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「魂の声」に耳をすますこと(大津秀一『「いい人生だった」と言える10の習慣』を読んで)

「人生最後の日を考えたことが、ありますか?」

この本の表紙に書かれた言葉である。

子どもの頃から、「もし明日死ぬとしたら、どうする?」なんてことはよく言っていたけれど、問題はそれをどれくらいリアリティーを持ってイメージできるかだろう。

特に現代人である僕たちは、「死」というものから隔離された社会で生活している。だから余計に「死」のイメージは具体性を伴わない。

この本では、そのような「死」に直面した人々の、具体的な事例が紹介されている。そうした事例を手掛かりに、自分や、自分の大切な人の死を、リアリティーを持ってイメージすることができるだろう。

タイトルだけを見ると、死を迎えるにあたってのノウハウ本のように見えるかもしれないが、そうではない。むしろ、死はさまざまであり、幸不幸のありようもさまざまであり、それは決してマニュアル化することはできないのだ、ということを思い知らされる。

「興味深いのは、とても幸せな人生を送ってきたかに見える方が、『私は不幸だ』と繰り返したりします。一方で、これ以上過酷な人生もないだろうと思える方が、『私は幸せでした』と穏やかな笑みを浮かべたりもします。幸せかどうかは、本人がどう思うか、ということです」

これが、死に直面した人間にとっての「現実」であり、人生という漠然とした時間の「本質」なのだろう。おそらく理想的な人生などは存在しないし、ましてやそれを評価することなど誰にもできないのだ。

そして、夫を看取り自らも終末期を迎えた女性の、次の言葉。

「夫だって、仕事では成功した人でしたよ。出世頭だったし、たくさんの人を使っていました。それでも『俺の人生は何だったのかな』ですからね。やらなくちゃいけないことをやっているだけではダメなんじゃないですかね?」

この言葉に、思わず「うーん……」と考え込まされる人も多いのではないか。「やらなくちゃいけないことをやっただけでも、十分立派じゃないか」と人は言う。僕だってそう思う。でも、そう思えない本人の心がある。

最後に著者は、ある患者さんの、「元々苦しいものを楽しいものに変えてゆく、それが人生なのだ」という言葉を引用し、その言葉に目を開かされたと述べる。人生ははかない、けれどもそれを認めたうえで、そのはかない人生を楽しく満ち足りたものにすることができるのだ、と。

人が人生を満ち足りたものにするために、他者とのあたたかい交流が大切なことは言うまでもないだろう。ただもうひとつ、僕が最近思うのは、「内なる自己」とのあたたかな交流もまた大切なのではないか、ということである。

「内なる自己」とは、「魂の声」とか「内なる自然」と言い換えてもいい。それとのあたたかな交流は「利己心」とは異なる。自己の奥にある、自己を超越した何か。全体とつながった何か。もしかすると生死さえも超越した何か。

そういうものの存在を、僕たちはつい忘れてしまう。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉に象徴される、意識を自己とする考え方では捉えることのできない「魂の声」。その声に耳をすますことが、生を充実させるための、ひとつの鍵なのではないだろうか。

矛盾するようだが、その声は、「自分」の内側から聞こえてくる「世界の声」でもあるのだ。


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