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寒暖差と成熟度

旅行をきっかけに何度か足を運んで大好きになった、島根県奥出雲町。

この地域は、とにかく食べ物がおいしい。あの有名な「仁多米」は言うまでもなく、とれる野菜もみな絶品だ。

その理由のひとつに、昼夜の寒暖差の大きさがある。詳細なメカニズムはよく知らないが、寒暖差の大きい地域ほど、農産物はおいしく育つらしい。

とすると、人間とか人生なんていうのも、実は同じようなものなのかもしれない。

人間生きていれば、ときには有頂天になるようなすごくいい時期もあるだろうし、出口のない暗闇に飲み込まれるような、絶望的に悪い時期もあるだろう。そしてその差が大きいほど、人間の「成熟度」は高まるのではないか。

そう言えばお釈迦さんも、若い頃は釈迦族の王子として裕福な環境で育ったらしい。そこから出家して、これ以上ないほど厳しい環境に自ら身を置き、やがて悟りを開いたという。

その環境の違い、俗世間的な価値観で言うところの「幸・不幸」が、農作物で言うところの「寒暖差」となり、人間を成熟させるのではないか。

しかしそう考えると、面白いことに、「幸福」は目的ではないことになる。それは人間の成熟の、ひとつの条件にすぎない。

でも確かにそう考えれば、すごくいい時期にも有頂天にならずにすみそうだし、すごく苦しい時期にも意味を見出せる気がする。幸福になりたいと思うのは当たり前のことだが、必ずしも幸福を「目的」にする必要はないのだ。少なくとも「自己の幸福」を目的にする必要はないと思える。

これは別に論理的な話ではなくて、自然を見ていると、自然とそんな気がしてくる、というだけの話である。しかし幸福を目指さない自然は、それでいて「われわれは自由だ」と言っている気がする。

自然という師匠の教えは、常に禅問答である。答えは教わるものではなく、気づくものでしかない。

僕のように、「ああしろ、こうしろ」と言われると気持ちが萎える「あまのじゃくな人間」にとって、これほどありがたい先生はいないのである。

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