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コメント通り魔。

0.02秒ほどしか練られていない(しかもこちらの意図を少しも汲もうとしていない)であろうコメントを雑に投げかけてくるひとのことを、わたしは「通り魔」と呼んでいる。幸いなことにわたし自身はnoteを始めて10ヶ月、刺されたことは1度もないのだけれど、少し周りを見渡せばあたりは血だらけだ。だいぶ前に「コメントについて」という記事を書いたことがあるが、基本的に自分が書いた記事にコメントをいただけるのはとてもありがたいことだと思っている。読む時間を割いてもらえるだけでも畏れ多いのに、読んだ後にわざわざ感想や意見を文字にして残してくれる方々に対しては感謝してもしきれない。もともと、自分とはまったく違う人生を歩んでいる他人が書き連ねた文章を読むことがだいすきなわたしは、noteを通じて出会えたたくさんの記事とそこに添えられた想いにいつも心を動かされている。「好き!」だと思えるから、スキを押す。ただ、コメントを残すことは大の苦手で、心が動いた直後に興奮した状態で文章を書いてみたは良いものの、いざボタンを押すとなると「書き手の分身である記事を汚してしまったらどうしよう」と考え込んで躊躇う。でも、興奮して文字を打ってしまうほど「伝えたい想いが湧いてきた」ということが何よりも大切で、その想いは書き手にも届くと信じて──散らばった勇気を振り絞って、コメントを残すようにしているが、未だに慣れない。

わたしの稚拙な記事にコメントを残してくれる仏様のような方々の言葉を眺めていると、「これがわたしのためだけに書かれた」ということが信じられなくて、うれしくて、泣きたくなる。noteの素敵な特徴のひとつとして、読み手が書き手であり、書き手が読み手である、ということが挙げられるが、残してもらったコメントに触れるたびにそれを強く感じる。言葉を大切にしているひとからのコメントほどうれしいものはない。

逆に、言葉や文章を何とも思っていないひとから投げつけられるコメントは怖い。ほとんど凶器だと思う。ひとつひとつの言葉にも書き手にも書き手の想いにも敬意を払っていないコメントは、残念なほどすぐわかる。笑えてしまうほどちゃんと伝わる。ああ、わたしやわたしが書いた記事のことはこの人の視界には入っていないのだな、と。


わたしは自分が読んだ記事にコメントが残されていたら、それにまで目を通してしまうタイプの読み方をしているので、素敵な言葉が刺されて血まみれになっている現場に出くわすことが多い。通り魔なんて全員いなくなれば良いのになぁと強く願ってみるけれど、厭なものがきれいさっぱりなくなるということはたぶん、絶対に、無いから。せめて言葉を大切に扱うひとの記事とか、目に見えているもの以上の想いが乗っている記事が通り魔の目にとまらないことを願いたいと思います。


いろんな用途があると思うけれど、せめて敬意だけは持ち合わせていたい。他の人もそうであって欲しいと、願うことくらいは許されますか。

それではまた。

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