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【読書】悲しみこそが人を優しくする

ひと月余りで『流転の海』シリーズを読み終わった。9巻4500ページ。それが速いのか遅いのかわからないけれども昭和22年からの20年ほどの時空の旅が終わり無事帰着。

熊吾という作者・宮本輝氏の父上をモデルにした主人公が50歳で四人目の奥さんに初めて子どもができてからの後半生を描いたこの小説は重厚長大にして深く、どちらかというと暗い。悲しみに満ちている。悲しみこそが人を優しくするということを私に教えてくれた。

それは戦後間もなくの大阪駅付近の無法地帯から始まって、舞台を愛媛の南宇和や富山に移すことはあっても戦争の影を引きずっている。貧困が蔓延して日陰で生きている人たちが大勢登場する。今の日本でも貧困が問題になることは少なくないけれどもこの小説の中では水上生活をする人々や電気や水道のないところで暮らす場面もあり時代とは言え貧しさの桁が違う。作者の言葉を借りると「平凡で平穏な暮らしなど望むことができない」人ばかりだ。

長い長いお話だけれどもそれは一つ一つが緻密で精巧でまた生き生きと描かれていて、手仕事のパッチワークを思わせる。細かくも美しいパーツをちくちく縫っていってそれを剝ぎ合わせて一枚の布を作り、それをさらにつないで大きな作品となる。芸術作品としか言いようがない。

どのエピソードもメッセージも欠くことができず、無数に存在するどの一つを取り上げてnoteの記事一本書けるくらいの重さがある。たとえば黎明期のチョコレートやゴルフ場建設のこと、正しすぎて人を遠ざける上司など。

小説の真ん中あたりで熊吾は中国人の占い師に家族三人を見てもらう。妻の房江は穏やかな老後を送ること、息子の伸仁は将来芸術家になることを予言され、熊吾には触れなかった。悪いことが見えたら何も言わないのがその占い師らしい。頭が切れ、知識が豊富で、面倒見がよく、情に厚い主人公が詰めの甘さで経理を任せた人に何度も何度も騙される。深情けのせいで女の人を捨てられない。か弱い息子が無事成人するためならすべてを犠牲にする心づもりなのに幸せにし切れなかった。作り話ではなく概ね私小説だと知って読むことがさらに胸を詰まらせる。

作家が自分の家族のことを客観的にあぶりだすことの辛さはどれほどだったかと察する。裏の裏まで描き切らないことには読者の心をとらえることは難しい。当然ながら時代の考証にもとことん拘っている。昭和のあの頃はこんな暮らしだったのかと市井の人たちの様子が手に取るようにわかり、またケネディ暗殺やベトナム戦争、北朝鮮への帰還事業などが肌感覚で盛り込まれているのも魅力である。

占い師の予言に沿うかのように文学の道で大成された息子を熊吾は空からどれだけ喜んでいるかと思う。全体的にモノトーンのグラデーションで仕上がっているような作品ながら最終巻『野の春』で素敵なガールフレンドが登場するのが伸仁の今の奥様かと想像することが一条の明るい光になっている。

幼少のころから類まれなる経験をされたことがすべての作品のもとになっていることは言うまでもない。このような大作に出会うことができたことが今年の大きな収穫で、登場人物たちに寄り添うことがどれほど心の滋養になったか計り知ることができない。これから何度も読み直したいと思う。

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