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これがnoteで日々読める名文! 元文筆業(笑)が解説します

【朝の歓び、読み続けずにはいられない】

 私は一昨年来、まだ暗いうちに起き(夏至前後は結構明るくなっていたこともありましたが)、夜は早く寝る生活を続けています。
 そんな私の早い朝を、日々すっきりと励起させてくれるものが二つあります。
  ひとつは朝食後の濃いめのブラック・コーヒー、そしてもうひとつが、これから述べるナオコさんの文章です。これが、素晴らしい。
 noteの別の記事にも書いたのですが、私はどえらいものを見つけてしまいました(「どうして見つけられたのか」ということはのちに述べます)。
 私は毎朝のコーヒーが止められないのと同様に、これを読み続けずにはいられなくなっています。
 ナオコさんは1973年生まれ。静岡県在住。二年ほど前からお仕事はされていません。
 では、ナオコさんが公開された文章を引用してみますね。

【脱帽するしかない、完璧な表現力】

「入院中の父は、工房に行って創ってきたものを、プレゼントしてくれた。さるすべりの木のトレイは、腕時計を置いている。クラフト展で父が買った小さな木のりんごは、すっかりわたしの棚の上におさまっている。そんな父の背中を見ているから、わたしも同じように興味を示すようになる。父の積ん読はわたしのものになったり、思わぬ収穫がある。いつだってそうだ。
 
 (一行アキ=原文の通り)
 
 手仕事はもともと庶民のもの。庶民の暮らしからはじまった。そんなことが、いつまでもわたしの中で残ってゆく。たぶん、ずっと続いてゆく」
 
 かういふ文章だから読まずにはゐられない(コレは丸谷才一さんの文に寄せた筒井康隆さんの讃辞からの引用です)。
 
「手仕事はもともと庶民のもの。庶民の暮らしからはじまった。」
 
 これは、引用に価することを述べているのかも知れません。ですが、ナオコさんでなければ書けないというものではない(このように書いてもナオコさんに対する失礼には当たらない、と私は思います)。現に私は同様の主張をした人を十人以上知っています。
 しかし! ナオコさんの文の場合、この二文に、その前のパラグラフ(段落)、そして後の二文があるのとないのとでは、印象が違います。これは実は程度の差はあれ、あらゆる文章(きちんと意図が伝わる文章ということが前提ですが)に同様のことが言えるのですが、ナオコさんの場合はその「程度」が最大です。印象はまったく異なる、別のものになってしまいます。
「印象」イコール内容なのです。そう言いきって差しつかえありません。
 言い換えれば、伝えるべき思いや情感を、過不足の一切ない完全なかたちでまとめ上げているのです。ナオコさんの文には過剰なものや足りないものがありません。
「伝えたいこと」がほとんど完璧なかたちで表現されています。
 noteに投稿されている皆さんなら、それがいかに困難を極める、凄いことなのか、お分かりになりますよね?
 それは即ち、ナオコさんがnoteに発表されてきたものは名文である、ということです。
 
 【音楽のような文…というよりも】
 
 ナオコさんの昨年10月30日の文から引用します。
 
「今年初のつわぶきの花が咲いた。春から待ちわびた花。今、我が家の庭ではつわぶきの花芽がいたるところに出ている。どちらかといえば渋い花の部類に入るかな。花自体は黄色でかわいいけれど。何年か前に春だったか、つわぶきの茎を煮たことがあるけど、さすがに固かった。やっぱり鑑賞がいい。あと少ししたら大好きな小菊が咲く。晩秋、なんて素敵な響き。この季節のために一年があるかのように感じてしまう。わたしの勝手な思い込みにすぎないけど。そして、冬が近づいていることを知らせる、水仙の芽が出てきている。この家との出会いに感謝。大家さんと植物の好みが似ていることは奇跡のよう。」
 
 ナオコさんの文章にはリズム(律動)、メロディ(旋律)、ハーモニー(諧調=異なるしらべの調和)があります。
 音楽のような文…というよりも文で綴られた音楽です。
 そのようにコンポーズ(日本語にすると構成または作曲)された文の要諦を摑み出したり、適切に要約することなど、出来ません。少なくとも私には不可能です。
 ナオコさんご自身、「音楽と記憶」と題された文の中で、音楽が生活に必要不可欠であることを(もちろんもっときれいな表現で)打ち明けられています。その文を読むと、音楽とナオコさんの記憶、そして心のありようの結びつきがとても深く強いことが分かります。でも、それがあまりに強く深いので、「どのように結びついている」のか、私には、正直言ってぼんやりとしか理解できません。私はナオコさんのような感受性に乏しく、音楽の好みに至ってはひどく偏っているので。
 ナオコさんの音楽好きと文章表現も、きっと深いところで強く繋(つな)がっているのでしょう。
 
【読者の心潤す日々の豊かさ】
 
 ナオコさんの文章には、毎日のように使われているワードがいくつもありました。
 たとえば「白湯を飲む」「緑茶(コーヒー)を淹れる」「ヨガをする」「ウォーキング」。
「毎日のように」ではありませんが、多用されていたものに「庭の手入れ」「剪定」「カフェ」「図書館」…などがあります。
 当時お書きになっていたのは「日記」だったのですから(今は違います)、これらの繰り返しは、あたり前のことだったわけです。
 でも、何十回、何百回繰り返されても、決して飽きることはありません。
 それは、ナオコさんのお書きになるものが、文で綴られた音楽で、それらのワードも律動、旋律、諧調の中に組み込まれた必須要素だからです。こころよい音楽に心をひたしているとき、同じ楽器の同じ音階(ドとかソとか)が何千回繰り返されても飽きないのと同様、と言って良いでしょう。
 日々の三食についても簡潔な記述があり、その内容も、豊かさを感じさせてくれます。
 贅沢とは違います。特別なものではなく、凝ったこともしていないのですが、ちいさな手間を惜しまない献立が四皿も五皿も並びます。
 ふと気づいたのは、薬味としてのお決まりの使い方でもなく、食膳にしばしば、ショウガが添えられていることです。グラハム・カーさんは『世界の料理ショー』の中で、ショウガのことを「日本人や中国人は毎日使っているけど、僕は世界一の香辛料だと思うよ」と言っていました。私もそう思います。月に二度くらいしか使いませんけど。
 
【秀逸な表現力と心に響く言葉】

 ナオコさんの日記の昨年10月23日のタイトルは『料理はうつわと共に』でした。
 その一部を引用します。ただし、原文そのままではありません。①②③は、原文には存在しない、私が挿入したものです。
 
「①料理はただ口に入れればいいだけのではないから、美的にも楽しみたい。②年月を経て、食卓になじんでゆくのが楽しみ。③うつわを育てたい。」
 
 ①は、美意識をもって生活している人ならば、書けそうに思われるかも知れませんが、すでに相当レベルが高い。「美的にも楽しみたい。」という九文字にまとめた簡潔さが、見事です。告白します。私なら、同じことを伝えるために最短で二行、長ければ二十行以上(汗)費やしてしまいます。②の文は、さらに簡潔で、ずば抜けて秀でた表現力がなければ書けないものです。
 そして③。
 この素晴らしい八文字は、ナオコさん以外の人には書けません。
 つまりナオコさんは、希有なオリジナリティーの持ち主なのです。
 それでいて、不自然さがまったくありません。違和感も存在しません。巧まずして紡ぎ出した言葉がおのずと完成形になっているからです。難解さなど皆無で、「奇を衒(てら)った表現」とは対極にある文章です。乾ききった土に、優しい雨が降り注ぐように、読者の心にすっとしみ入ります。
 だからかえって、100名を越えるフォロワーの皆さんの多くは、そしてナオコさんご自身も、この表現力の真の凄さに、気づかれていないのではないかと思います。
 なお、ナオコさんは今年1月27日の文章の中で「わたしはいつもうつわの記事を書いていて何か心苦しさを感じていた」と述べられました。そして「もう今はうつわの記事は書こうとおもっていない。」と記されています。
 この日のタイトルは「モノとの関り~物質と精神」でした。
 私は十全に理解できているわけではありませんが、ナオコさんの言葉には、読み手の心の深いところに響くものがあります。
 
 【「新鮮な驚き」だった文章】
 
 ナオコさんとお母様の、お二人の食事がどうして豊かなのか、もうお分かりですね。
 それは、当時ご不在のお父様も含め、ナオコさんご一家が、日々の暮らしの中で、真の豊かさを求めていらしたからです。無理や背伸びなど一切ない、流れる雲のような自然体で。
 先に、ナオコさんの日記に記された、いわばルーティーンについて私なりに語りました。ですが、もちろんそうではない「その日の出来事」の記述に、より多くのスペースが割かれていました。それらも、とりたてて劇的なことや変わったことが書かれているわけではありません(のちにふれる例外は除きます)。特別な人(たとえば昭和天皇の侍従とかキューバの革命家とか)の場合を除いて、日記とはそういうものでしょう。
 でも、読むことを止められないおもしろさがありました。すでに引用したとおりです。
 還暦を過ぎて、ナオコさんのような文章に魅せられたのは、私にとって言葉に表し難いほど、驚くべきことでした。
 なぜならば、私は「日常生活をありのままに綴った文」(日本で名随筆と言われている作品は、そうした内容のものが実に多くを占めています)を、まったく好んでいなかったからです。今でもそうです。
 私の感性(偏屈な好みと言い換えても差しつかえありません)は、何も変わっていません。
 ナオコさんの文章、ナオコさんの才能が特別だったのです。
 おのずと表出されているみずみずしさに、私の心は潤います。

【「#精神障害」で検索した私】

 ナオコさんは精神障害者です。
 ご自身がプロフィールにそう公開していらっしゃいます。私がナオコさんの文章と出逢ったのは「#精神障害」で検索したからです。そうしたのは、私も精神障害者だからです。
 ナオコさんは、時折ご自身の障害について語られていますが、そこにも借りものの言葉がまったくありません(それを使ってしまうのが、多くの精神障害者の「自分語り」が、はまりがちな陥穽なのですが)。他の部分との違和感やハレーションもありません。どんなことに(どんなふうに)お悩みなのか、さり気ない語り口で簡潔に述べられています。
 私には、ナオコさんの障害全般については、ぼんやりとしか分かりません(精神障害のありようは人それぞれ違うので)。
 しかし、睡眠障害のつらさは、分かるつもりです。それは、私もかつて同じ障害に(おそらくナオコさんよりかなり激しく)苦しんだ経験があったからです(過去形です)。
 ですから、ナオコさんの文に「眠れた」という記述を見つけると、私はホッとします。

【ときには書くことに悩み、怖れながら】

 ナオコさんは、当初テーマを決めたエッセイのスタイルで、noteへの連日投稿を始められ、昨年9月22日に、それを日記というかたちにあらためられました。
 この日のタイトルは「日記を書くのが怖い」で、前日のエッセイは「書けなくなったことについて」と題されていました。ナオコさんは、このようにときには書くことに思い悩みつつ、ほとんど連日公開を続けられ、12月4日に「ナオコライフ」というエッセイに切り替えられました。以前のスタイルに戻ったわけではなく、思索的傾向が深まり、表現がより柔軟になったと思うのですが、日記だったときも含め、日々の暮らしや思いを綴られている点は変わっていません。
 noteに書き続けることについて、ナオコさんご自身、メンタルに好循環をもたらしている、という意味のことを何度かお書きになっています。
 私はナオコさんがよくおやすみになれるように、お悩みが軽くなられるように、と願っています。
 どうか好循環が続きますように。でも、もしも、万一それが滞って休みたくなったら、ためらわずにそうされてください。私は他のフォロワーの皆さんと一緒に、時宜(じぎ)を得た再開を俟(ま)ちます。
 
【「絶妙の構成」を自然に創り出してしまう才能】

 お気づきのとおり、引用したのはほぼ何箇月も前の文章です。私はその頃から、ナオコさんの名文についてnoteに書こうと思っていたのですが、ナオコさんの作品は、日々投稿を重ねる中で変化しています。ナオコさんは着実に新境地へと歩み続けていらっしゃるのです(その一端は本稿にも書きました)。
 その歩みには、きっと読む人すべての心の琴線に響くものがあります。
 最後に、ナオコさんの文章の中で、私が最も感銘を受けた二作品のリンクを貼ります。
 二日続けて書かれた日記の文章です。
 私はその両日、読後茫然となり、しばしデスクトップ型パソコンの前から動けなくなってしまいました。
 文中で、ナオコさんはとても重いできごとを書かれています(先に示した「のちにふれる例外」とは、この二作品のことです)。
 そのあまりの重さに、私は「スキ」を押すことができませんでした。
 この二日間の記録を、あえて作品として評するならば、タイトルと本文の関係が、見事の一語です。
 両者が相互に補完し合うことによって、渾然一体の作品となり、千万語を費やしても語り尽くせない心のありようと動きが、これ以上はない簡潔さで、短い文の中に完璧にまとめられています。
 もちろん、その絶妙の構成は、読者のことを想定してたくらんだものではなく、ナオコさんが自然に紡ぎ出した真情そのものなのです。
 そうした文章表現がおのずとできてしまう。
 ナオコさんは、驚嘆すべき才能の持ち主です。

https://note.com/note_naoko/n/n4cd57fe4e1a7

 https://note.com/note_naoko/n/n3d430c9036ce

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