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グリエール《ザポロージャ・コサック》Op. 64(1921)とコサックについて

レインゴルト・グリエール(1875-1956)はキエフ出身。モスクワ音楽院でタネーエフ、 アレンスキーらに師事し、作曲を学んだ。同時期にスクリヤービンやラフマニノフがモスクワ 音楽院に在学していた。音楽院卒業後、同校で教鞭をとる傍ら交響曲や室内楽作品の作曲を行った。ロシア革命後もモスクワに居住し作曲活動、教育活動に専念し1956年に他界した。
初期の作曲活動においてグリエールは後期ロマン主義時代に特徴的な「伝統的な音楽語法からの離脱、もしくはその拡張」を試みると同時に、チャイコフスキーやリムスキー・コル サコフらの影響の見られる作品を書き残した。ロシア革命後はアジア的、民俗的要素を多く取り入れた作品の作曲に尽力した。

1921 年に作曲された交響詩《ザポロージャ・コサック》 Op. 64 はウクライナの舞踊や民謡の旋律を散りばめた管弦楽作品であり、グリエールの中期以降の作品の特徴が凝縮されている。
この作品は 1926 年にイリア・レ ーピンの絵画『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサックたち』(1880年、 国立トレチャコフ美術館所蔵)の歴史的背景を描写するバレエ作品へと改作された。

レーピン『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサックたち』(1880) とは

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1676 年、ドニエプル川沿岸のザポロージャ・コサックの陣営にトルコのスルタン・メフ メト四世から「直ちに降伏して臣下になれ」との書状が届いた。コサックたちは字の書け る者にペンを渡し、スルタンに即座に返事を書いた。この絵画には、ユーモアと辛辣な言葉の入り混じる文面を口にしながら抱腹絶倒するコッサック達の姿が描かれている。
コサックを一言で表現するならば「軍役などから離脱し、自由に行動する「自由な戦士」 の集団」である。彼らは周辺地域を自由に往来し、使節や交易商人の警護に従事する傍ら、襲撃や略奪行為を繰り返した。略奪と戦闘を本業とするコサックの所持品や衣類は全て略奪品(もしくは戦利品)であったため、統一的な制服や武器は存在しなかった。ロシアのルバーシカを着る者、タタール遊牧民の衣装を着る者もあり、装着する甲冑や鎧、帽 子などの形も様々であった。この絵画にはそのようなコサックの生活習慣が巧みに描き出されている。

ザポロージャ・コサックについて

コサックにはいくつかの集団が存在するが、ウクライナ地方で形成されたスラヴ系 コサック(ザポロージャ・コサック、ドニエプル・コサック)はロシアのドン・コサックと 並び、ロシア史において大きな役割を果たした。ザポロージャ・コサックはポーランド領ル テニア(現ウクライナ)の南部ドニエプル川下流域を拠点として活動した。このコサック集 団は課税や刑罰、農奴身分からの逃亡者らによって形成され、その存在は 15 世紀末には知られていた。コサック集団はいかなる国家や領主に従属することのない「自由な戦士」として、強力な 軍事力を武器に各地で略奪遠征を行っていたが、1569 年に「ポーランド=リトアニア共和国」が誕生すると、軍人としてポーランドに登録され、自由、免 税、封建的義務の免除などの特権が与えられた。彼らはポーランド国王に従属する「登録コ サック」と呼ばれ、モスクワ公国、オスマン・トルコ、クリミア・ハン国との戦いで活躍し、 ポーランド=リトアニア共和国の国際的地位の安定に貢献した。

17 世紀、ポーランド政府とザポロージャ・コサックの関係が悪化した。その要因は様々であるが、政府によってコサック本来の海賊行為が規制されたこと、ルテニアにおいてカトリック勢力が優勢であることが正教徒であるコサック側の不満を増大させたことが直接的な要因として挙げられる。 1648 年、ルテニアの「登録コサック」出身のボフダン・フメリニツキー(1595-1657)によって反乱が企てられ、コサック軍がポーランド軍を撃破し た。フメリニツキーは 1654 年、モスクワ大公国の君主アレクセイとの間で協定を締結した (「ペレヤスラフ協定 」)。この協定によって、コサックはツァーリに宣誓し、ツァーリからはコサックの自治権が認められた。ドニエプル沿岸にコサックの国 家「ヘトマン国家」が建設され、フメリニツキーが初代首領に就任した。「ヘトマン国家」はエカテリーナ 2 世の治世に行われたドニエプ川地方の改編によってロシアの直轄領とされ、ロシアに吸収される形となった。それに伴い、首領の役職も廃止された。

ザポロージャ・コサック関連音楽について

このように、ロシア史(及びポーランド史)において大きな役割を果たしたコサックは後世、文学、美術、音楽などの分野において題材として取り上げられた。音楽分野ではコサッ クを主人公とする歌劇やオペレッタ、コサックの歴史やそれに関連する文学、絵画などから 着想を得た管弦楽作品などが創作されている。
ロシア(含ウクライナ)の作曲家の作品として、 Semen Hulak-Artemovsky (1813–1873)の音楽劇《ドナウ川を超えていくザポロージャ・ コサック Запорожець за Дунаєм》(1863)、コンスタンチン・ダンキェヴィッチ(1905-1984) のオペラ《ボフダン・フメリニツキー》(1951)、チャイコフスキーのオペラ《マゼッパ》、 グリエール《ザポロージャ・コサック》Op. 64、ダンキェヴィッチ《ボフダン・フメリニツ キー組曲》(1941)、セミョーン・クリモフスキー 民衆歌《コサックはドナウ川を越えて行く》などが挙げられる。
ザポロージャ・コサックはスラヴ地方やオーストリアにも影響を与えたため、他国におい てもその存在は伝承として語り継がれた。そのため、ドイツ語圏やその他の地域の作曲家 (リスト、モニューシコ、ドヴォルザーク、レスピーギなど)によってもまた、コサックをテーマとする作品が書かれた。

グリエール《ザポロージェ・コサック》Op. 64鑑賞のヒント

グリエールの作品は 4 つの部分より成る。
1. スルタンからの書状を受け取ったコサックたちの胸に去来する様々な思い(自尊心、怒り、決心など)が表現される。
2. コサックたちが返答を書き、それを読み返す様の描写。
3. コサック・ダンス
4. 愛国的な旋律によってコサックの不屈な精神が描写される。
演奏時間およそ18分


追記:ザポロージャ・コサック関連人物:ラズモフスキー侯爵

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アンドレイ・キリロヴィチ・ラズモフスキー侯爵(1752 -1836)はザポロージャ・コサックのヘトマン(首領)であった父とロシア皇帝エリザベータの従弟エカテリーナ・ナルシュキナを両親に、1752年に誕生した。1792年、フランス革命戦争勃発直後のオーストリアにロシア大使として赴任し、ナポレオン戦争時、1815年のウィーン会議において主要な役割を演じた。
音楽好きであったことから、自ら弦楽四重奏団(シュパンツィヒ弦楽四重奏団)を結成し、演奏活動やパトロンとしてウィーンの音楽界で活躍した。ラズモフスキーの親しい音楽家にベートーヴェンがいる。1806年にベートーヴェンはラズモフスキー公の依頼により《弦楽四重奏曲ラズモフスキー》(3曲)を作曲した。弦楽四重奏曲第8番Op. 59-2は四楽章のソナタとして書かれている(1楽章にソナタ形式、2楽章アダージョ、3楽章スケルツォ、4楽章ロンド・ソナタ形式)。ベートーヴェンはラズモフスキーの要望に従い、3楽章の中間部に非常に有名なロシアの祝祭の旋律を取り入れている。

Beethoven: String Quartet No. 8 in E Minor, Op. 59, No. 2 "Rasumovsky" - III. Allegretto



文:Kazumi Oshima ※本文はロシア芸術の講義ノートをもとに構成されています。


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