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"洋楽" は世界への扉だった

僕が子供のころ、洋楽は世界への扉だった。

メタル馬鹿一代だと思われていそうだけど、いや実際メタル馬鹿一代なんだけど、子供のころは図書館や近所のゲオのレンタルコーナーでそれこそ "A" の欄からあらゆる洋楽全般を聴き漁っていった。

そのすべては、好奇心のなせる技だったと思う。精神的に向上心のないやつは馬鹿だなんて K も言っていたけれど、ありがたいことに僕はアホだけどバカではなかった。

"邦楽" と呼ばれる音楽もたくさん聴いてはいたけれど、やっぱり "洋楽" と呼ばれる音楽の方が "こんなのはじめて…" と感じる頻度が途方もなく多かったから。

当たり前だと思う。人種も文化も言葉も宗教も違う人たちから吐き出された音なんだから。慣れ親しんだ "日本の" 音とは全然違っていて当然だ。そんな "違い" がたまらなかった。心から魅了された。

圧倒的な物量も好奇心を加速させた。僕はゲームなんかをやっていても、終わりがみえると途端に興味をなくしてしまうような人種だ。だけど洋楽は聴いても聴いてもまだまだ未知の世界にあふれていたんだ。そりゃそうだよね。単純に考えて、1億 vs 80億。日本の80倍の音楽と可能性が世界には眠っているはずなんだから。

Burrn! との出会いも好奇心をさらに加速させた。Kerrang! に対するオマージュなんだろうけど、日本の雑誌らしからぬ面構えがたまらなかった。北米で、南米で、ヨーロッパで、北欧で、時にはアジアで、様々な人たちが様々にメタルを聴いて奏でている。そんな事実は、さらに僕の世界に対する憧れを強いものにしてくれたんだ。"行ってみたい、見てみたい、会ってみたい、話してみたい"。まあそこには、F1 やフットボールみたいなスポーツとの相乗効果もあったんだけど。

旅に出られる年齢になると旅に出た。安い東南アジアがほとんどだったけど、長い間住んだわけではないけれど、それでも世界を自分の目で見ることで僕の小さく凝り固まった価値観やアイデンティティはいとも簡単に崩壊した。

僕は世界に出ると本当に何もできないんだ。"灰皿をください" そんな簡単なことも伝わらないんだ。なんて無力なんだろう。それでも世界のほとんどは、意外に優しくてわかろうと努力してくれる。でもちょっと油断すると盗まれそうになる。英語じゃなくてその国の言葉で話しかけるととても嬉しそうな顔になる。最初は吐きそうだった料理も慣れれば美味しく感じてくる。それにしても、こんなに貧しくて臭くて汚いところでなんであんなに楽しそうに笑えるんだろう。楽しいって何なんだろう…生きるってなんなんだろう…幸せってなんなんだろう…みんななんて澄んだ目をしてるんだろう。

いろんな場所で音楽が流れていた。それは壊れかけのラジオだったり、ベコベコのテレビから流れる MTV だったり、その辺で寝っころがって歌ったり、弾いたり、踊ったりといった原始的なものだったけど、もっと根本の部分で日本よりも生活の中に音楽が根差している、そう感じたことは本当に多々あった。セブ島かどっかで、転がってたギターで適当に OASIS を歌ったらその辺のみんなが手を叩いたり踊ったりしながら一緒に歌い出したことがある。歌詞なんて適当もいいところだけど、本当に楽しそうに。あぁ、これが音楽なんだ。なんかいろいろ勘違いしてたなあ…って。

もちろん、トラブルもたくさんあった。汚職ポリ公に不当に拘束されたり、シャワーから赤い水しか出なかったり、ベッドに拳くらいのダンゴムシが這い回っていたり、隣の部屋のヤクザに拳銃を売りつけられそうになったり、エッチなお店で女の子だと思ったら男の娘だったり、川から人の腕がドンブラコしてきたり、生ガキが美味すぎて食べまくりお金を使い果たして泣きながら日本人を探して帰りの飛行機代を貸してもらったり。今考えるといい思い出なわけはない。

嫌なことも恐ろしいこともあったけど、それでも、海外で様々なものを見聞きし、体験したこと。多様な価値観を身につけられたことはきっと人生の宝物になっている。こんな生き方でもいいんだ。違ってもいいんだ。日本の価値観に縛られる必要なんてないんだ…ってね。

残念ながら、00年代の終わりくらいから、海外に行く若者は減っているらしい。ちょうど時を同じくして、邦画と洋画の人気は入れ替わり、洋楽を聴く人たちもどんどん減って邦楽が日本の音楽市場のほとんどを占めるようになった。

僕は、邦画や邦楽自体に文句があるわけではまったくない。映画にかんしては邦画だろうが洋画だろうが、そもそもたいてい45分を過ぎるくらいからタバコを吸いたくなり、1時間を超えるとプスーッと寝てしまうことが大半なのでなんとも言えない。

邦楽は、僕は V系にまったく馴染めなかったし、作品を全然出していない X が神格化されているのもなんだかなあ、普通に ANTHEM や ZIGGY のほうがスゴいでしょ…とは思うけど、それでも心から愛しているアーティストは沢山いるし、若い人たちもそれぞれ個性を発揮していて素晴らしいと思う。だけど論点はそこじゃなくてね。最近、日本のいろんなアートが、受け取る側も含めて、すごく内々で完結してませんか?って思うんだよね。

たぶん、ネットの普及で海外に行かなくても行ったような感じになっちゃうんだろうな。だから海外のアーティストに対してロマンを感じることもない。実際は、行かなきゃまったくわからないんだけど。空の色、風の音、空気の匂い、人の熱量。日本とは全然ちがうんだけど。

それに、どっかの豚が会えるアイドルなんてやり始めたのもクソだったと思うよ。遠くの才能より近くの仲良しみたいな空気が日本を覆っていったよね。実際は会えたって何の意味もないんだけど。そうやって、いろんな場所からいろんなものを吸収しようって人より、ただ一人の日本のアーティストに全てを捧げるって人が漠然と増えていったのは残念だったな。そうして SNS でつながって、肥溜めのような自己顕示欲を満足させる。みんなと同じって安心感を金で買う。海外だと言葉の壁もあるし、距離の壁もある。日本のアーティストで完結する方がお手軽でよっぽど簡単だ。

そうなんだよね、何というか、日本はアニメに支配されているよね。文化的な二次元化だよ、これは。三次元の世界よりも、多様な音楽の海よりも、平面のスマホの画面や特定のアーティストのみを信じて崇拝してしまう。そうして非常に画一的な価値観が構築されてしまう。コロナで海外のアーティストは日本に来れなくなった。ますます、文化的鎖国が伸長してしまうよね。まあ、日本という国自体の右傾化も深く関係してるんだろうけど。

ただでさえそんな状況なのに、メディアはそれを後押しする。僕の好きなメタルの世界にしても、様々な媒体で日本のアーティストを扱う比率がちょっと異常なくらい増えてきた。いつからか、人間椅子や聖飢魔IIのほうがおそらく ANGRA くらいのバンドより売れるようになったのだろう。それ自体はとてもうれしい。まあ、日本人の総オタク化とも連動していそうだけど。ガールズ・メタルのような存在ならばなおさら売れる。要はそのアーティストのものなら何でも欲しいという心中型の固定ファンがいるかどうかだ。

もちろん、心から、絶対に掲載すべきアーティストだと思っているなら素晴らしいことだと思う。でも、日本偏重で海外の超新星が脇に追いやられるとしたら?伝えるべきムーブメントが既読スルーされるとしたら?グランジの時のように、また日本人の優れた感性云々な謎の洗脳が行われるとしたら?何より、若者がもう追うのは国産バンドだけでいいやって小さくまとまってしまうとしたら?

要はバランスなんだけど、どこかに商売だからとか、売れなきゃ意味がないとか、売れるものが正義とか、こっちの方が簡単に儲かるとか、そんな銭勘定が絡んではいないだろうか?だとしたら全部嘘だ。

嘘は誠にならないし、きっとずっとは続かない。何処かから綻んでくる。かつての Burrn! のように、世界に目を向けさせてくれるような媒体は、今の若者にはないんだろうか?だとしたら、悲し過ぎるよね。まあ今でも ALICE IN CHAINS を無下に扱ったことに対しては毎日深夜に丑の刻参りをするくらい恨んではいるけど。

僕が Marunouchi Muzik で日本のアーティストを扱わなくなったのはその辺に理由があるのかもしれない。自分でもよくわかっちゃいないんだけど。まあ一つは、僕がやらなくても誰かがやるってのはあるだろうな。僕より日本のアーティストに詳しい人はゴマンといる。あとは、交渉がめんどくさい。海外のアーティストなんて、"Is it OK?" "It's OK, Send me!" これで終わりだ。なんか日本のアーティストは大抵めちゃくちゃめんどくさい。僕はめんどくさいのが嫌いだ。テストの見直しも一回もしたことがない。即教室を出ていたクチだ。めんどくさいのとエッチぃのはキライです。

でもやっぱり、一番の理由は若い人たちに海外に目を向けて欲しいから。きっとここなんだろうな。今の日本のメタル・メディアはもう、ハナから若い人を見てないだろうから。メタルの "延命措置" にさえまったく興味がない。ただ、そこにいて、死にゆくメタルを傍観しているだけだ。1000円以上する雑誌なんて、中学生や高校生はなかなか買えないよ。1000円あったら、サガミの0.01を買うよ。だからまあ、もう少しやるよ。お金もとらないよ。一人でも多くの子に、新たに生まれたメタル・ソルジャーに、世界は思ってるよりもずっと、ずっと広いんだって感じてもらえるように。自分の目で世界を見たいと思ってもらえるように。




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