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クリスマスまで、あと61日。あなたは何が欲しいですか? 自分が欲しいのは、もちろん。。。っていう話です。
コトバのチカラ、っていうのは、ほんとうにすごいものだなあ、と思う。
なんで、すごいと思うのか、っていうと。。。
たとえば、エベレスト、っていう山があるじゃん。
ヒマラヤに鎮座まします巨大な山。仏教の世界観で須弥山のモデルにもなった、あの宇宙的な荘厳さを帯びた山。。。
で、山の実体、っていうのがあるわけじゃん? 山そのもの、っていうか、実在としての山。その山そのものは、とてもじゃないけど自分の小さな認識には収まらないわけで。。。
なんでかというと。。。
だって、認識しようと思ったら、カトマンドゥまで飛んで、現地のガイドを雇って、重ーい装備品を背負って、案内されるまま山道を進んで、死ぬような思いをして、極寒の頂上に立って、記念の旗を立てる、ぐらいのことをやり抜けて、そこまでやっても、実在としての山のホンのちょっとしか認識できていないわけであって。。。
それじゃあ、と1000年ぐらいかけて、山のあらゆる表面をなめまわすように走破して、もはや未開のルートは無い、ぜーんぶ極めた、と思っても、山の内奥、その未知の巨大な岩塊の構造については、なにひとつ触れることはできていないわけであって。。。
そういうふうに、まじめに認識しようと思ったら、どう頑張っても認識することは不可能な、あの巨大な山そのものを、コトバのチカラを使えば、エベレストっていうたった5文字に押し込んで、自分のポケットに入れて、もうね、ぜーんぶ、わかったようなつもりにさせてくれる、っていう。。。
ほんと、コトバって、不思議だ。
今日の聖書の言葉。
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
マタイによる福音書 7:7 新共同訳
生きている意味も、目的もわからず、この不安な世界のなかに投げ込まれて、無力さを味わい続けている自分は、救いを求める。
救いを求める、っていうのは、自分的には「神」を求める、っていうことなんだけれど。。。
それは、よく考えてみたら、エベレストを自分の家のベランダに置きたい、っていうぐらい、大それた、身の程知らずの、道理をわきまえない、身勝手な、とてつもない願いだよね。
でも、エベレストという5文字で、あの山そのものをそっくりポケットに入れてしまえるように、いま自分は、カミっていうたった2文字でもって、神そのものをゲットしようとしている。。。
それは、よいことなんだろうか? 正しいことだろうか? そんなこと、やってしまって、いいのだろうか?
そもそも「神」を求めて祈れば、神を得られるんだろうか?
それは、カミという音素だけではなく、音素に結びつけられた概念だけでもなく、その概念が指し示しているところの、ほんとうの神の実体、神そのもの、ありてある神を、自分は得ることができるんだろうか?
それに対して、イエスは、いいんだよ、だから、ゲットしな! って言ってくれている、というふうに、自分は思う。
求めなさい。そうすれば、与えられる
探しなさい。そうすれば、見つかる
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる
存在論的に考えても、宇宙論的に考えても、そんなこと、無理に決まっている! って、自分の理性が立ちはだかる。どうして無限の存在が、おまえの極小の霊魂のポケットに収まるわけがあろうか!って。
だからこそ、自分は信じる。
永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立ってくれた。
神は、神だから、神を無限に小さくして、自分の霊魂のなかに入れるサイズにまで、なってくれた。それがイエスだ。
なので、神を求める自分の祈りは、自然とイエスを求める祈りになる。イエスよ、助けてください、って。
主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人であるわたしを、あわれんでください
このようにイエスに祈る。イエスを求める。イエスそのものを求める。
すると、イエスにおける神が来てくれる。そして、この世界で、自分と一緒に生きてくれるんだ。
わたしの父はその人を愛され
父とわたしとはその人のところに行き
一緒に住む *
クリスマスまであと61日。
註)
* Cf. ヨハネ 14:23
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