロットの軍隊が議場に突入し、「理性と自由こそが専制に勝利するだろう」と告げ、第2幕終了。
 第3幕——会議再開。フランスの分割を決めた君主たちが、誰がどの地方を領有するかでもめる中、大砲が轟き、フランス軍が宮殿に侵入する。君主たちは散り散りに逃げ去っていくが、間もなくサンキュロットの服を着て舞台に戻り、叫ぶ。「Vive la République!(共和国万歳)」
 フランス人たちは自由の木を植え、アンシャンレジーム体制の崩壊を喜び、歌って踊る。君主たちとピットが再び逃げ出していく中、民衆がフランス共和国と人民の勝利を叫び、幕となる。

 楽譜もリブレットもほぼ失われてしまったため、作品の全体像を把握することは難しい。ラ・マルセイエーズのほかグレトリのオペラRichard Coeur-de-lionより ”Ô Richard ! ô mon roi ! ”、革命歌La Carmagnole が劇中歌として歌われたとの記録が残されている。ケルビーニ、メユール、クロイツェルなどがいかなる音楽を書いたのか興味深い。


作品の低評価

 《王様の会議》は初演時から批判を浴び、2回の上演で「上演禁止」とされた。作品自体の完成度が非常に低かったためである。冗長なため、聴衆は退屈し、見せ場のバレエも不評であった。上演中、客席は騒然となり収拾がつかず、当局は以降の上演を禁止せざるを得なくなったとされる。
 これに加え、作品の内容自体、或いは登場人物の描かれ方に問題があったとも考えられる。このオペラの上演について、次のような証言が残されている。

「アルセナル地区の革命委員会のメンバーである市民Barrucandは、ファヴァール通りの劇場で上演中の《王の会議》と題した芝居を非難した。……その訴えによれば、悪名高いカリオストロが愛国者という神聖な称号で飾られ、共和主義者のあらゆる美徳を備えている一方で、輝かしい自由の創始者である不死身のマラーが悪意の目にさらされ、中国の影絵のような、透明な布の後ろをうろうろしている、とのことである」

 この作品は真の愛国者を侮辱し、反動的な思想を擁護する可能性のあるものとして危険視され、上演禁止のレッテルを貼られたと考えられる。 
 と、このような問題点が指摘されたにせよ、この作品は当時のフランスの社会、流行、対仏大同盟に対する市民の感情を知る上で興味深い。
 現存するカリカチュアから察するところ、ピット首相は少年、もしくは若者によって演じられた可能性が高い。ジョージ3世は狂人として登場。右も左もわからない国王の背後で人形を動かすように国王を操るのがピットという設定である。


ジョージ3世を操るピット


 内容が喜劇的であり、死者を出さない設定が見られるなど、上演演目に対する基本ルールが垣間見られる点でもまた、面白い。
 この作品は音楽史上では古楽の時代の政治的・時事的な音楽劇に位置付けられるのかもしれないが、いずれにせよ、「時代的な普遍性に乏しく、時の経過とともに忘れ去られた無数のオペラ」の一つであることに間違いはない。

 
参考:
-Le Ménestrel, journal du monde musical, musique et théâtres, du 5 décembre 1886 au 25 décembre 1887, Paris.
-Pougin, Arthur, Méhul, sa vie, son génie, son caractère: avec un portrait de Méhul, d'après le pastel de Ducreux, Fischbacher, 1893.


K. O.


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