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地球人と宇宙人の間の平和を保証する普遍的な倫理は、どういうものだろうか?

米国防総省から『UFO報告書』が米議会に提出されて1か月が経過した。短期的には目に見えるインパクトは世界になかったように思えるけれど、これから現代人の世界観への影響がじわじわ及んでくるのではないかと思う。

じゃあ、どういうふうにわれわれの世界観は変わるのか、ということになると、それについては、なかなか予見は難しい。でも、過去に人類が経験した似たような状況を考えてみることで、これから現代人に同じような変化が起きるんじゃないか、と推測することはできると思う。

今日の聖書の言葉。

主は天に御座を固く据え 主権をもってすべてを統治される。
詩編 103:19 新共同訳

『UFO報告書』と同じぐらいのインパクトを経験したのが 16世紀のヨーロッパ人だったのではないだろうか。どれぐらいかと言うと、東西から挟み撃ちにされてグイグイ圧迫されるような感じだったんではないかと思う。

15世紀に西の方では新大陸が発見された。世界の知識を漏れなく網羅しているはずの「聖書」には記載が無い広大な大陸が、海の向こうに存在していて、そこには高貴な異教徒が住んでいることがわかった。

15世紀に東の方ではオスマン帝国が破竹の勢いで進撃し、東ローマ帝国を滅亡させた。「聖都」の鉄壁の守りを破ったのは、ヨーロッパ人には太刀打ちできない優れた軍事技術を持つ異教徒のトルコ人だった。

以上のような東西のインパクトに挟まれたのが16世紀のヨーロッパ人であったわけで、解決しなければならない課題は、世界観のなかに「異教徒」をどうやって位置づけるか、ということだったんじゃないかと思う。

異教徒をどういうグリッドで捕捉すればいいのか? 15世紀以前のように「信仰」を基準としていたら、クリスチャンと異教徒の間に共通項を立てることができない。異教徒だもんね。そこで着目されたのが「理性」だったのではないだろうか。クリスチャンは人間。異教徒も人間。両者を結びつける共通の項目は、信仰ではなく理性だ! ということだ。

神学界においては、ドミニコ会士のラス・カサスが「新大陸の先住民は理性を有する人間であり、ヨーロッパ人と完全に同一である」と主張した。また、ジュネーヴのジャン・カルヴァンが「古典古代の優れた技術と思想は、異教徒の理性が聖霊によって照らされていた証拠である」と主張した。

われわれはこれら(古代の異教徒に与えられた理性の光)が、神の御霊のもっとも卓越した恵みの賜物であることを忘れてはならない。神は、人類の公共の福祉のために、かれの欲したもう人々にこれをわかち与えたもうのである。
カルヴァン『キリスト教綱要』第2編2:16

こうして、すべての人間は、クリスチャンも異教徒も、神の御霊によって照らされた理性を有し、理性能力の行使を通じて、神の恩恵にあずかっていて、人類の福祉と発展は、まさに、そのような理性能力による。。。と観ることが可能になった。

次の課題は、じゃあ、普遍的な理性能力って、具体的にどういうものなの? という問いへと進み、それに応えて理性能力の持ち駒が何個あるか分析したのが18世紀のインマヌエル・カントだったのだと思う。

さらに次の課題は、普遍的な理性能力を持っていると仮定して、じゃあ、どうして国や文化や社会のなかに「相違」が存在していて、相違と相違が衝突して紛争が発生するのか? という問いへと進み、それに対してヘーゲルが示したのが、「宇宙的な理性は、歴史の中で正・反・合の弁証法的なプロセスを通じて、個々の人間の理性に発現する」という答えだったんだと思う。

で、今日の聖書の言葉になるんだけど。。。

主は天に御座を固く据え
主権をもってすべてを統治される

はたして「神」は、どのような方式で世界を統治しているのだろうか?  東西から挟撃されたヨーロッパ人が出した答えは、神は聖霊の照明により、人間の理性能力を通じて、世界を統治している、ということだった。

この説明だと、クリスチャンが統治する領域は「キリストの王国」だし、異教徒が統治する領域も「キリストの王国」だ、と言うことになる。だって、神の支配は理性能力を通じて世界の隅々に及んでいるんだから。しかも、正当な理性能力の行使という体をなしてさえいれば、人間は統治の領域を世界のどこまでも広げて良いことになる。

そういう楽観的な世界観を木っ端みじんに粉砕したのが、第一次世界大戦と第二次世界大戦だった。理性能力の絶対視から生まれたコミュニズムの暴走と、理性能力の絶望視から生まれたナチズムの暴走という両極端の衝突で、世界は焼け野原になった。焼け野原から再生された後を生きるわれわれは、理性能力を絶対視もしないけれど絶望視もしない、中庸の道を生きましょう、でないと危険だから、というジェネレーションなのかもしれない。

以上の流れをふまえて、『UFO報告書』が受領された「あと」の世界がどうなるかを想像するとしたら、次のようなポイントを挙げられると思う。

① 宇宙のかなたに発見された宇宙人の世界は、新大陸が「聖書」に明記されていないのと同様、やはり明記されていない。
② 御座から世界を統治する「神」は、どのような方式で宇宙人と地球人を等しく統治しているのか?
③ 宇宙人と地球人の間の共通項は、信仰か? 理性か? 真理か? 身体性か?
④ 宇宙人と地球人の間の共通項は、普遍的であると同時に、宇宙人と地球人の間の「相違」を説明できるものでもあるか?
⑤ そのような共通項は、宇宙人が地球に統治の領域を広げてよいことの、あるいは、地球人が宇宙に統治の領域を広げてよいことの、正当な根拠になるか?
⑤ 正・反・合という歴史のプロセスを経て宇宙理性が個人に顕現する、としたヘーゲルの歴史観は、地球限定か、それとも、宇宙に拡大し得るのか。
⑥ 共通項が仮定されたとして、それを絶対視することによる危険、あるいは、絶望視することによる危険は、ないのか? なぜなら、絶対視も絶望視も、等しく世界を焼け野原にすることを、われわれは経験済みだから。

今の自分の考えでは、おそらく③の答えとして「身体性」を選ぶことになるんじゃないか、と思っている。

なぜなら、御座から宇宙を統治している神は、神としての在り方を捨てて、身体性をまとい、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの上に、ちいさな赤ん坊となって降り立ち、その上で、十字架にかかり復活することによって、身体性を永遠のものとして宇宙に確立したわけだから。

そこから導き出される生き方は、身体性の尊重なのではないか、と思う

あなたの身体はイエスの十字架と復活によって担保されている神聖な身体だ。だから、わたしはあなたの身体を、どこまでも大切にし、尊重する。。。

こういう倫理であるなら、地球人と宇宙人の間の平和を保証するものとして、普遍的に機能し得るのではないか、と思う。

どうでしょうね、宇宙人のみなさん?

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