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一生ボロアパートでよかった②

 ハナがいなくなってまもなく、母は仕事を始めました。近所のスーパーのレジ打ちのパートです。私は同級生に「あそこのスーパーでお前の母ちゃん見たよ」と言われるのが恥ずかしくて、早く仕事を辞めて欲しいと思っていました。
 しかし、母の勤務時間はどんどん長くなって、朝から晩まで働くようになりました。登校時も帰宅時も、鍵の開け閉めは私の仕事になりました。どうやら違う仕事も始めたようでしたが、それがなんの仕事だったのかはわかりません。聞いてもはっきりと答えてくれませんでした。仕事と関係あったのかはわかりませんが、たまに「派手だな」と感じる服を着ていた記憶があります。
 まぁ、当時はそんな事は大して気にしていなくて、ともかく、家に帰って誰もいないと感じる瞬間がとても寂しかったです。

 一方で、父が帰ってくる時間は早くなりました。以前は夜8時9時を過ぎることもたびたびでしたが、6時くらいに帰ってくるようになったのです。帰宅後お酒を飲む時間が増えたのに、陽気になることもなく、だんまりとテレビを見ていました。たまに目が合うと少しヘラッと笑って「宿題やったか」と声をかけてきました。やったと答えれば「そうか」とだけ言って、またテレビを見ていました。酔ってもおしゃべりにならない父に違和感を感じていましたが、私の見えないところで何かが変わっている異様さは感じていましたから、私も必要以上に父にも母にも声をかけられなくなっていました。


 新築の白い家は、少しずつその異様さを表に出し始めました。
 ある日友達が遊びにきた時の事です。私は痛烈にあの家が汚いと感じさせられました。
 遊びに来てくれたのはマナちゃんとアオイちゃんでした。家に入るなり、アオイちゃんが「なんか臭いね」って言ったんです。
 私はかつて感じたことのない羞恥心を抱きました。玄関にゴミ袋があって、確かに生ゴミの匂いがしたのを覚えています。でも私は「そうかな?」と言ってはぐらかしました。

 その頃の我が家は、玄関と廊下にゴミ袋が貯まっているのが日常になっていました。ダイニングテーブルやリビングの床の上にも、ごちゃごちゃと空き缶やビン、惣菜の容器、ビニール袋といったゴミが散らかるようになっていました。脱衣所には洗濯物が溜まっていたし、キッチンにも洗っていない皿と箸が置きっばなしになっていました。
 いつのまにか、私にとってそれが当たり前の光景になっていて、感覚が麻痺していたのです。それまで大して気にならなかったのに、アオイちゃんの「なんか臭いね」の一言で、突然、恥部を見られているかのような、異常なまでの羞恥心が湧き起こりました。

 この家に友達を呼ぶ事はいけないことだったんだと、瞬時に思い至りました。私は2人をリビングに入れる前に帰さねばならないと思いました。
「今日お父さんが体調悪くて。家で寝てるの忘れてた」
 咄嗟に思いついた嘘の断り文句に、2人は訝しげに「そうなの?」と返しました。遊びに来てもらったのに理不尽に追い返そうとしている自分に嫌悪感を感じました。今思えば、あんな汚い家に友達を呼ぼうと思った自分の感性を疑います。でも、私はまだ幼くて、「なんか臭いね」って言われるまで、あれが自慢の家だったのです。

 私は早く帰って欲しかったのに、2人はハナに会いたいと言いました。2人とも犬を飼っていなかったので、ハナを飼っている私を羨ましがってくれていました。そして我が家に遊びにくると、いつもハナを可愛がりました。
 2人にハナがいなくなったことは話していませんでしたから、なんて説明したら良いかわかりませんでした。
 素直に「もういない」と言うと、マナちゃんが「えー、なんでー?」と聞いてきました。私は「わかんない」とだけ答えて沈黙しました。ハナがいなくなっているのにその理由を答えられない私を、2人は疑心の瞳で見つめていました。私は無言のまま、玄関に置いてあったヒールの高い母の靴を見つめて、この居心地の悪い時間が早く過ぎ去るように願いました。静かな時間でした。
 アオイちゃんが「じゃあ帰るね」と口を開きました。アオイちゃんは歳の割に大人びていて、察しのいい子でした。思った事をハッキリ言う子でしたけど。マナちゃんはあからさまに不満そうな顔をしていました。
 バタン、と玄関の扉が重たい音をたてて閉まりました。ドラム缶のようなこの家では、それがよく響きました。

 2人が帰った後、リビングの床に落ちている無数の黒い髪の毛を見て、最近誰も掃除をしていないと気がつきました。ハナがいなくなってから、コロコロさえやっていませんでした。
 母は土日も働くようになったので掃除機なんてかけていないし、私も掃除の手伝いをする事がすっかりなくなっていました。
 この頃の母はいつもイライラしていて、声をかけられたものではなくて、毎朝バタバタと騒音を立てながら急いで仕事に出掛けていき、ゴミ出しを忘れる事が頻回にありました。父は母が出ていった玄関に向かって「ゴミも出してないのか」と文句を言いながら、ごみをそのままにして仕事へ出掛けていきました。
 そんな風に私は、ゴミと異様な雰囲気と共に、毎朝家に取り残されていたので、家の中は窮屈に感じられて仕方ありませんでした。家にいることが苦痛に感じるようになっていたのです。

 あの一件以来、我が家に友達を呼ぶなんて愚行はすべきでないと理解しましたから、私は外へ遊びに出かけるようになりました。放課後は友達の家に遊びに行ったり、本屋や図書館、公園など自転車で行ける範囲の遊び場へ毎日順々に出掛けました。小学生のうちは友達と一緒にどこへでも出掛けられたのが救いでした。
 それに遅くまで外で遊んでいれば、先に帰宅して酔っ払っている父に「おかえり」と言ってもらえることに気付き、わざと遅く帰るようにしていました。誰かに「おかえり」と言ってもらえることは幸せなことだと思います。大して父とおしゃべりするわけでもないんですけどね。

 冬に入ってからは日も短くなり寒くなって、毎日遅くまで外で遊ぶことが辛くなりました。友達の家に毎日遊びに行くわけにもいきませんでしたから。
 私はこの窮屈で騒音の絶えない家に、自分の居場所を作らなくてはいけないと感じ始めました。
 アオイちゃんもマナちゃんも、もう既に自分の部屋を持っていたので、常々羨ましいと思っていました。しかし「皆が持っているから、私も自分の部屋が欲しい」と思ったわけではありません。断じて、そんな幼稚な欲求で自分の居場所を欲したのではありません。あれは明らかに防衛本能でした。

 父と母には「皆か持っているから、私も自分の部屋が欲しい」と嘘の理由をつけて言いました。父と母が同じ空間にいる、一日で最もレアな瞬間を見計らって、子供の私が意見を言うことは、火のついた大縄跳びに飛び込み参加するくらい、非常に勇気のいることでした。

 この頃すでに両親はろくに会話をしていませんでした。会話するのは喧嘩している時くらいです。というより、どちらかが話しかければ必ず喧嘩になっていました。基本は会話のない静かな家で、会話が始まると忽ち凄まじい騒音で満たされました。
 母は家にいる時いつもイライラしていて、モノに八つ当たりするように大きな音を立てたり、気に入らない事があると舌打ちをして不機嫌を露骨に表に出すようになっていました。私は家では静かに過ごして、余計な事は話さず、極力母のご機嫌を損ねないようにしていました。
 なので、母の賛成なしにこの家の物事を決める勇気はありませんでした。この家の実権は母が握っていると、幼ながらに理解していました。でも、母がするように父をいない存在かのように扱う事はできません。この時の私はまだ、いつか両親が仲直りして、もとの仲良し家族になれると信じていたんだと思います。だから、勇気を振り絞って、ちゃんと両親が揃っている時に話をしたんです。

 2階の3部屋は、父の寝室、母と私の寝室、物置部屋に分けられていました。引っ越してきてしばらくは、一番広い部屋にあるクイーンサイズのベットに、3人で川の字になって寝ていました。私が小学3年生になってからは、そのベットに母と私が2人で寝るようになっていました。私の部屋を新たに作るには物置部屋を空けるしかありませんでした。

 物置部屋を私の部屋にしてもらえることになりましたが、いざもらってみるとなんの喜びもありませんでした。ベットもない、机もない、ただの空間をもらったのです。

つづく

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