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「あなたはそのままで素晴らしい」は生きづらさの応えにならない

ウェブメディア「soar」で、浄土真宗僧侶・松本紹圭さんと株式会社inquire・CEOモリジュンヤさんが対談されていた。

テーマは?

他人の目が気になる。
嫌われたらどうしよう。
自分らしく生きるには?

というものだ。

語らいの中で松本さんは、「仏教では諸行無常といって『一切は変化する』、諸法無我といって『永遠で不変なワタシというものは存在しない』と言っています。ワタシというものは様々な縁によって、その瞬間瞬間に立ち現われるもの。だから、ずっと変わらないワタシというのはフィクションなのです」(趣旨)と言った。

これは仏教の基本思想である。「縁」という概念から「固定的な実体はない」との言い換えがなされることは多い。

不変なものはない。「外国人」は存在しない

いま私の手元にあるパソコンは、永遠ではない。いつか、朽ちる。左手にあるマグカップも劣化する。壊れる。人も成長し、老いる。能力だって事故や病で失われるかもしれない。これらは「固定」でない。

また、固定的実体という意味でいえば、「外国人」は存在しないとも言える。外国人は自国人がいて始めて生まれる概念だからだ。あなたも私も、折々に外国人「として」認識される(アメリカ人から見たら日本人は「外国人」だ)。でも、固定的な外国人は存在しない。別様に、例えば「長い」だって「短い」がなければ生まれない概念だ。

ものごとは実は、そういった「関係性」として、ある。

そして人は、そんな関係性が固定的でなく、変わりゆくものであることを心のどこかで知っていて「おそれ」(松本さんの表現)を抱いている。でも、それは直視されないことが多い。意識されないことも多い。とはいえ、いざ「衰微」「減退」「欠損」といった形で、関係性が「失われ」として現われると、人は恐怖を抱く。悲しむ。大切な人を失う、居場所を失う、周囲から拒絶される――。居ることが、あることが「あたりまえ」だったがゆえに、人は苦しくなる。その「あたりまえ」は大抵、「変わらない」ことへの憧れであり、執着の変容形なのだ。

「その『変わらない』というフィクションを人は信じたいんですよね。人間というのは習慣の生き物なので変化がこわい。今あるものや関係にしがみついてしまいます」(趣旨)と松本さんは付言する。

そんな「実体的でないもの」を「実体的だ」とみなしてこだわり執着すると、あるいは我執も生まれ、分類や区別にとらわれ、果ては「差別」にまで至る。このテーマはそんな問題にも通じている。

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変わらないことにこだわるからこその「おそれ」

かつて、湘南乃風というグループの曲「純恋歌」が流行った。そこに、こんな歌詞があった。私は、以下は男女の愛にまつわる態度を表現した名句だと思っている。

  馴れ合いを求める俺 新鮮さ求めるお前
  お前は俺のため なのに俺は俺のため

詳細な解釈は省くけれど(そして以下は一般論でもない)、男性はともすると「いつもどおりの関係」「あたりまえさに寄った関係」を求める。しかし女性はそうとは限らない。「別に、特別な愛情表現なんてなくていいけど、でも『あたりまえ』が過ぎて大事にされなくなるのは嫌」と思う。

「こんな今が続けばいいな」という関係の変わらなさへの(男性による)願望。
「折々に変化が起こり続ける」という関係の変わらなさへの(女性による)願望。

男女それぞれが、異なる「変わらないよね」を信じてそれに固執すれば、男女は相容れなくなってしまうだろう。

松本さんは言う。「全部が変化しているにもかかわらず、しがみつくから苦しくなる。手ばなせないおそれが大きな苦しみを生んでいると思います」

では、そんな「おそれ」とどう向き合えばいいのか。どうすれば、例えば「他人の目を気にせず自分らしく生きられる」のだろうか。

私は思う。

あなたは「おそれ」を持っている。
まずは、その「おそれ」を、恐れずに語ろう。
そして「長く続いてきたもの」に触れよう。
文化でも自然でも古典的な著作でも、何でもいい。
人間が感じる「変化」が些細だと感じられるくらい長く続いてきた(ように見える)ものに触れた時、人は「おそれ」を相対化できる。

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仏教――虚飾を脱ぎ捨てて素っ裸になれ

それから、もう一つ大切なことを提示したい。

人は大抵「周囲から求められるキャラ」を演じている。それが重荷になっている人は結構いる。これは案外つらい。

大乗仏教の国ともいわれる日本では、「みなが本来、仏である」という理念を割と共有している(たぶん、なじみのない人も多いと思うが)。一神教は「神になる」とは考えない。他方、大乗仏教は「仏になる」と考える。仏を目指す。仏とは何か? 素敵な人格をひとまずは想像してほしい。

ただ、「じゃあその『仏さ』を発揮するにはどうしたらいいの?」という問いに対する解答は、おもしろいことに宗派ごとに違っている。例えば法華経を信奉する人たちの中には、「自身が仏」という前提の上に、使命とか生きる意味とか経験とか、色々なものを積みあげていきながら(信仰実践を重ねつつ)「つけ足して」「足し算で」仏を目指す。

一方、禅宗では、人間から、使命とか生きる意味とかをはぎ取っていくよう促す。そうやって何もかもを捨て去った先に残るものが仏だ、と言う。禅僧・慧能がそれを「本来無一物」と表現した。

慧能が言ったのは、こういうことだ。――本来、人は仏なのだけれど、いろんなものを背負い込んでいくうちに、それが見えなくなってしまうのです。背負っているものを置いてみてください。で、自分を丸裸(無一物)にしてみてください。すると人は本来の力を現わせるようになります。坐禅をして、着ぶくれた余計なものを脱いでいく。それが禅の修行です――。

つまり、禅は「引き算で」仏に迫っていくのである。

もちろん「足し算」「引き算」どちらにも一長一短がある。だが、もしあなたが「周囲から求められるキャラ」を演じて、疲れていたり、苦しみにあえいでいるのなら、禅のようなアプローチも良いかもしれない。

ともあれ「らしさ」への道は塞がれてはいない。まずは安心してほしい。

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