「どうせ死ぬなら 好きなこと」~休職日記③~
してから死にたいなって思う。今通帳残高と財形ある分でなにができるかな。
やりたいこと
歯の矯正したいけど、2、3年はかかるし、今すぐに華やかにできることしてみたい。
死にたいなんて簡単に言うけど、そんなこと怖いしいたいし、出来ない自分がいるのは知っていた。
でも吐き捨てると安心した。溜息みたいなものだ。
美容皮膚科でいい値段の施術をした。やりたかったことのひとつだった。
肌の調子がすこぶるいい。歴代最高。
でも適応障害でおうちに引きこもり。人と会ってもマスク。肌見えないやん。
でもいいの、鏡の前の自分が喜んでるから。そう思うことにする。
さて、他にすぐやりたいことが思いつかない。困った。行きたいところも今はコロナだしどこにも行けない。
お恥ずかしながら、適応障害で病休してる間、Googleで”死にたい”と検索することが増えました。(大体一番上にいのちの電話が出てくる)
適応障害というか、これは鬱になってきてるんじゃないかなぁ・・・と考えています。
無理しすぎました。もっと早く休んじゃえばよかった。会社なんて私1人いなくても回るのに。でも本当はみんなに迷惑かけるからより、病気休暇入ることで自分がどう見られるかの怖さもあったんだと思います。
死にたいなって考えるとき、「あ、どうせ死ぬなら好きなこと全部やりたい!」と思いました。
でもでも
___死ぬまでにやりたいことってなんだ?
そんなにやりたいことって私あったっけ。
ないから、むしろそれを選択してきて今ここなんじゃないか。
とも思いました。
自分の可能性とは
この記事の抜粋。
その気になれば実現しそうな理想ですら、「いやいや無理だよ~」「そこまで本気じゃないし(笑)」と諦めて、笑いながら「いいなぁ」と言い続ける。多数派への忖度に慣れすぎていて、自分の可能性を信じられない思考回路になっているみたいだ。
諦めることがあまりにも当然だから、「なんであいつは能天気に夢を追いかけているんだ」「そんなの失敗するに決まってるからやめておけ」と他人の可能性も奪いたくなるのかもしれない。自分だって諦めたんだから、お前も諦めろ、と。
だから多数派も少数派も、みんな息苦しい。
ありきたりな着地点ではあるけど、やっぱり「こうあるべき」を減らすことが大切だと思う。というか、「こうありたい」ならともかく、「こうあるべき」なんてだいたいの場合が個人の好みや希望、気のせいでしかない。
たしかに自分の可能性を信じることができなかった。
休職して、じゃあこれをやってみよう、やってみれば、などと言われてちょっとかじるも、ああ、私にはできない、の繰り返し。
そもそもできなくて当たり前だ。物事を達成させることはぽっとではできない。簡単ではないから。
例えばダイエット。すぐには痩せない。炭水化物抜きダイエットをして一時的に痩せたとしてもそれはまやかし。すぐにリバウンド。
しっかり痩せるには、適切で栄養がある食事管理と運動だ。生活習慣を変え、それを継続することが痩せることで大事なのである。
仕事や才能もそうだ。
器用な人はすぐに容量を得てできてしまうかもしれない。でもそれは表面上だ。特に私なんか不器用な人間は人の何倍も努力しなければならない。
やりたいことがあるなら、目標を決めて継続しよう。継続してなにか得れるかどうかは努力して継続した人にしか見えない景色だ。
毎日休んで模索している自分が今日は好きかもしれない。生きてる限り可能性は無限大だ。
明日にはどう思ってるかわからないけれど。
でも確かにいまここ、少し生きている私がいる。
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