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「8月15日」【エッセイ】二八〇〇字

今週の火曜日は、78回目の「終戦の日」。
この78年間、日本で戦争になることも、巻き込まれることもありませんでした(“朝鮮特需”なんて、隣国の戦争によって経済発展したという皮肉なことがあったにせよ)。(「戦争」はなかったという)「平和」に感謝する日でもあります。

しかし過去を振り返れば、平和が失われるのは簡単なことでした。「知らぬ間に、戦争になっていた」のです。いや、「知らぬ間に」ではなく、「ぼんやりしていたら」という言葉が正しいかもしれません。

半藤一利さんは、『墨子よみがえる』で、こう述べています(他の著作でも触れている言葉ですが)。
「戦争は、ある日突然に天から降ってくるものではない。長い長いわれわれの『知らん顔』の道程の果てに起こるものなんである」と。
だから、平和を守り通すためには、「ぼんやり」していられないのです。老い先短き前期高齢者ながらも・・・。

                 ※
78回目の「終戦の日」を前にした8月8日。政権与党のNo.2である麻生太郎自民党副総裁が、台湾訪問の際の演説で、(「台湾海峡で有事とならないよう」という前置きをした上で)「台湾有事に『戦う覚悟』が必要だ」「防衛力を、いざとなったら使う」と言ったと、報じられた。

日頃の「オレ様」目線のお方の発言からすると、「『戦え』と言うのはオレ。戦うのはアンタら(日本国民)」と聞こえる。いまのわが国リーダーとは違って、ある面で分かりやすいおひととも言えるのかもしれない。No.2なのだから、政権与党の多くの議員の本音を代弁しているとも言える。

麻生氏の「ワイマール発言」(2013年7月29日。同年8月1日に撤回)
10年前の憲法改正をめぐるシンポジウムで「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」

ようするに、「戦争にならないようにするために、『抑止力』が必要で、その抑止力のひとつとして『戦う覚悟』を示すことだ」と語ったわけだ。それは、日本国民に対して、そして台湾のリーダー・蔡総統と台湾の人たちに告げたことになる。と同時に、中国に対してでもある。悪ガキが、「オマエの態度によっては、オレはいつでも喧嘩してやるぜ」と威勢よく、相手を挑発しているに等しい。中国にとっても敏感になる8月に。
「抑止力」を信奉する人たちは、一定数、存在する。しかし、元防衛官僚の柳澤協二氏は、「軍事の抑止力は、際限なく続く」と言う。そう思う。そして、軍事力のバランスが崩れた時、戦争の可能性が高まり、(全ての戦争がそうであったように)「口実」によって戦争は始まる。なので、その「口実」を作らせないように、疑いをもたれるようなことは絶対に避けるべき。それが外交力というものではないだろうか。

しかし、政権政党No.2のお方が、『戦う覚悟』と宣った。

彼に言いたい。「オレは嫌だね。アンタひとりで戦ってくれ。そんな覚悟があるのか。そして、真っ先に戦場になるのが、また沖縄なんだぞ。そんなことも想像できんのか」と。千歩譲って言えば、麻生氏は国家のことは考えているのかもしれない。しかし、国民の一つひとつの命のことは微塵にも頭にないだろう。「国を護るためには、国民を犠牲にすることもやむを得ない」と言い始めるのではないか。「ひとつの命よりも、国家」との考え方に立つお方に、国の政治を任せておけない。「アンタ(後期高齢者だけど)が戦場で先頭に立ったとしても、オレ(前期高齢者だけど)は、ついていきません!」。

先の半藤さんの言葉にあるように、「戦争は、ある日突然に天から降ってくるものではない」。
国が戦争するために(国民が気づかぬうちに)準備する常套手段がある。
・危機を煽って団結を促す
・「国に逆らうものは『非国民』」の空気を作る
・国民が、メディアが「戦争反対」を言えなくする
・徴兵制にする
等々、個人の自由・人権を徐々に縛っていく動きである。真綿で首を絞めるように、国民を統制できるように布石を打っておくのだ。いまその恐れがあるのが、「憲法に緊急事態条項を」という主張と、思う。
「大地震のような災害の時に、スムーズに復旧するために個人の自由を一部制限する」と言われると、「うんうん、そうだよね。必要だよね」となりがち。
しかし、恐ろしいことが起こる可能性がある。
日弁連は、2022年5月2日に、このような声明をだしている。
「(抜粋)緊急事態条項は、権力分立を停止し、政府に立法権や予算議決権を認めるものであることから、極度の権力集中による政府の権力濫用の危険性が高い。さらに、人権保障を停止することから、営業の自由や財産権のみならず、表現の自由や報道の自由等、民主主義の根幹をなす人権が大幅に制限される危険性もある。日本国憲法は、過去の緊急事態条項の濫用の歴史にも鑑みて、あえてこれを設けることをせず、緊急事態には、あらかじめ平時から個別法を制定して対処するという立場をとっているものと解される」

                ※
15日のNHKスペシャル『Z世代と“戦争”』を観ました。冒頭である青年が、「(侵略されたら)もちろん、命は大事だけども命を持ったところで、自分たちの居場所を失って、苦しみながら生きることがいいことなのか。(なので戦います)」(カッコは筆者)と、話した。

ワタクシなら、こう答えたい。
「わが国が、誇れるような国(そんな国だったら、戦争はしないと思うけど)であったなら闘いますが(前期高齢者だけど)、78年前までのような日本になったとしたら、絶対に命(残り少ないけども)をムダにしたくない(しかし、その時代、戦いたくないとは言えなくなっていたのです)」

若者に聞きたい。
「戦うためには、銃を撃てなくてはならない。ある一定期間、戦うための訓練を受けなければならない。その間、行動が制限されるのです。隣国、韓国のように徴兵制を受け入れますか?」(ウクライナでは、2014年秋から徴兵制を再開していた)
そして、「(戦争としても)人を殺せますか?」
番組の中で、元自衛隊員で現在運送業をやっている20代の男性がこう述べていたのが、印象的だった。
「自衛隊員でも、人を殺せるひとはどのくらいいるだろうか・・・」

軍事力を強化することが、「平和」を守るために必要なことなのか、よく考えて欲しい。若者が中心となって世界と交流し、国が間違った方向に進まないように絶えずチェックし、その気配があったなら、「NO」と言えるようになってほしい。「ぼんやり」していたら、戦前のように「NO」も言えないことになってしまう。「恒久平和」は、努力なしでは得られないのだから。

———— ことしの8月15日に、(老い先短き)前期高齢者が思ったことでした。

※(ふろく)として、8月15日の全国紙六紙のコラム読み比べをしようかと思いましたが、長くなるので次回に。せっかく15日早朝にコンビニに走って購入したので・・・。

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